石谷貞清書状
(寛永十四年)十二月三日 / 冊子 700~701頁
肥前島原の切支丹一揆に対し、板倉重昌が現地処置のため到着したことを報告する。天草の寺沢領にも一揆勢がいるため、肥後高瀬の牧野伝蔵・林丹波守へ、必要なら薩摩勢を天草へ派遣するよう板倉と石谷から伝えたと知らせた。
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(寛永十四年)十二月三日 / 冊子 700~701頁
肥前島原の切支丹一揆に対し、板倉重昌が現地処置のため到着したことを報告する。天草の寺沢領にも一揆勢がいるため、肥後高瀬の牧野伝蔵・林丹波守へ、必要なら薩摩勢を天草へ派遣するよう板倉と石谷から伝えたと知らせた。
(寛永十四年)十二月十九日 / 冊子 718頁
獅子島まで出した薩摩勢を国境へ戻すよう牧野傳蔵・林丹波守から伝えた件を了承する。天草には一揆勢が残らず、細川越中守の人数は一部を残して川尻へ入り、島原古城の一揆勢を近く攻めると報告した。
(寛永十五年)正月朔日 / 冊子 723頁
有馬の城が落ち、軍勢が到着した旨を急報し、島津方をはじめ関係者へ知らせるよう求めた書状。
(寛永十五年)正月廿二日 / 冊子 742頁
山田民部少輔が来訪して書状を受け取ったことを述べる。薩摩勢を当地へ派遣する希望について、江戸の上意により軍勢は天草まで差し出して置くべきであり、松平伊豆守・戸田左門も当地の家老衆へその旨を伝えたと報告した書状。
(寛永十五年)二月三日 / 冊子 751頁
近ごろ家久の病状がひときわ悪いと聞いて案じ、養生を第一にするよう勧める。当地の状況については島津下野介から詳しく報告するため、書中では省略するとした書状。
年月日未詳 / 冊子 592-593頁
十月三日、島津忠倍らは海陸から進み佐敷浦へ船を出したが、加藤方の井口伊賀が十八艘の兵船で襲来した。竹内備前守実康父子の小舟一艘と合力して戦い、忠倍は名と年齢を記した矢を放って敵二人を倒したが、忠倍をかばった蒲尾勘解由貞清が鉄砲で討死し、ほかにも負傷者が出た。夕刻に双方が退き、十二月には忠倍父子が宮城へ移った。
永禄七年十二月二日 / 冊子 138頁
南薩州久志浦の久玉大明神宝殿一宇を造立した棟札。大檀那日新、大願主忠長、指宿貞幸・見玉盛賓ら施主と大工貞清以下を記し、天長地久、檀那の息災、国土泰平、諸人快楽を祈願する。
正和四年十月二日 / 冊子 447頁
寄進臺明寺廿枝田五段事として、守部貞清が往生極楽・出離生死の願意により田地五段を臺明寺へ寄進した文書。
貞和七年四月日 / 冊子 806頁
薩摩国入来院倉野地頭豊田長寿丸の代官中木庭五郎次郎貞清が、大宰府へ馳せ参じ宿直警固を勤めたことについて、着到の証判を求めた着到状。
寛永14年12月19日 / 冊子 493頁/原整理番号 498
石谷貞清が島津家久へ送った書状。十八日参着の尊札に謝し、獅子島から御国境まで人数を派遣したこと、天草切支丹への対応、川尻までの進入を報告する。道服二領を受用し、詳細は三原左衛門佐が説明するとして十九日付で結ぶ。
正月朔日 / 冊子 524頁/原整理番号 537
石谷十蔵貞清が、有馬の城をまだ乗り取れていないため急ぎ使者を差し出し、御手前の人数を早く懸け越すよう求めた書状。詳細は三原左衛門佐から申すとして、正月朔日付で松平大隅守の近習中へ送る。
(寛永15年)正月朔日 / 冊子 536~537頁/原整理番号 544の2
正月朔日の原城攻撃について、板倉重昌戦死、石谷貞清の深手、諸勢の敗北と多数の討死・手負を幕閣へ報じた連署注進。敗戦の詳細は別紙に譲り、使者の木屋を派遣したこと、次の攻撃に備える決意を述べ、松平甚三郎直恒と石谷十蔵貞清が連署する。
寛永十五年二月三日 / 冊子 60頁/原整理番号 89
石谷十蔵忠成が松平大隅守家久へ、書状を拝見し、近ごろ病状が一段と悪いと聞いて案じ、養生を第一にするよう申し送る。当地方の様子は島津下野介久元から詳しく報告すると伝える。本文署名の忠成と傍注・目録の貞清の異同を保持する。
寛永七年十二月廿三日 / 冊子 184~185頁
源光久を従五位下に叙した位記。叙位の制書本文に続き、公家・官人を多数列記し、右中弁藤原共綱らが奉行したことを記す。
十二月七日 / 冊子 182~183頁
肥前松倉領の百姓がキリシタン宗門を掲げて蜂起し、天草でも党類が蜂起した島原・天草一揆について、薩摩勢を境目まで出し、幕府上使の指示次第で細川勢と相談して加勢するよう命じた。薩摩領内の禁教と流入キリシタンの摘発を厳重に行うことも確認した老中四名連署状。
