HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
島津豊久
異名・検索語:島津豊久/島津中務大輔豊久/又七郎/忠豊/島津家久/島津義久/島津義弘/島津忠恒/樺山玄佐/沖田畷/根白坂/佐土原/都於郡/小田原/朝鮮/春川/晋州/唐島/南原/蔚山/庄内合戦/山田城/関ヶ原/天正十二年/慶長五年/天岑昌運
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
DESCRIPTION
本文内容説明
島津中務大輔豊久は家久の嫡子で、母は樺山玄佐の娘。又七郎と称し、初名は忠豊。元亀元年六月生。十五歳で父に従って島原に初陣し、敵一人を討った。父没後、佐土原・都於郡など九百七十九町の所領を継ぎ、小田原にも出陣。文禄元年から朝鮮に在陣し、春川・晋州・唐島・南原・蔚山などで戦った。唐島では敵の大船に乗り込んで奪い、蔚山では負傷した。慶長四年に中務大輔・侍従に任じられ、庄内合戦の山田城攻撃でも働いた。同五年の関ヶ原では夜襲を進言。敗戦時に義弘へ退却を促し、自らは十三騎で敵中へ入って戦死したと記される。九月十五日没、三十一歳。法名は天岑昌運、石塔は永吉天昌寺にあると記す。
系譜・人物関係
家久の嫡子。母は樺山安芸守善久入道玄佐の娘。又七郎、初名忠豊。義弘は叔父。家臣戦死者名簿と雨田休三郎の附記は関連記事として区別。
奉公・役職
父没後、佐土原・都於郡など979町の朱印を得る。文禄元年より朝鮮在陣七年と記載。慶長四年三月、戦功により中務大輔・侍従に任じられたとする。
軍役・事績
十五歳で島原に初陣。小田原、春川・晋州・唐島・南原・蔚山などに出陣。唐島で敵の大船を奪う。庄内山田城では旗を奪い味方を鼓舞。関ヶ原前夜の夜襲進言と義弘への退却進言、十三騎で敵中へ入る最期を記す。
生没・法名等
元亀元年六月生。慶長五年九月十五日、関ヶ原で戦死、三十一歳。法名天岑昌運。石塔は永吉天昌寺と記す。蔚山の負傷、関ヶ原の槍疵・首の所伝を含む。
- 統合人物ID
- HP-1322
- 原人物ID群
- 11-205-01
- 氏・分類
- 島津
- 掲載巻頁
- 巻11:205
- 主題・活動
- 系譜・奉公・役職・軍役・生没
- 人物関係要約
- 家久の嫡子。母は樺山安芸守善久入道玄佐の娘。又七郎、初名忠豊。義弘は叔父。家臣戦死者名簿と雨田休三郎の附記は関連記事として区別。
- 検索キーワード
- 島津豊久/忠豊/又七郎/家久嫡子/中務大輔/侍従/佐土原/島原/朝鮮/唐島/蔚山/山田城/関ヶ原/天岑昌運/永吉天昌寺
- 公開区分
- 公開可
- 精読・確認状況
- 従来記録:精読済(今回の再精読は未実施)
- 公開判定根拠
- 従来判定を継承。新基準による個別再判定は未実施。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁精読
- 本文境界判定
- 冊子205頁上段の〇島津中務大輔豊久から209頁下段末尾の家臣名簿・雨田休三郎附記まで、修復後全10頁。先頭の細字と末尾欠落を回収。中間8頁は修復前と同一。〇印でも固有の出自・生年から始まる豊久伝として既存IDを維持。名簿・附記は共有記事、新規採番なし。
- 判読保留
- 船名、首を取った人物と子孫の所伝、名簿数名の細字は追加校合対象。雨田の名は再描画で休三郎と確認。石塔所在地は永吉天昌寺と確認。公開採用文の出自・経歴・官職・最期の記述は確認済みのため公開可と判断。本文の伝承を現代の確定事実に置き換えない。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』