川上久国・三原重庸連署書状
二月五日 / 冊子 79頁/原整理番号 126
川上久国・三原重庸が仁礼頼景・伊地知重賢・大野久武・伊地知重順へ、去る四日付の有馬書状が今朝届き、松平伊豆守信綱から島津久元へ薩州様の有馬行きは不要と伝えられたと知らせる。その地の兵を出発させるかは、当地の兵少老と相談するよう求める。
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二月五日 / 冊子 79頁/原整理番号 126
川上久国・三原重庸が仁礼頼景・伊地知重賢・大野久武・伊地知重順へ、去る四日付の有馬書状が今朝届き、松平伊豆守信綱から島津久元へ薩州様の有馬行きは不要と伝えられたと知らせる。その地の兵を出発させるかは、当地の兵少老と相談するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 256頁
文永二年八月十三日、将軍家が最明寺亭へ入御した際、島津重賢が歩行二十八人の供奉者に加わったことを記す。
天正八年正月二十五日 / 冊子 643~645頁
天正八年正月二十五日、島津義久ら十三人が催した百韻連歌。『若葉さす梅に立ならふ木ともなし』を発句とし、春景・旅・恋・月・秋・神祇などを詠み継ぎ、末尾に各人の句数を記す。確定版年月日は年次数字を欠くが、本文年紀は天正八年と読める。
天正八年五月~十二月 / 冊子 654~655頁
天正八年五月、忠元らが宝川内城を攻め、忠尭が先駆けして鑓を合わせ、平田又次郎らが戦死する中で攻略し、柊野・岩牟礼も島津領とした。六月以降は熊本の城親賢救援を進め、鎌田政年らを派遣。十月に矢崎城を焼き攻めて落とし、翌日網田城を降伏させた。十一月には合志領へ進み、大津山越前守以下百三十余人を討ち、十二月に帰陣した。
年月日未詳 / 冊子 246頁
弘長三年正月七日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、定賢が直垂・帯剣姿で御車左右十二人の一人として供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 246頁
弘長三年四月十六日の将軍家二所進発で、定賢が歩行十一人の供奉者に加わったことを記す。
明和二年五月十日 / 冊子 93~94頁/原整理番号 181の84/整理ID 181-84
大目付大井伊勢守から廻状一通と書付の写し一通を受け、越中守・大膳大夫へ申し聞かせたところ、同席の各家の担当者から通達するよう命じられたため、写しを順に廻す。個別の返答・挨拶は不要とし、通達が済んだ後、担当者側から伊勢守へ届ける予定である。廻状を確認して返すよう求め、嫡子のいる家は御付の家衆へも知らせるよう追記する。五月十日、毛利家の吉田半兵衛・都野彌右衛門・有福庄右衛門と、細川家の内山又助・中川唯之丞・中川郡兵衛の連署に続き、順不同の宛名を載せる。御名の欄には薩摩守旅中へ、信濃守の欄には信濃守旅中へ内容を申し越すよう注記する。朱書は、両家衆から添廻状付きで到来した原廻状と書付の写しを書写して差し上げる旨を、同日に東郷源五が左中様へ申し出た記録である。
明和二年五月十二日 / 冊子 94~95頁/原整理番号 181の86/整理ID 181-86
大目付池田筑後守から廻状一通を受けて越中守・阿波守へ申し聞かせたところ、同席の各家の担当者から通達するよう命じられたため、写しを順に廻す。個別の返答・挨拶は不要とし、通達が済んだ後、担当者側から筑後守へ届ける予定である。廻状を確認して返すよう求め、嫡子がいる家は御付の家衆へも知らせるよう追記する。五月十二日、阿波守内の市原甫蔵・小川夷左衛門・前田助左衛門と、細川家の内山又助・中川唯之丞・中川郡兵衛の記載に続き、順不同の宛名を載せる。御名の欄には薩摩守旅中へ内容を申し越すよう注記する。朱書には、両家衆から添廻状付きで原廻状が到来したため書写して差し上げる旨を、同日に東郷源五が左中様へ申し出たとある。
