島津義弘譜
慶長六年二月 / 冊子 749頁
島津義弘(惟新)譜は、慶長六年二月、義弘が中原円乗房を帖佐から京都へ遣わし、伏見で旅庵に会わせたことを記す。円乗房は御内書・本多佐渡守書状・近衛家書状を携え、島津家存続のための調略を進めた。
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慶長六年二月 / 冊子 749頁
島津義弘(惟新)譜は、慶長六年二月、義弘が中原円乗房を帖佐から京都へ遣わし、伏見で旅庵に会わせたことを記す。円乗房は御内書・本多佐渡守書状・近衛家書状を携え、島津家存続のための調略を進めた。
年月日未詳 / 冊子 757頁
島津義弘(惟新)譜は、義弘が慶長六年四月に向之島藤野村へ退居していたところ、山口直友の使者和久甚兵衛が再び下向し、徳川家康は義弘がやむを得ず西軍に加わった事情を理解して疑わないと伝えたため、帰宅したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 852-853頁
島津義弘譜は、関ヶ原後に鎌田政近を京都へ派遣し、本多正信・山口直友の神文によって島津領国と義久・忠恒の身上が保障された経緯を記す。忠恒は謝罪と和議のため上洛し、細島・播磨・安芸を経て諸取次と面会した。
年月日未詳 / 冊子 875頁
豊臣秀吉の命による薩摩・大隅・日向の島津領内の境界確定が完了し、文禄四年四月十二日付朱印状で朝鮮在陣中の島津義弘を召還したことを記す。 次の文書に朱印状本文を掲げるための導入記事で、太閤検地後の領国仕置と義弘帰朝命令の関係を示す。
年月日未詳 / 冊子 869頁
島津義弘譜は、徳川家康が伏見城へ戻って大坂の島津忠恒を召し、十二月二十八日に福島正則の先導で忠恒が伏見城に登った経緯を記す。家康は忠恒に懇切に応対し、良馬二匹と俊鷹二連を与えた。
年月日未詳 / 冊子 902頁
島津義弘譜は、関ヶ原敗戦後に宇喜多秀家が山林へ潜伏し、翌年小舟で薩摩へ逃れて庇護を求めた経緯を記す。島津家は秀家をかくまい、山口直友らを介して上方との折衝と今後の処遇を進めた。
年月日未詳 / 冊子 671頁
元和四年四月二十一日、病床の島津義弘が雨中に加治木へ到着した上使篠原七兵衛尉と対面して台書を頂戴し、家久を亭主として饗応し、翌日請書と白銀二十枚を献じたことを記す島津義弘譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 672頁
元和四年五月五日、福島正則の使者野瀬伴三郎が、島津義弘の病状を見舞うため加治木へ到着したことを記す島津義弘譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 674頁
元和四年五月十二日、中山王の使者具志川が加治木へ来て、書簡一通・唐墨十挺・菓子などを献じ、使者自身も蕉布・焼酒等を進上したことを記す島津義弘譜の記事。
六月廿四日 / 冊子 704頁
島津義弘が、家久と八郎の将軍への御目見得が無事に済み、八郎の振る舞いが賞賛されたことを喜び、今後も公儀への作法に留意するよう求めるとともに、自身の長病と療養の近況を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 706頁
元和五年七月二十一日寅刻に没した島津義弘が、春秋の隔てなく埋葬地となることや、死後も仏法の導きに従う心境を詠んだ辞世和歌二首。
年月日未詳 / 冊子 720頁
島津義弘の娘が元和五年冬に江戸から薩摩へ戻り、多年の功労により加増地二千石を与えられ、元和七年に島津久元へ嫁ぎ、慶安二年に死去したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 674~675頁
元和四年六月、伊勢貞昌を江戸へ遣わして上使への謝礼と品物を将軍家・土井利勝・本多正純へ進上し、同月二十一日には義弘の病を診るため京都の医師寿徳庵が加治木に到着したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 676頁
