島津忠栄譜
年月日未詳 / 冊子 214~215頁
島津忠栄の譜記事。天正二年に忠清の弟として生まれ、豊臣秀吉の西征時に人質となって細川幽斎に預けられ、小倉に滞在した。忠辰改易後は佐土原で島津豊久を頼り、その姉を妻としたが、関ヶ原後の家臣一揆を逃れて国府へ移り、龍伯公から母の領地を与えられた。高原・飯野・牛根などの地頭を務め、寛永十九年九月晦日に牛根で六十九歳で没した。
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年月日未詳 / 冊子 214~215頁
島津忠栄の譜記事。天正二年に忠清の弟として生まれ、豊臣秀吉の西征時に人質となって細川幽斎に預けられ、小倉に滞在した。忠辰改易後は佐土原で島津豊久を頼り、その姉を妻としたが、関ヶ原後の家臣一揆を逃れて国府へ移り、龍伯公から母の領地を与えられた。高原・飯野・牛根などの地頭を務め、寛永十九年九月晦日に牛根で六十九歳で没した。
(寛永五年)十二月朔日 / 冊子 73~75頁
樺山久高が、自家と父祖の軍役・知行・返地・加増の経緯を列挙し、右馬頭戦死後の処置、敷根境目の御座、春毛村・濱村などの領地、親族の奉公や処罰をめぐる事情を申し立てる。旧来の奉公と知行処分を根拠に、家の処遇を再考するよう求める長文申状。
(寛永五年)十二月晦日 / 冊子 77~78頁
島津家久が、比志島宮内少輔の仕置に際して出した命令を写した長文覚書。比志島家の過去の奉公と不始末、霧島への流罪、家族・親族の処遇、家財・知行・返地、関係者の監視や奉公先などを細かく定める。
慶長期、元和年間・元和8年9月ほか / 冊子 280頁/原整理番号 110
横川士上原氏の祖・上原少監物(のち奉膳兵衛か)から藤右衛門・藤左衛門へ続く系図。少監物は龍伯公が国分にいた時期に慶長高帳で食禄六十石、元和年間には七十五石七斗六升三合を食み、元和八年九月に東郷重位の秘訣書を受けたほか、龍伯がその宅を訪れて刀を与え、その刀を八幡宮へ寄進したと記す。藤右衛門は光久公から名を与えられ、喜入丹波が国分地頭であった時に関わる由緒を持ち、のち横川へ移ったという。藤左衛門は綱久公に従って芝邸へ上り、藤左衛門の名を賜り、二十四歳で横川の役人となった。
安永六年十一月二十一日(記文)、同月二十八日(修礼記事)、発掘は安永三年正月、後記は翌年夏五月 / 冊子 541~542頁/原整理番号 1509/整理ID 1509
穆佐郷古塚記として、安永三年甲午正月、日向州穆佐郷の悟性寺で地を掘った者が、七尺まで入って古塚を得たと記す。壙の四周に石を重ね、石䃭(石偏に感の原字)で覆い、中に大甕を置いていた。開いて見ると枯髏があり、金鈴一・香爐一もあったが、誌銘が失われ人物を識別できなかった。土地の人は以前、義天公の塚が寺にあったと伝えたものの場所は失われ、父老が見に来てその塚ではないかと考え、状況を本府へ報告した。本府は太史川上親敷と副史東郷實包を現場へ遣わし、二人が壙内を観察したが、確かな徴証はなかったとする。寺僧に元の場所で納め埋め直すことを命じ、周文の故事に従い、石を立て親敷に記させた。親敷は旧記が寺と義天公を関連付け、龍伯公譜には穆佐の仏寺に義天二字の刻があったとすることから、その仏寺は悟性寺ではないかと考える。一方、旧地は草莽丘墟となり残碑も断片で、何を証拠とするのかとの留保を述べ、事情を石に書いて観る者に示すとする。寺名には悟性寺・吾性寺の両表記がある。記文は安永六年丁酉十一月二十一日、本府太史川上親敷謹撰。続く記事は同月二十八日に義天公の木主を修め、櫝に納めて旧所へ置いたと記し、修理・栽樹の注を付す。南林寺住持泰禪和尚が焼香し、番頭平田新左衛門成政が代拝した。同寺に石碑を建て太史川上平右衛門親敷にその事を書かせたこと、翌年夏五月から義天公の斎食に毎年廩禄三石を供したことを載せる。発掘、人物比定の伝承と留保、記文の日付、木主の修礼・焼香代拝、碑と毎年の給付を分ける。後の祭祀を、出土した枯髏が義天公の遺骨と確定した証拠にはしない。
