某書状案
年月日未詳 / 冊子 2頁
龍造寺氏は長年島津方と親交していたが、相良氏が離反した際に同調したため、島津方が高来方面へ軍勢を渡して戦い、龍造寺隆信を討ち取った経緯を述べる。その後、秋月氏が強く懇望して島津の幕下に入り、神名血判を取り交わして服属関係を定めたにもかかわらず、再び変心したとして、その表裏ある振る舞いへの警戒を促す。宛先の相手が秋月氏を成敗するなら、島津方はその国の用務に協力すると約し、追って使節を派遣すると結ぶ書状案。沖田畷合戦後の九州諸勢力の服属交渉と相互不信を示す。
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年月日未詳 / 冊子 2頁
龍造寺氏は長年島津方と親交していたが、相良氏が離反した際に同調したため、島津方が高来方面へ軍勢を渡して戦い、龍造寺隆信を討ち取った経緯を述べる。その後、秋月氏が強く懇望して島津の幕下に入り、神名血判を取り交わして服属関係を定めたにもかかわらず、再び変心したとして、その表裏ある振る舞いへの警戒を促す。宛先の相手が秋月氏を成敗するなら、島津方はその国の用務に協力すると約し、追って使節を派遣すると結ぶ書状案。沖田畷合戦後の九州諸勢力の服属交渉と相互不信を示す。
巻三/冊子 33~35頁
肥後の田尻氏と肥前の有馬氏を救援し、龍造寺隆信を討った経過を記す。隆信に攻められた田尻氏の要請で島津軍が肥後へ進出するが、遠征軍は兵糧・装備が不足して一度撤退した。続いて有馬氏の救援要請を受け、新納忠堯・川上忠堅らを安徳へ送るが、深江攻撃で忠堯が戦死する。翌天正十二年、家久を大将に忠豊・彰久・忠長・忠元ら約千五百騎が島原へ渡り、有馬軍と合流した。数万とされる隆信軍に対し、家久は退却を許さず死戦を命じ、沖田畷で敵を狭隘な地形へ引き込んで撃破する。川上忠堅らが隆信の所在を突き止め、最終的にその首を得た。島津方も多数の戦死者を出したが、敵首三千余を得たとし、守山・神代などの城が落ちた。有馬氏には旧領の一部を返し、島原方面へ島津の守将を置いた。寡兵による大軍撃破と家久の指揮を強調する記事である。
天正十年~天正十二年三月二十四日 / 冊子 763~764頁
天正十年の田尻救援から翌十一年の有馬救援、さらに天正十二年三月二十四日の島原合戦までを叙述する長編軍記。深江攻撃で新納忠嘉が戦死した後、家久を大将とする約千五百騎が有馬勢と合流し、寡兵で龍造寺の大軍を破った。川上忠堅らが隆信を討ち、家久・豊久以下が奮戦して敵首三千余を得、有馬氏へ旧領の半ばを返し、日上・島原の守備を定めた。
天正十一年~天正十二年三月二十四日 / 冊子 843~846頁
天正十一年の有馬救援と新納忠嘉の戦死から、翌十二年三月二十四日の島原合戦までを詳述する聞書。家久・豊久ら島津勢約三千と有馬勢が、龍造寺隆信の四万余騎を寡兵で迎撃し、川上忠堅らが隆信を討ち取った。島津勢は幸代諸城を開かせ、有馬氏へ高来郡を返し、隆信の首を佐敷で義久が実検した後、高瀬へ送った。代賢和尚は敵味方の戦死者を弔うため千余僧を率いて島原に大卒塔婆を建立した。
天正十二年春~三月二十四日 / 冊子 846~847頁
天正十二年春、島津家久を大将、豊久・彰久・忠長を副将として三千余騎が高来へ渡り、有馬氏とともに島原へ布陣した記事。三月二十四日に龍造寺隆信の数万騎を破り、川上忠堅が隆信を討ち取って高来・島原を有馬領とし、島津軍は帰陣した。
天正十二年正月~三月二十九日 / 冊子 847~863頁
天正十二年正月から三月二十九日までの上井覚兼日記。宮崎での年頭行事と病気、鹿児島での吉書・酒宴・連歌・人事評議を経て、肥後出陣に従い佐敷へ赴いた。家久・忠長らの有馬渡海、龍造寺隆信軍の接近と三月二十四日の大勝、隆信首の到来・実検、八代移動、島原での施餓鬼計画までを日次で詳記する。
天正十一年~天正十二年春 / 冊子 863~866頁
有馬氏の島津への救援要請、新納忠嘉の戦死、家久父子らの高来渡海から島原合戦の勝利までを描く長編自記。家久らが龍造寺隆信の大軍を迎撃し、川上忠堅が隆信を討ち、深江・島原・高田など六城を開かせて有馬氏へ与えた。諸軍は佐敷で義久に謁見し、代賢和尚以下二千余僧が島原で高卒塔婆を立て敵味方を供養した。
天正十二年春~秋 / 冊子 866~867頁
島津義久が佐敷に在陣し、家久へ三千人を付けて有馬を救援させた記事。島原合戦では忠元が豊久の後見として軍勢を指揮し、川上忠堅が隆信を討ち、敵三千余を倒した。忠元・忠増と大口衆の働きで三十六人を討ち、森山・三重城など六か所を領し、忠元は同年秋に隈府地頭を兼ねた。
天正十二年三月九日~二十四日 / 冊子 868~870頁
島津義久が薩摩・大隅・日向の軍勢を率いて三月九日に出陣し、十六日に佐敷へ着陣した。義弘・歳久や相良氏と会合後、家久を大将として豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を有馬勢千五百と合流させ、深江・安徳を経て島原へ進軍させた。三月二十四日、龍造寺隆信の大軍を迎え、家久の決死の督励のもと川上忠堅らが隆信を討ち取り、敵首三千余を得た。義久は佐敷で戦勝報告を待った。
天正十二年三月二十四日~二十七日 / 冊子 870~871頁
龍造寺隆信に三年にわたり圧迫された有馬氏を救うため、家久は豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を率い、有馬勢と合わせ三千で深江・安徳を経て島原へ進んだ。三月二十四日、数万の龍造寺軍を前に家久が決死の覚悟を説いて奮戦し、隆信を討ち取って敵首三千余を得た。豊久も強敵を討ち、家久は江里口正右衛門を討った。隆信の首は二十七日に佐敷で義久の実検を受けた。