宝暦十一年六月十四日 / 冊子 853頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2531-7
大目付が六月十四日、細川越中守へ、酒井左衛門尉から渡された書付の写一通を返し、同列の四品以上の者へ漏れなく遅滞なく伝えるよう求める。返答については各自からの挨拶を要せず、それぞれ稲垣出羽守へ知らせるよう指示する。本文宛名は細川越中守殿で、留守居との記載はない。
年月日未詳 / 冊子 246頁
島津重賢を四郎、初名定賢・七郎とし、弘長から文永年間に鎌倉へ出入りして宗尊親王に仕えたことを記す人物経歴記事。
弘安七年八月日 / 冊子 319頁
大宰府が薩摩国満家郡の郡司職に法橋重賢を補任し、先例に従って郡務を執行するよう命じた府宣。
安永四年首夏(日の記載なし)、以前の慣行を回顧 / 冊子 454~455頁/原整理番号 1261/整理ID 1261
以前から江戸に留守居を置くのは諸国とも同じで、京都・大坂の藩邸にも同様の者がいて旧称蔵奉行とする小字注を伴う。公用の会合では主人である諸侯の爵位に従わず、留守居自身の年功で席次を決めていたが、その由来は明らかでなく、次第にそうなったのだろうと述べる。自家と大廣間で同列となる諸侯として、仙臺の松平陸奥守重村、熊本の細川越中守重賢、福岡の松平筑前守継高、萩の松平大膳大夫重就、佐賀の松平肥前守治茂、津の藤堂和泉守高敦、鳥取の松平相模守重寛、徳島の松平阿波守治昭、高智の松平土佐守豊雍、久留米の有馬中務大輔頼僮、秋田の佐竹右京大夫義敦、米澤の上杉弾正大弼治憲、柳河の立花左近将監鑑通、津山の松平越後守康致、宇和島の伊達遠江守村候、対州府中の宗対馬守義暢を列挙し、共十七家の注を付す。安永四年の首夏、留守居参会について二箇条を作り、その弊を救うため同列へ報じ、可否を問うたと記す。受け入れた者として松平重村・細川重賢・松平重就・松平重寛・松平康致・有馬頼僮・上杉治憲を挙げ、示問の書は左方に収めるとする。諸侯の格式と家来個人の年功、照会先の列挙と賛同者を分け、全国一律の席次改正命令や、全家が同意して改正を実施したとはしない。重寛の名には推読を示すカ注もある。
年月日未詳 / 冊子 569頁/原整理番号 589-1
伊地知季安の記事。穂佐地頭伊地知四郎兵衛尉重賢が、暖吉野監物家定を介して邑士・小田右京ら四十人を招集し、軍勢を発行させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 208~210頁/原整理番号 75
清和天皇―貞純親王―源経基―満仲以下の清和源氏祖系から、頼光・頼信・頼義・義家らを経て西俣氏へ至る系図。祖先が島津忠久に頼まれて薩摩国満家院に住み、三子をもうけた後に信濃へ帰国し、子の重賢(入道栄尊)が母方の私領を知行したとする。重賢の母方は満家院郡司大蔵氏永平の娘菩薩房で、満家院郡司職は関東下文・京都宣旨・薩摩国守護文書によって相伝されたという。忠範は満家院惣郡司・比志島城主として宮崎警固番を勤め、時範は弘安四年の蒙古襲来時に一族を率いて壱岐島へ渡り防戦し、祐範も郡司職と文書を継承した。盛忠以下は西俣郷領主・西俣城主として続き、義範の建武三年宮方合戦討死と子範平への尊氏感状、義定・義光の軍功と島津貞久・久豊からの御書、義村の永享年中の合戦討死と島津貴久からの感状拝領を記す。