元和四年八月十六日、帰京する医師寿徳庵へ銀子百枚を与え、小姓以下にも銀子を与えたこと、同月二十六日には義弘の病のため富野山蓮金院が扇子・杉原紙・護摩巻数を携えて到着したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 686~687頁
島津氏の祖忠久から家久まで約二十代の継承を述べ、義弘が歴代の教えを守って忠節を尽くし、国内の戦いや朝鮮出兵で功を立て、天下泰平に至った自身の武功の概略を記したもの。
年月日未詳 / 冊子 865頁
明の神宗が豊臣秀吉を日本国王に封じるため、国王印・冠服・冊封詔書を用意し、李宗城を正使、楊方亨を副使として日本へ派遣した経緯を記す。沈惟敬も同行した。 使節は日本軍が釜山浦など朝鮮諸城から撤兵するのを待って進む計画だった。文禄・慶長の役における講和交渉と冊封使節の構想を伝える重要記事。
年月日未詳 / 冊子 868~869頁
豊臣秀吉への献上を意識し、朝鮮在陣中の島津勢が猛虎を狩った経過を詳述する。昌原付近で虎を追い、兵が負傷・戦死する中、安田次郎兵衛らが刃を振るい、忠恒も自ら虎に迫った。 虎の肉や内臓を秀吉へ進上する計画、山中での追跡と射撃、家臣の働きを伝える臨場感ある狩猟記事。戦場外で行われた虎狩りの危険と主従の行動を知る貴重な史料。
年月日未詳 / 冊子 682頁
元和四年十二月二日、松平河内守康長の妻が前月八日に死去したとの知らせを、父松平隠岐守康親の書状を携えた三人の飛脚が伊勢国桑名から届けたことを記す。
9月□日 / 冊子 740~744頁
島津歳久夫人が惟新公(島津義弘)へ、家族や周囲の人々の安否、病状・服薬、使者や贈物、返書が届かない不安などを仮名で細やかに書き送る。 お菊や武蔵殿らの近況にも触れ、歳久没後の島津家女性たちの日常、感情、親族間の連絡を五頁にわたり伝える貴重な私信。
(慶長十年)三月廿七日 / 冊子 9~10頁
島津忠恒(家久)が島津義弘(惟新)へ、安芸国高崎で三原諸右衛門尉に会い、順風に恵まれて予想より早く上洛できそうだと報じた書状。鹿児島の留守中の処置、とりわけ唐船への注意を求め、前年に秋月殿領へ漂着した唐船が江戸で問題となったことを踏まえ、各浦の唐船奉行へ指示を出したと述べる。唐人の訴えは通事だけに任せず書状を取り、大龍寺で老中衆と直接相談して解決するよう命じ、詳しくは三原の口上に委ねている。
(慶長十年)六月廿九日 / 冊子 21~22頁
小林家孝(民部少輔)が島津義弘(惟新)に、島津忠恒(少将・奥州様)が入洛後、徳川家康(大御所)から江戸下向を差し止められ、種々の厚い上意を受けたことを祝した書状。忠恒が豊臣秀頼へ礼を述べ、御前で良い待遇を受けたことにも触れる。また、忠恒が大鷹の巣鷹を拝領したことを喜び、伏見不在のためその鷹を見られなかったことを残念がる。家孝自身も鷹を絶やさず、大御所から毎年巣鷹を拝領していることなど、鷹に関する近況を詳しく述べる。
(慶長十年)八月十九日 / 冊子 29~30頁
山口直友が島津義弘(惟新)に、本助丞方が上着し、一人を添えて下着させたこと、本多佐渡守・同上野介が披露して首尾が良かったことを喜んだ書状。和久甚兵衛が先に述べた琉球人の渡海が済んだかを問い、上様へ礼を申し上げさせることを最優先とする。まだ渡海していなければ、御人数を相渡すよう先方へ重ねて伝え、それでも渡海しない場合は上意を得るよう求める。また琉球へ使者を渡して油断なく実情を究明し、本多上野介からも申し越されたこの件を島津忠恒(奥州様)と詳しく相談するよう勧め、詳細は本助丞が申し上げるとする。
(慶長十一年)三月廿七日 / 冊子 61頁
本文はNo.28と同文のため省略されている。内容は、島津忠恒(家久)が島津義弘(惟新)へ、安芸国高崎で三原諸右衛門尉に会い、順風により早く上洛できそうだと報じ、鹿児島留守中の処置、とりわけ唐船への注意を求めた書状である。前年に秋月殿領へ漂着した唐船が江戸で問題となったことを踏まえ、各浦の唐船奉行へ指示を出し、唐人の訴えは通事だけに任せず書状を取り、大龍寺で老中衆と直接相談して解決するよう命じている。詳細は三原の口上に委ねた。
(慶長六年)五月五日 / 冊子 760-761頁
安宅秀安が島津義弘に、本田源右衛門を急ぎ上京させるよう求め、詳しい事情は本人の口上に委ねた書状。
