出生と島津四兄弟
天文16年(1547)の生まれとされる。後編2 No.1209の略系図は、貴久の子として義久・義弘・歳久・家久を並べ、四兄弟の末弟という位置を示す。出生の日月を直接示す記事は今回未確認で、後編2 No.297が記す天正15年没・享年四十一とも整合するため、生年は系譜・享年による比定として扱う。
人物事典 公開前試作
しまづ いえひさ / 又七郎・中務大輔・中務少輔
天文16年(1547、系譜・享年からの比定) — 天正15年6月5日(1587)
島津家久(1547–1587)は島津貴久の四男で、義久・義弘・歳久の弟。大口・大隅・日向から肥後・肥前・豊後へ活動域を広げ、文書では戦闘指揮だけでなく、城の受取、人質交換、使者、船、兵站、豊臣政権への弁明と服属後の所領安堵に関わる。沖田畷・戸次川の名将像に限定せず、同時代書状と譜・覚書・軍記の性格差を明示して読む。
BIOGRAPHY
天文16年(1547)の生まれとされる。後編2 No.1209の略系図は、貴久の子として義久・義弘・歳久・家久を並べ、四兄弟の末弟という位置を示す。出生の日月を直接示す記事は今回未確認で、後編2 No.297が記す天正15年没・享年四十一とも整合するため、生年は系譜・享年による比定として扱う。
永禄末から大口・隈城・大隅方面の譜・覚書に登場し、元亀元年には隈城地頭となった。天正3年の上京日記は、肥後・筑後・瀬戸内を経て京都・坂本・堺・奈良・伊勢を巡り、連歌・贈答・社寺・城下を観察した家久の活動を伝える。
元亀3年の木崎原合戦を含む編年・日記記事では、義弘の戦闘指揮を中心に、歳久・家久を含む一門と各方面軍の配置が記される。後世の『四兄弟の猛将』像だけでなく、複数史料で誰がどの場面を指揮したかを分けて読む必要がある。
天正4年の高原城攻めでは、家久は忠長と降伏申出・人質交換・退城処理に関与した。天正6年の高城・耳川戦では高城守備と城内からの突出が家久譜等に記され、翌日の義久感状は『昼夜軍労』を賞している。
天正8年以降、肥後への陣立・水俣方面の戦闘、相良・阿蘇・龍造寺・有馬をめぐる交渉と軍事行動に関係する。家久個人の軍略だけでなく、義久の命令、義弘らとの分担、使者・兵船・番手の運用を文書群から追う。
天正12年3月、島原半島で龍造寺方と戦った記事群は、島津・有馬の共同戦線、陣立、伏兵、戦後処理を複数の譜・覚書で伝える。家久譜だけに依拠せず、義久譜・豊久譜・上井覚兼日記等と照合する。
天正14年の豊後侵攻では、戸次川合戦の勝利後も兵糧不足、諸城の抵抗、退路確保という問題が続いた。軍記・自記・書状案は、戦闘だけでなく船の準備、捕虜の退去、使者を介した豊臣政権への弁明を伝える。
天正15年、豊臣方の大軍を前に高城・佐土原をめぐる戦いと和議が進んだ。秀吉朱印状は家久の佐土原城と本知を安堵し、義久・秀長書状は服属後の進退と公儀への従属を求める。
家久譜は野尻で秀長の饗応を受けた後に重病となり、6月5日に佐土原で没したと記す。原画像の享年は四十一と読め、既存概要の四十二とは異なる。同譜には毒を示唆する叙述があるが、6月10日の秀長書状は豊久へ急死を弔うのみで、毒殺を直接証明しない。死因は編纂史料の説と同時代文書で確認できる事実を分離する。
豊久譜は豊久を家久と樺山善久女の子とし、父の死後、豊臣政権下で佐土原領の継承が整えられた。長女は九州平定後に人質として上方へ送られた。軍略家像だけでなく、子女・人質・所領安堵を通じた家の継承として読む。
史料上の注意:原文PDF画像を優先し、御譜・軍記の叙述と同時代書状を区別した。人物名だけで叔父家久と忠恒改名後の家久を結び付けない。
IDENTITY CONTROL
叔父家久は天正15年(1587)没。甥の忠恒が家久へ改名するのは慶長11年6月17日(1606)です。没後の御譜・系譜は叔父を回顧し得るため、日付だけで除外もしません。