年月日未詳 / 冊子 211~216頁/原整理番号 76-1
比志島元祖上総介重賢(入道法橋栄尊)の二男盛忠を祖とし、重賢から譲られた薩摩国満家院内西俣名主職を後裔が相伝した源家西俣氏の系図。久盛・義時の筑前笠崎異国番、義定への貞和四年道鑑公御書、義光への応永十八年久豊公御書など、名主職・所領・軍役を証する文書の伝来先も記す。義村に実子がなかったため蒲生彦太郎清冬の二男を猶子とし、その後に蒲生で永秀庵・観音院(泊瀬山長谷寺)を建立した由緒を載せる。天文二十三年、蒲生茂清が加治木城の肝付兼盛を攻めた際、蒲生氏の類族であった武蔵守盛家父子は岩剣城へ加勢し、池島ヶ原で敗れて同年十月二日に自害した。幼少の清房は母に匿われて菱刈へ逃れ、成長後は島津氏に奉公して諸軍役・大坂出陣に従い、島津家久から鎧一領を与えられ、のち家督を清昌へ譲って清敷地頭となった。後代には瀬口重明二男の盛友を清房妹の遺跡へ入れて西俣氏を称させたこと、孫太郎遺跡を姉が八、九年支配する間に家伝の証書・重物が散逸し、孫兵衛が島津光久から跡職を命じられて万治二年に清敷から鹿児島へ移ったため、所領・跡職だけが安堵されたことを記し、盛武以下の子女・婚姻まで続ける。
〈宝暦二年〉九月十一日~十一月四日(別記は六月) / 冊子 373~374頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1130
宝暦二年の夏、中山王尚穆の襲封謝恩使今歸仁王子と副使小波津親方が薩府へ来ており、九月十一日に重年が琉球使正副と従者九十四人を伴って居城を発ち、江戸への参府に向かった記事。家老義岡相馬久中・島津主鈴久郷、側用人本田久米右衛門親房・二階堂林左衛門行通、福山平太夫安都、近習役河野安之右衛門通古らが従い、監琉使家老島津主殿久憑、表用人伊集院十蔵久東、近習役伊地知新太夫季周らも随行した。十二日に重年が向田仮館へ着き、琉球使も水引大小路へ着いた。十六日に重年は向田を発って九州を陸路で進み、十七日に琉球使と琉球人監官・諸役人は薩西京から大小二十艘で西海を航行した。重年は十月四日に豊前大里で乗船し、二十八日に播州坂越へ着船、翌日から山陽道を陸路で進んだ。十一月三日に尼ヶ崎で再び船に乗り、四日に大坂の河口へ着いた。河口では松平大膳大夫重就・細川越中守重賢・小笠原伊豫守忠総らが河船で出迎え、琉球使の旅員運送用に小艇三十八艘を給した。重年の乗船後は諸役人も小艇で指揮し、琉球使船を厳重に警衛した。琉球使らは重年より先に大坂へ入り、先例に従って島津加賀守忠雅の仮亭に泊まったとの元注があり、重年は大坂仮館で三日滞在した。別記は、前年六月の吉宗死去を琉球で知った中山王尚喜が榮野川親方に弔書を持たせ、当年六月に薩府へ届けた件を記す。先例により馬廻比志島孫左衛門國泰を使者として江戸へ送り、老中へ報書を呈した。
宝暦九年(日付不記・記事) / 冊子 736~737頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2241
重豪は九月十一日、老中松平輝高・秋元凉朝、若年寄松平忠恒・水野忠見、奏者阿部正因・牧野貞長らを招き、盛宴と猿楽で饗応した。十三日・十八日にも知己・親戚を招いて襲封を祝い、官位昇進の祝いとして二十三日には義敏・勝長・勝當・重賢・重廣らを芝邸に招き、宴と猿楽で饗応した。二十二日に前髪を除く許可を得て二十八日に除き、同日に女使を通じて家重・家治へ鯛一折を献じた。薩府の継豊へ「一種三百匹」を送り、継豊からも同じ品を贈られたと記す。
年月日未詳 / 冊子 152頁/原整理番号 36
