樺山玄佐起請文
永禄五年六月廿日 / 冊子 115頁
樺山玄佐が自身への無実の讒言について直接糾明されたことに感謝し、樺山家十一代にわたり守護へ不忠をしていないと述べた起請文。今後も終始一貫して忠節を尽くし、雑説があれば天道に従って弁明すると誓う。
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永禄五年六月廿日 / 冊子 115頁
樺山玄佐が自身への無実の讒言について直接糾明されたことに感謝し、樺山家十一代にわたり守護へ不忠をしていないと述べた起請文。今後も終始一貫して忠節を尽くし、雑説があれば天道に従って弁明すると誓う。
弘治四年正月廿日 / 冊子 56頁
興国寺領として、大隅国帖佐郷山田村寺師名の田地一町二十歩を、土堂廻之門、こくてん、地敷、堀町、横枕、百田開など所在地・段別に列記し、川上忠克・伊集院忠倉・三原重秋が連署した坪付。
弘治四年二月吉日 / 冊子 56~57頁
大隅国帖佐郷益田門内、市ノ坪一段を小城権現領として新たに寄進した坪付。料所内の土地であるが当面ほかに閑所がないため先に寄進し、適地が得られ次第、別所へ繰り替える旨を川上忠克・伊集院忠倉・三原重秋が記す。
永禄十二年十二月廿日 / 冊子 193頁
菱刈四郎が曽木を差し上げ、現地の知行がまだ落ち着かない状況を受け、島津氏老臣三名が新納忠元の以前からの奉公を上聞に達したと伝える連署状。その忠節への褒賞として花北一所をまず与える旨を早々に申し渡し、追加扶持も上意によるとして疎略のないよう求める。
永禄十二年十一月十三日 / 冊子 228頁
島津氏老臣五名が、伊集院大和沙弥笑岳の勲功により宛行われた西田名内竹崎の水田二段を、建立した笑岳寺へ寄進する願いが義久に許可されたことを確認した連署状。将来土地に変動があっても、この二段は永代違乱してはならないと定める。
永禄十二年十二月廿日 / 冊子 229~230頁
菱刈四郎が曽木を差し上げ、当面の在所が定まらない状況について上聞に達したことを、新納忠元へ伝えた老臣連署状。忠元が以前から尽くした奉公への賞として、まず花北一所を与えるよう上意があり、追って加扶持も行うので速やかに伝達するよう命じる。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。
永禄十二年十一月十三日 / 冊子 229頁
本文はNo.524と同文のため省略される老臣連署寄進状。伊集院大和沙弥笑岳が笑岳寺へ寄進した竹崎の水田二段を、将来にわたり違乱なく安堵する内容に当たる。
永禄十二年十二月十九日 / 冊子 229頁
島津氏老臣が本田刑部少輔に、先年の戦乱時に姫城を奉公のため差し出した返地として、薩摩国谷山郡山田名を宛行った文書。境界が明確になった時には城を返すこと、一か所への繰替えに相違がないことを保証し、当面は水田十町を与える。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 233頁
興国寺領として、大隅国帖佐郷住吉名の平野園門にある田地を列記した老臣連署坪付。平野園之門五段二十、佃一段二十、堀町・開田・屋敷添などを合わせ、総計一町一段十とする。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 233~234頁
龍盛院領として、薩摩国鹿児島郡田毛名の水町門・浜田・芦牟田・橋路などの水田と畠地を列記した老臣連署坪付。水田は総計二町四反十のほか堀町一反を記し、畠地は合計一町七段とする。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 234頁
前田八郎左衛門尉に宛て、薩摩国加世田庄宮原名内の田畠を列記した老臣連署坪付。久木井・喜栴介などに関わる田地・畠地を合計二反として示す。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 234~235頁
内田主馬首へ宛て、薩摩国牛尿院内の浮免田を示した老臣連署坪付。築原名・小木原名・大田名などの田地を合計九段とし、そのうち七反を御重恩分と記す。
永禄十二年十二月廿日 / 冊子 241頁
本文はNo.531と同文のため省略される老臣連署状。菱刈四郎が曽木を差し出した後の処遇と、新納忠元の奉公への賞として花北一所および追って加扶持を与える上意を伝える内容である。
十二月廿日 / 冊子 377頁/原整理番号 87
三名の連署で忠元に、菱刈四郎への書状を曾木へ届けたことを伝える。現地が落ち着いていないため、忠元のこれまでの奉公を理由に花北へ先に派遣すると上意が出ており、早く伝えるよう求める。扶持は追って加えるとしている。
年月日未詳 / 冊子 160~161頁/原整理番号 43
菱刈氏嫡家十二代の家督重時から始まる略系図。重時を左兵衛佐、重衆を右兵衛佐とし、女子が肥州阿蘇惟永、島津出羽守忠明、相良伊勢守長皎へ嫁いだ婚姻関係を示す。重副は大和守で両院を知行し嫡家を継いだ。重政は次郎・伊勢守を称し、父重時の命で大口地頭職に補され大口に在城、法名を徳翁道盛居士とする。重根は兵庫頭で大口地頭職を相続し、法名天真道龍居士、天龍寺葬。重清は右衛門太夫で花北氏の猶子となり、肥州久木野で戦死した。重昌は四郎・越後守を称し、嫡家の大和守重猛が所知を島津義久へ献じて降った際に同じく旗下へ入り、曽木一所を賜ったのち花北へ替地され居住した。末尾は、この処遇について国老伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った書簡を次文書として導く。
年月日未詳 / 冊子 337頁/原整理番号 26
貴久が清水にいた時の吉田城合戦を漢文で記す。諸城主が背反したため、忠元・三原・山田・宮原・長野らを吉田攻めに出した。三月十七日に敵兵を退け、四月八日には興慶寺前で大戦となり、忠元は大刀を持って敵を攻め、上原長門らと敵将を追った。馬場某も奮戦して功を争ったが、忠元は大刀を持つ者が先鋒だったと述べたという。
天正八年五月十五日~十月十五日 / 冊子 646頁
天正八年五月十五日の岩牟礼城攻めと十月十五日の矢崎城攻めなどで戦死した島津方の諸士を列挙する名簿。入来院重豊は病気で出陣できず、山口重秋・種子田秀高らに従兵五千余を付けて出陣させたことも記す。
天正十六年~慶長期 / 冊子 253~254頁/原整理番号 6
島津忠恒の仰出から、幸侃への警戒に尽くした比志島国貞と、その後に家老となり処罰された子孫を対比する記述を引く。山田有信・三原重秋の忠勤についても記す。