1587年以前の同時代文書を第一候補。没後は回顧・系譜・追善のみ。
1606年6月17日以後の同時代『家久』を第一候補。
判定:日付だけで確定せず、官途・続柄・活動を続けて照合
又七郎、中務大輔、中務少輔
米菊丸、又八郎、少将、陸奥守、薩摩守、中納言
判定:官途単独では確定しない
貴久四男、義久・義弘・歳久の弟、豊久の父
義弘子、久保の弟、光久らの父
判定:父子・兄弟・配偶者の係り受けを原文で確認
大口、隈城、日向、高城・耳川、肥後、沖田畷、豊後・戸次川、佐土原
朝鮮出兵、庄内合戦、関ヶ原後交渉、琉球出兵、近世藩政
判定:事件年代と活動地域の一致を求める
『中務大輔家久譜』でも本文人物を個別確認
改名前の記事も後世には『家久譜』へ収録され得る
判定:欄外・出典表示だけで本文人物を確定しない
附録2花押目録 No.119に島津家久名義の花押があり、貴久四男の家久と思われる
附録2 No.295~303には忠恒の花押とみられる例が掲載される
判定:No.119を叔父家久の推定例として示し、原文書・日付・署名との対応は引き続き照合する
年代、又七郎・中務官途、貴久四男・義久らの弟・豊久の父という続柄、日向・肥後・沖田畷・豊後・佐土原の活動が一致。
朝鮮・庄内・関ヶ原後・琉球・近世藩政、又八郎・少将・陸奥守・薩摩守等が一致。1606年以後は改名後家久を第一候補。
御譜名・欄外注記だけ、年代不詳の家久単独、または条件が食い違うもの。
候補 4,284件/確定 192件/保留 395件/忠恒側 3,693件/その他同名者 4件。内部のアルファベット分類記号は表示していません。
FAMILY
四兄弟・豊久の父母・長女の婚姻は『旧記雑録』原画像で確認した。母名、全配偶者、全子女と母子対応は未完の系譜照合を推測で補わない。
伯囿
家久は貴久の四男として系図に位置づく
元亀2年没
後編1 No.367・594、後編2 No.1209
今回確認した『旧記雑録』記事だけでは名を確定しない
系譜原文の追加照合対象
樺山安芸守善久女
樺山善久の娘
豊久の母
後編1 No.1398
又七郎
母は樺山善久女
元亀元年6月生、父死後に佐土原領を継承
後編1 No.1398、後編2 No.448
家久長女
母は今回未確定
天正15年に人質として上方へ送られる
後編2 No.300
太守家久公女子
母は今回未確定
島津忠清の妻となり千鶴を産む
後編1 No.1428
市正殿・萬山殿
母は今回未確定
伊地知季安考による比定
前編2 No.2518
又一郎
義弘子
後編2 No.1209
米菊丸・又八郎・少将・陸奥守・家久
義弘子
慶長11年6月17日に家久へ改名
後編1 No.897、後編2 No.1209
配偶者ごとの子女を分け、母が確認できない子は『母未確定』と表示する。
TIMELINE
SELECTED DOCUMENTS
四兄弟と次世代を図示する略系図
家久自身の移動・交流・観察を伝える長編日記
義久が家久の軍労を賞した同時代感状
沖田畷合戦を家久譜から伝える中核記事
中務大輔家久の単独発給書状
戦闘・損害・兵站・攻城を含む長編軍記
戸次川後の退去支援と豊臣政権への弁明
服属後の佐土原城・本知安堵を示す朱印状
死去日・場所・享年と毒を示唆する編纂叙述を含む家久譜
秀長が豊久へ父の急死を弔う同時代書状
豊久の父母と初陣を記す譜記事
九州平定後の長女の人質化を記す女性譜
DOCUMENTS
「家久が書いた文書数」ではなく、叔父・島津家久との関係を確定できた文書数です。保留・忠恒側・その他同名者は混入させず、原典PDFへ直接リンクしません。
質問に近い候補を全関係文書から選び、AIが文書番号と選定理由を案内します。回答は候補文書の書誌情報に限定し、下の一覧でも確かめられます。