藤原義弘契約状
建長六年後五月十四日 / 冊子 222頁
藤原義弘が上総法橋御房に対し、臺明寺家公文所の弁済使職を補任し、寺務を執行させることを契約した状。御年貢米以下の雑物を先例どおり公文所の沙汰で納め、国衙・武家への所務も勤める条件を定める。
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建長六年後五月十四日 / 冊子 222頁
藤原義弘が上総法橋御房に対し、臺明寺家公文所の弁済使職を補任し、寺務を執行させることを契約した状。御年貢米以下の雑物を先例どおり公文所の沙汰で納め、国衙・武家への所務も勤める条件を定める。
年月日未詳 / 冊子 648頁
建武三年初頭の多々良浜合戦などで戦死した鎌田右衛門大夫清春・前田又四郎範茂らの名、戦死日、戦場を記した『殉国名藪』の記事。
年月日未詳 / 冊子 78頁
永和元年(南朝天授元年)三月十一日・二十三日、島津氏久が富山彦五郎義弘の相伝地について、斎藤六郎左衛門入道を介して将軍家の沙汰を求めたことを記す記事。
応安八年三月十一日 / 冊子 78頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、富山彦五郎義弘が相伝する島津庄日向方北郷宮丸名内の富永・成清について、京都への吹挙と沙汰を求めた書状。
応安八年三月廿三日 / 冊子 78頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、富山彦五郎義弘が相伝する島津庄日向方中郷の富山・安久名・和里木名・秋永などについて、京都への吹挙と沙汰を求めた書状。
応永二年八月十六日 / 冊子 161頁
大友親世が島津方に、今川氏の上洛・博多逗留、千葉氏の仲介による肥前小城への集結、小弐・菊池氏の動向、大内氏への連絡、赤松義弘と奥州方の合戦など九州情勢を報じた書状。
年月日未詳 / 冊子 180頁
島津国史の記事として、応永六年二月二十九日に島津元久が母崇欽禅尼の冥福のため谷山郡宇宿村の田畠・山野・浜海と水田八町を福昌寺へ寄進したことを記す。続いて、大内義弘討伐をめぐる幕府の命令、田代氏や伊作氏に関わる所領争いと元久の使者派遣など、同年の政情を載せる。
応永六年十一月三日 / 冊子 184頁
足利義満が、大内入道の謀反が露見したため討手を派遣したと告げ、鎮西の薩摩国地頭御家人に、幕府方として忠節を尽くす者には恩賞を与えると命じた御判御教書。
年月日未詳 / 冊子 300頁
応永二十四年九月十一日の松尾城・鹿児島方面の戦闘で死亡・負傷した家臣を列挙する記事。山本孫五郎らの戦死、和泉氏・蒲生氏・田代氏らの討死・負傷と、従軍者の人数を記す。
年月日未詳 / 冊子 354頁
阿多氏について、久清から忠清・経久へ続く系譜と、家久・亀徳丸・飛騨守の名乗りを簡略に示した系図記事。
天正十七年八月十日 / 冊子 395頁
島津義弘が大興寺へ、大隅国百曳内歌丸の門田合計一町五段を、天正八年に島津義久が大覚寺領として寄進した先例どおり相違なく安堵した寄進状。
長禄四年十一月廿八日 / 冊子 440頁
佐多忠成が佐多又四郎へ、薩摩国南方で宿の手勢を率い、山田を平定した忠節を認め、恩賞を与える旨を伝えた証状。
文明十六年三月九日 / 冊子 507頁
文明十六年三月九日の犬追物について、第一の手組に属する射手と各人の持足数を列記した手組。
延徳二年二月一日 / 冊子 546頁
延徳二年二月一日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者名と各人の成績を疋数で示した記録。
延徳三年三月二日 / 冊子 557頁
延徳三年三月二日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記した一覧。
年月日未詳 / 冊子 624頁
島津忠将一流の系図で、忠将の初名・通称・官途、永正十七年の誕生、母が貴久と同母であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 734頁
島津義弘の初名忠平、通称中務少輔・又四郎・兵庫頭、位階・官職と、天文四年七月二十三日の出生、母が入来院弾正忠重聡の娘であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 734頁
日新の出生年と天文四年当時の年齢、伊作での出生に関する家譜記事を掲げ、義弘出生記事との年代関係を注記する。
年月日未詳 / 冊子 742~743頁