(慶長六年)六月六日 / 冊子 763-764頁
島津忠恒が島津義弘に、京都方面から来た者について伊勢平左衛門・相良新右衛門を派遣して尋問させる案を了承し、その者を義久(龍伯)へ移すことも認めた書状。
(慶長八年)四月五日 / 冊子 888頁
片桐主膳正直盛が島津義弘へ、忠恒の無事な帰国を祝い、来秋の再上洛時にはできる限り用向きを承ると伝える。徳川家康が三月二十五日に参内して今も在洛中であることを知らせ、遠路のため疎遠ながら再会と懇談を望んだ。
(慶長十一年)二月廿六日 / 冊子 59頁
秋月種長が島津義弘に、命令を受けたことを報じ、上洛準備と使者の取り次ぎを依頼した書状。内府徳川家康が今月十五、六日ごろ上京するとの知らせを伝え、河東方面の船の手配についても返答を求める。
(慶長五年)十一月九日 / 冊子 612頁
黒田如水(円清)が羽柴兵庫入道こと島津義弘(惟新)方へ、使僧への返書を喜び、井伊直政・山口勘兵衛から使者派遣の話を聞いたとして、遠路のためまず適当な使者を寄越せば加藤主計頭と相談し公儀への取りなしに尽力すると伝える。井伊直政とは特に疎意がなく、聚楽以来の交誼を踏まえて委任されれば誠実に奔走すると保証する。
(慶長五年)十一月十六日 / 冊子 616頁
黒田如水(円清)が羽柴兵庫入道こと島津義弘(惟新)方へ、相良から伝えられた島津方の者をいったん戻し、豊前から呼び寄せ次第さらに送ると伝える。表向きは逼塞して龍伯・少将から言上してもらうのがよいと助言し、井伊直政・山口勘兵衛と相談して上方での取りなしに尽力すること、立花左近への使者筋も活用することを述べる。
四月朔日 / 冊子 12頁
山口直友が島津義弘へ、島津忠恒の上洛について、琉球出兵の準備を優先するため当面は上洛不要との徳川家康の意向を本多正純から伝えられたと報告した書状。上洛を延期し、琉球の軍事行動に専念するよう求めている。
(天正13年)11月18日 / 冊子 122頁
足利義昭が島津兵庫頭(義弘)からの申し越しを了承し、忠功を尽くすことが肝要だと励ました御内書。詳しい内容は毛利輝元から伝えさせるとしており、義昭・毛利氏と島津義弘を結ぶ政治的な連絡経路を示す。
正月六日 / 冊子 385頁
島津龍伯が兵庫頭島津義弘へ新年の祝意を述べ、旧例に任せて五明二本を贈り、春中の賀儀を重ねて申し入れた年賀状。
(永禄十年)七月廿九日 / 冊子 166~167頁
島津義久が島津義弘に、先に伝えた一箇条の紛議に関して犬追物を企てているため、義弘が近日中に来る旨を当地へ早々に触れ、到着後には停止させるよう求めた書状。
(天正14年)3月23日 / 冊子 161頁
島津義久が島津義弘へ、義弘が筑前へ自ら出陣する意向を了承し、現地の反島津勢力を討つため速やかに行動するよう求めた書状。筑前・筑紫方面の帰趨を島津方へ引き寄せるため、関係者と相談して軍勢を進めるよう指示しており、兄弟間で共有された北部九州進攻の方針が分かる。
(天正14年)8月27日 / 冊子 214頁
島津義久が島津義弘との間で、互いに邪心なく協力し、違反者があれば神罰を受けると誓った起請文前書案。 豊後攻めを控えた時期に兄弟の結束を神文で確認した文書で、島津家中の意思統一を示す重要史料である。
(天正15年)2月26日 / 冊子 278頁
足利義昭が島津義弘へ、和睦成立の報告を神妙と認め、豊臣秀長の示す条件に従うよう求めた御内書。昭秀を派遣し、昭光からも詳しく伝えさせるとしており、九州征伐直前の和平工作が義弘本人へ及んだことを示す。
(天正16年)11月20日 / 冊子 422頁
桑山重晴が島津義弘へ、先日は義弘の他行により面会できなかったことを惜しみ、大納言殿のもとで義弘の仕合せが整ったことと、右衛門大夫殿が無事に下国したとの知らせを祝う。 当地の普請で多忙なため音信が滞ったと詫び、後日参上して詳しく相談したいと申し入れ、翌春には阿弥陀寺で必ず対面したいと伝えた書状。
(文禄元年)正月15日 / 冊子 528~529頁
堀内氏善が島津義弘へ新年を祝い、年頭の礼に宿所へ参上したが、前年に義弘が下向したことを知らなかったと述べる。綺羅三端を贈られた厚意に礼を言い、高麗出陣中に必ず申し述べたいことがあること、当地で用向きがあれば命じてほしいことを伝えた書状。