川越太郎重頼の三男重員を起点とし、重輔・重貞以下へ続く讃良氏の系図。重貞は修理亮を称し、河内国讃良郡を領したため讃良を号したと由緒を記す。貞與・重矩・重治、重純・重賢・重年、重寛・重朝・重高などの分流を示し、大膳亮・刑部太輔・土佐守・兵衛などの官途を添える。後半は重喬以下、貞盈・貞喬・貞能・貞敦・貞秀らを掲げ、貞秀について享禄年間の出生、母が和泉讃岐守女であること、島津貴久から宝刀を賜ったことを記す。末尾に貞行・貞資・貞勝・貞増、貞清・貞雄ら近世の子孫と善助・銀八・外記・七兵衛等の通称を載せる。
年月日未詳 / 冊子 419~420頁/原整理番号 164
天正八年五月、忠元が大口に接する相良領寶川内を攻め、忠堯と城へ入った平田又次郎ら三人が討死した。忠元は重康・重賢を誘って伏兵を置き、敵を討った。城主らは城を捨て、朴野・岩年礼も領地となった。続いて隈本方への援軍と内通、阿蘇方との対立を記す。十月十五日の矢崎攻めで忠元が丸田ら敵を討ち、翌日網田が降伏した。十一月の合子戦では忠元父子らが働き、百三十余人を討ち取って帰陣したとする。
延応元年8月11日、明和3年仲冬、寛永11年3月、天和元年11月12日、慶安元年閏正月24日、元禄2年、宝永6年7月13日、正徳元年10月9日、享保20年閏3月21日・23日、宝暦9年閏7月29日、宝暦7年4月12日、安永2年9月9日、安永7年正月11日・9月11日、天明2年正月11日、天明6年5月13日、天明7年5月27日 / 冊子 34~38頁/原整理番号 11
宮之原主膳通直家の略系図。『宮之原家譜』などを引き、畠山重忠の四男重俊、その子重弘が延応元年八月十一日に日州飫肥の宮之原へ下着し、地名を家号として諸県郡北郷を領したという由緒を掲げる。一方、重氏以前は系譜が欠け、古譜・文献にも確証がないため、伝承する「重」の一字を根拠に重氏を始祖としたとの考証を、明和三年に司譜官・息長清純が記す。重尚は福山氏からの養子で島津綱久の近習を務め、剣鱗紋を拝領した。重陳を経て江田国重の三男・重行(通貫)が婿養子となり、近習・船奉行・使番・御用人・山川地頭・組頭・勘定奉行を歴任する。通興は奥御小姓、郡奉行、高奉行、使番、江戸留守居、近習、側御用人、寺社奉行を務め、野田・大根占・頴娃の地頭となった。通直は目付・使番・御用人・寺社奉行・大御目付を経て、市来・伊作・高岡地頭、御勝手方家老・表家老に進み、天明七年に隠居した。
正嘉二年九月日 / 冊子 234頁
薩摩国司が、地頭平重経・重賢・字熊六らに、入来院半分の所当米を沙汰進めるよう命じた庁宣。国定・神殿・石堂・土器など関係地の田畠と負担を挙げ、先例どおり納付させる。
〈宝暦三年〉九月二十三日 / 冊子 418頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1290
山澤小左衛門盛福が宝暦三年九月廿三日、主鈴様へ書き送る。大御目付の廻状と御書付写一通が、細川越中守と松平大膳大夫の添廻状を伴って届いたので、これを差し上げると報告する。細川には重賢、松平には毛利重就の補注があり、山澤には盛福の補注がある。本文は書付の具体的内容を記さないため、No.1289の銀器禁制との同一性はこの史料だけでは確定できない。
年月日未詳 / 冊子 246頁
弘長三年正月一日の坑飯で、相州以下が布衣で出仕し、島津定賢が庭上に列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 246頁
弘長三年正月一日未刻の将軍家御行始で、相州禅室亭への入御に際し、定賢が中御所方の供奉十四人の一人として列したことを記す。