天文年間、薩摩・大隅・日向三州の諸将が離合集散する中で起きた伊集院城攻防を記す。島津実久方と伊集院忠朗・忠栄・梅久父子らが対立し、北郷忠相・町田氏も関与した。城下戦と籠城、家臣の戦死、忠栄・梅久方の退去までを追う。
年月日未詳 / 冊子 803~804頁
天文十一年七月四日、北郷忠相が志和池へ出兵し、三口に分かれて北原方と戦った経過を記す。白坂下総守や粟野地頭の滋谷兵庫頭ら諸将の配置・戦功を挙げる一方、各口で生じた多数の戦死者も列記し、志和池方面の合戦規模と北郷方の損害を伝える。
年月日未詳 / 冊子 827頁
天文十四年九月晦日の戦いを中心に、島津方で戦死した武士の名と戦死地・状況を列記する。
年月日未詳 / 冊子 834頁
由緒書にいう市正殿を、家久公の御子忠廣で後に萬山殿と称した人物と比定する伊地知季安の考証。
天文廿一年六月廿七日 / 冊子 899頁
近衛植家が島津又四郎に、家門の旧好を踏まえて今後も疎意なく書状を交わす旨を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 918頁
『島津義弘譜』が、天文二十三年九月十三日の岩剣城合戦を二十歳の義弘の初陣として記す。義弘は父貴久の軍に属して白銀陣の守備を担い、城兵の出撃に備えつつ攻城戦へ参加し、その働きが後年の軍歴の起点となった。
年月日未詳 / 冊子 918頁
『島津義弘譜』が、天文二十三年十月二日の岩剣城攻めで義弘らが伏兵を置いたことを記す。城兵の出撃を待って側面から迎撃し、敵を城内へ退却させた戦術と、白銀陣・攻城諸隊が呼応して包囲を維持した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 920頁
天文二十三年十月十九日、貴久が二男又四郎忠平を岩剣城へ移し、城の守りと法度を任せたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 922~927頁
天文二十三年九月十二日から二十九日までの岩剣城攻防を日ごとに詳記する戦陣日記。十二日の出陣・陣取りに始まり、十三日以後の城兵の出撃、伏兵、民家への放火、火攻め、鉄砲・弓矢戦と、それに対する島津方諸隊の迎撃を追う。島津貴久・義久・義弘・忠将らのほか、伊集院・川辺・梅北・北郷など各隊の配置、船による援軍、使者の往来を記し、帖佐・焼山・白銀・岩剣城周辺で包囲線が形成・維持された経過を示す。敵味方の討死・負傷、捕虜、鉄砲の被害も日付ごとに挙げ、長期化した攻城戦の推移と各将の軍功を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 24~25頁
弘治二年三月十五日、島津貴久が蒲生城の支塁・松坂塁を攻めた。梅北国兼が諸兵を督励し、二男忠平は三尺の剣で城門を破り、城壁を越えて現れた強敵を斬って初めて首級を挙げた。退いた後、鎧に敵矢五本を受けていたことが判明し、当時二十二歳という。十月十九日の松坂落城、十一月以降の蒲生包囲と菱刈援軍も記す。
年月日未詳 / 冊子 25頁
弘治二年三月十五日の松坂塁攻撃を義弘(忠平)の伝記として記す。梅北国兼が先陣を切り、兄義久と忠平が三尺の剣を提げて城門・城壁を攻めた。敵の勇士に名乗って斬り合い、忠平が首級を得る。退却後、鎧に五本の矢を受けていたと判明したが、身に負傷したとは記さない。当時二十二歳で、これが初首だった。
年月日未詳 / 冊子 25~26頁
弘治二年三月の蒲生城・松坂方面の合戦に従軍した島津方将士を、所属や組ごとに列挙した交名。攻城戦に参加した家臣団の構成と動員の広がりを示す。
年月日未詳 / 冊子 44頁
弘治三年四月十五日、島津貴久父子らが蒲生を救援する菱刈氏の陣を攻めた記事。険阻な陣で忠平が敵将楠原某を討ち、島津軍が陣を陥れて多数を斬り、四月二十日に蒲生方が城を焼いて退去した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 44~45頁
蒲生を救援して北村境に築かれた菱刈氏の陣を、弘治三年四月十五日に島津軍が攻めた経過を記す。忠平(義弘)が楠原某と一騎討ちして首を取り、陣を攻め落としたが、自身も刀傷を負って退いた。
年月日未詳 / 冊子 45頁
弘治三年四月十五日の菱刈氏陣攻めで、尚久が忠将とともに副将として出陣した記事。険しい陣を諸軍が必死に攻め破り、敵数百人を斬り、菱刈左馬権頭が自害したと記す。
年月日未詳 / 冊子 45頁