文禄4年3月11日 / 冊子 869頁
小西行長が、島津義弘が当地に滞在して虎狩りを行い、二頭を仕留めたことを「奇特」と称賛した書状。義弘から鹿の枝角二十を贈られたことにも謝意を示す。 詳細は七右衛門尉に伝えさせるとしており、虎狩りの成果が朝鮮在陣中の大名間で共有・祝賀されたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 119~120頁
近衛前久(龍山)が島津義弘に、年来待望していた見事で美しい猫が届いたことを喜び、自分の手元に三疋を置きたい、せめて約束の二疋、さらに一疋でもよいので必ず譲ってほしいと、娘や新造方との猫の取り合いまで語りながら繰り返し懇願した書状。あわせて早船の手配に謝し、来訪を誘う。
(永禄十一年)十一月十九日 / 冊子 203頁
島津義久が島津義弘に対し、かねて約束した祁答院の交替について、今は実施しがたいので翌年まで延期することへの了承を求めた証状。翌秋には必ず移すとして、約束に相違しないことを保証する。
天正15年6月29日 / 冊子 349~350頁
福智長通が島津義弘へ、河上大炊助ら島津家中の者が豊臣方の公領で違乱を働いているとの訴えを伝えた書状。公儀に聞こえれば重大だとして早急な処置を求め、当事者を召し連れて直接注進させるよう指示する。西田氏らへの配慮も頼み、戦後の公領統制を義弘に迫っている。
天正15年7月5日 / 冊子 350頁
佐々成政が島津義弘へ、遠路の使者と太刀二腰・馬の贈り物に厚く礼を述べた書状。秀吉本陣での対面後、秀吉が博多に滞在していたため返礼が遅れたと詫び、上方往還の際は助力すると約す。肥後在留中は隣国の義弘の指南を頼み、双方の家中に問題があれば互いに糺明しようと申し入れている。
天正15年7月20日 / 冊子 351~352頁
福智長通が島津義弘方へ、上井伊勢守と同名の右馬頭のもとに「白唐犬」と「白野牛」がいると豊臣秀長が聞き、両方を所望していると伝えた書状。両人宛の書状を伊下野殿に託して依頼したが、まだ動物が到着しないため、書状が届かなかったのか、そもそも該当する動物がいないのかを確認するよう求める。入手できれば佐土原へ届けることとし、又七殿にも取り次ぎを頼んでいる。
(天正15年)9月25日 / 冊子 355頁
日向の鷹巣に関する奉行職を島津義弘へ命じ、詳しい内容は石田三成から伝えるとした朱印状。 九州仕置後の地域支配に義弘を組み込み、豊臣政権の奉行を介して指示する体制を示す。
(天正15年)11月18日 / 冊子 364頁
本文はNo.401と同文のため省略されている。手火矢一挺の贈与に礼を述べ、肥後一揆の多くが退散し、討捕や一部赦免によって事態が収束へ向かうと報告する。毛利輝元の着陣を控え、太田藤四郎らが南関へ入り、和仁城を十余か所の付城で包囲する計画や山鹿・阿蘇への対処を島津義弘へ知らせた佐々成政の書状。
年月日未詳 / 冊子 369頁
本文は「四〇八号文書と同文につき省略」と明記される。参照先のNo.408は、佐々成政が島津義弘へ返書の遅延を詫び、和仁・山鹿方面が落ち着き、中国衆も熊本へ到着したため情勢は平定へ向かうと知らせた書状。 処置の詳細は安国寺恵瓊から伝えるとしており、肥後国人一揆後の軍事情勢を報告した同文書の重出である。
〔天正16年〕4月2日 / 冊子 383頁
豊臣秀吉が島津義弘の肥後表からの無事帰陣をねぎらい、祝儀として届いた太刀一腰・黄金十両を喜んだ朱印状。先に朱印を与えた日向衆は、現在の領主が誰であっても確実に付属させるよう命じ、領主から異議が出た場合は証拠となる墨付を取っておくよう指示する。詳細は長岡法印・石田三成から伝えるとした。
(天正16年)4月25日 / 冊子 386頁
飫肥の処置は島津義弘の指示に従うと伝え、先に使僧を介して相談した件への返事を受け取ったことを報告する。 上長入をめぐる交渉や荒廃地の処理、京都での公役・人員配置について協力を求めた伊東祐兵の書状。
(天正16年)12月18日 / 冊子 424頁
豊臣秀吉が、島津義弘が鹿児島へ無事到着したとの報せを喜び、遠路の辛労をねぎらった直書。 緞子二巻などの贈答にも触れ、詳細は石田治部少輔(三成)から申し伝えるとしている。