明治2年十二月(日不記)知政所 / 冊子 720頁/原整理番号 946の1/整理ID 946-1
通達留。旧浄光明寺の御高祖霊社を龍尾神社、旧日新寺内梅岳公霊社を竹田神社、旧南林寺内大中公霊社を松原神社、旧妙谷寺龍伯公霊社を大平神社、旧妙圓寺内松齢公霊社を徳重神社、旧福昌寺跡慈眼公霊社を長谷神社と掲げる。今般の社建立に伴い、社号をこの通り称する旨を神社奉行と関係先へ伝える。明治二巳十二月、知政所。六組の社号・旧地・霊社対象、義久家久注と竹田の本々注を区分し、御高祖の具体名や社殿完成・祭祀開始実績、現在の住所は補わない。
慶応3年卯11月9日、太守発駕前に佐土原侯から差上写の注 / 冊子 424~425頁/原整理番号 601の2/整理ID 601-1
祖宗以来の高恩に報いたいとして、幕府が従来の失態を悔い政権を朝廷へ返すのは国体一新の基を開く幸であり、中将の忠誠と尽力を称え、太守も早く上京してほしいと願う建言写。王制復古の公議は万代の基礎となるので、和漢古今の明君・儒師などの道理を考え、古典を通じ才能ある者を用い、諸藩の応接や広い善言を聞いて政務を至公に行うよう求める。君臣の善言採用と国の安危を論じ、千載の機会として恐れながら言上する。末注は慶応三年卯十一月九日、太守の発駕前に佐土原侯から差し上げた写とする。目録の島津忠義建言書の標題と、正文の無署名・写の差上者を区分し、忠誠や政治的称賛は本文の主張として示す。
(文禄元年)6月19日 / 冊子 572頁
浅野幸長が、梅北国兼を一揆の大将として成敗し、そのほか二百余人を討ち果たしたとの隈本からの報告を、注進状の写しとともに島津義久(龍伯)側へ知らせる。 後難を防ぐため自分たち父子の軍勢を肥後へ向かわせたとも述べ、梅北一揆鎮圧直後の軍事措置と情報伝達を具体的に示す。
文禄3年5月5日 / 冊子 784頁
寺沢正成が、義久と名字が続く限り親交を変えず、島津家のため公儀で奔走すると誓う。将来九州諸将の状況が変わっても島津家に奉仕することを約束し、偽りなら神罰を受けると記す。 島津家との長期的な同盟・支援を神前で保証した起請文前書。
六月十九日 / 冊子 420頁
石田正澄が島津龍伯へ、大明との和睦に伴う朝鮮での通詞を勅使に付けて釜山浦へ渡すこと、その通詞の親弟が現地で夫役・地下役を課され困窮していることを伝え、代官衆へ諸役免除の墨付を出すよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 458~460頁/原整理番号 266-4
記録所による家筋の調書。島津備前守忠清から新納家への系譜、養子・家督相続、所領の継承を史料に照らして検討する。
慶長七年十二月吉日 / 冊子 869頁
島津義久の詠草。本文はNo.1749の詠草の一部と同文であるため省略され、『龍伯公御文』および両公の御譜にも収載されることを注記する。
(文禄3年)9月29日 / 冊子 76~77頁/原整理番号 63の13
義弘が比志嶋紀伊守へ鉄砲と玉薬を用意するよう命じ、槍は不要として鉄砲の数と人数の心得を重視する。石火矢は手に入り次第送るよう求める。後評は原文の所持・引用経路と鉄砲伝来、手火矢の利用を考証するが、龍伯公宛とする説明は本文の宛書と食い違う。