弘治三年四月十五日の菱刈陣攻めで、樺山玄佐の嫡男・助太郎忠副が先駆けて深手を負い、同月二十八日に二十一歳で死去したことを記す。貴久がその死を悼み、長浜で荼毘の煙を見届けた。
年月日未詳 / 冊子 48頁
蒲生馬立・荒平の陣と菱刈陣攻めを回想し、樺山玄佐の嫡男・助太郎忠副が先陣で深手を負い、四月二十八日に死去したことを記す。貴久が長浜から荼毘の煙を見た情愛にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 59頁
永禄元年三月の恒吉宮ヶ原合戦で肝付勢が飫肥・庄内両軍四百余人を討ったこと、島津方の櫛間出兵、九月の島津義益の元服と犬追物を記す。
〔天文廿一年〕六月廿七日 / 冊子 60頁
近衛稙家が島津又四郎に対し、島津家の由緒は他にまさるもので今に始まったことではないと述べ、疎意なく取り計らうよう修理大夫の執成を求め、色紙を送った書状。
年月日未詳 / 冊子 63頁
島津忠平が又四郎と称した頃、豊州忠親の養子として飫肥へ移ったことを述べ、櫛間・志布志方面で伊東・肝付両氏の攻撃が続き、日置伊賀守らが戦死した状況を回想する。
年月日未詳 / 冊子 76頁
島津義弘が飫肥の島津忠親の猶子となり、永禄三年三月十九日に薩摩を発って飫肥へ赴き、防御を固めた経緯を記す。帰薩後に再び伊東勢来襲を聞くと、貴久父子の制止を振り切り、忠親との親子の契約を守るため救援へ駆けつけた。
年月日未詳 / 冊子 84頁
永禄四年、肝付兼続が宴席で鶴を供した際、島津家の鶴丸紋を嘲られたと憤り、伊東氏らと結んで五月十四日に廻城を奪取した。島津貴久・義久らが包囲し、七月十二日の竹原山合戦で島津忠将・町田忠林らが戦死したが、島津方は反撃して肝付・伊地知・禰寝勢を退け、飫肥在陣中の義弘も帰還した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 85~86頁
肝付兼続が島津氏への遺恨から伊東氏と結んで廻城を奪い、島津貴久・義久らが包囲した経過を記す。七月十二日の竹原山合戦で忠将と町田忠林以下多数が戦死したのち島津方が反撃し、飫肥にいた義弘を呼び戻した。
年月日未詳 / 冊子 86頁
肝付兼続の反乱と廻城をめぐる戦い、竹原山合戦で島津忠将が戦死したことを義弘の譜から記す。飫肥在陣中の義弘は、島津忠親の勧めもあって急ぎ帰還した。
年月日未詳 / 冊子 91~92頁
肝付兼続の廻城奪取後、島津方が曽於郡方面の安全確保を図りつつ大平・馬立・竹原山へ布陣した経過を記す。竹原山合戦で忠将が戦死し、島津方が反撃したこと、樺山玄佐の知行や陣所をめぐる処置まで述べる。
年月日未詳 / 冊子 92~93頁
肝付兼続が廻城を奪ったため島津方が三か所に陣を置き、伊東方が本城・酒谷間の鎌ケ倉から肝付を支援した経過を記す。竹原山・馬立の陣が破られ忠将以下七十人が討たれたとの注進を受け、日向方面でも対応を協議した。
年月日未詳 / 冊子 93~94頁
島津方が廻城を包囲すると、肝付方は六千余騎を集め竹原山・馬立の陣を攻撃し、島津忠将以下を討ち取った。兼続は忠将との旧交を思って涙し、島津方は一時和睦して撤陣し、飫肥の義弘も貴久・忠親の意向により帰国した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 98~99頁
真幸院の北原兼守死後、家臣団が分裂して政道が乱れ、踊城主白坂氏や栗野・吉松・吉田・馬関田が島津方へ従った経過を記す。横川城の北原伊勢介・新介は従わず、島津方は義弘を真幸院へ進出させ、伊東・相良両氏の介入に備えた。
年月日未詳 / 冊子 101~102頁
永禄五年、伊東義祐・肝付兼続の攻勢で島津忠親が飫肥・志布志を失った情勢と、真幸院北原氏の家督争いを記す。島津方は北原兼親の飯野復帰を支援し、横川城を攻略して菱刈氏へ与え、栗野・飯野方面の支配を固めた。
(永禄五年)二月廿五日 / 冊子 103頁
真幸境の雑説に対処して在陣を続けるよう老中から命じられ、義弘が支度したところ、大夫殿から独断で続行しないよう申し渡されたため、自身では判断できないとして使者を送り、蒲生美作守に詳しい返答と披露を求めた書状。
永禄五年五月吉日 / 冊子 106頁
忠平が川上経久に対し、島津家への奉公について互いに覚悟を固め、隔意なく相談することを望み、取り決めを長く他言しないと誓った起請文。
年月日未詳 / 冊子 107頁
永禄五年六月三日、横川城の北原伊勢介・新介を討つため義弘・歳久を大将として攻撃した。新納忠元・伊集院久春らが奮戦し、歳久も負傷しながら城門へ攻め入り、北原父子を討って城を陥落させ、横川を菱刈氏へ与えた。