(寛永15年)正月元日 / 冊子 540頁/原整理番号 547の8
松平甚三郎・石谷十蔵の連署注進。年頭の祝儀に続き、原城への総攻撃が失敗し、諸勢が先陣を競ったため崩れて多数の死傷者を出したことを江戸の年寄衆へ報じる。板倉重昌らの戦死、鉄砲による深手、存命不明者を挙げ、詳細は追って申すとする。
11月26日 / 冊子 422頁/原整理番号 391の2
板倉重昌・石谷貞清が細川越中守家老中へ、小倉到着を知らせる。天草のキリシタン一揆に寺沢兵庫頭方が敗れ、残兵が富岡城に籠もるとの報を受け、細川勢を早急に渡海させて鎮圧するよう命ずる。高瀬の牧野伝蔵・林丹波も同行させ、土地に不案内な両人と相談するよう求める。天草を鎮めても上使の指示前に島原へ取り掛からず、その指図に従うべきことを示す。
寛永十四年12月3日 / 冊子 442~443頁/原整理番号 418
石谷貞清が島津家久へ、島原の切支丹一揆に対処するため板倉内膳が現地へ赴いたと知らせる。寺沢兵庫頭家中からの加勢要請を承知し、高瀬の牧野伝蔵・林丹波守から薩摩兵が天草へ出ているとの報告を受け、兵を送るよう両人へ伝えたと述べる。詳細は板倉からの返報に譲る。
寛永14年12月27日 / 冊子 504~505頁/原整理番号 515の1
『藤掛集書』所収の上使掟書。キリシタン徒党討伐では上使の指図に従うこと、喧嘩・口論・狼藉を停止すること、郷人との間で不法な物具取引や自然の味方討ちを避けること、違反を急度申し付け、物頭が堅く守らせることを定める。十二月二十七日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。
寛永14年12月27日 / 冊子 505頁/原整理番号 515の2
島原のキリシタン徒党謀叛への加勢に際する条書。喧嘩・口論と狼藉を堅く停止し、竹木の無断伐採を禁じ、宿賃・人馬賃銭は定めどおり支払うこと、島原へ逗留する者が帰国後に沙汰を受けないよう条々を守ることを命ずる。十二月二十七日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。
寛永14年12月29日 / 冊子 510頁/原整理番号 521の2
翌日の島原城攻撃に関する上使衆の軍令。七つ時から人数を出し、鉄砲・石火矢を合図に攻撃すること、陣中の騒動を禁ずること、大将以外は歩行すること、合印を右肩へ付けること、合言葉、跡からの鉄砲射撃、小屋への放火などを定める。十二月二十九日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。
12月晦日 / 冊子 511~512頁/原整理番号 523の2
元日城攻めに際して諸勢へ示した連署達。明七つ時から人数を出し、石火矢・鉄砲を順次撃つこと、陣中の騒動を禁じ、大将以外は徒歩とすること、右肩の合印、合言葉、後方からの鉄砲射撃、小屋への放火などを定める。極月晦日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。
寛永15年正月22日 / 冊子 777頁/原整理番号 847
山田民部少を通じた書状と人数要請への返答を受けたことを述べ、下野守から再度人数を求められた件は伊豆殿・左門殿と相談したと報告する。江戸から天草まで人数を差し出して置くよう上意があったため、それに従うよう伝える。家老衆へも既に両名から通知済みであると付け加える。署名は為成、校注は貞清とする。
11月27日 / 冊子 423~424頁/原整理番号 394の2
島原へ出向する家中に対し、キリシタン討伐の指図を板倉・石谷両人が行うと定める。両人に知らせず戦闘を始めることを禁じ、抜け駆けは物頭の責任とし、喧嘩・口論・濫妨・狼藉も禁止する。一揆勢は在郷人で、武具を帯び侍同様の姿でも身分にかかわらず討つよう命じる一方、味方討ちがあれば落ち度として厳しく処分するとする。十一月二十七日付。
11月27日 / 冊子 424頁/原整理番号 394の3
肥前島原のキリシタン討伐に加勢する者へ五か条を命ずる。喧嘩・口論、婦女への加害、濫妨・狼藉・押買いを禁止し、宿賃・人馬駄賃は定めどおり支払い、島原滞留中は人を返さず帰国後に処置するとする。『寛明日記』では婦女の条が竹木の無断伐採禁止となり、濫妨等の条はないとの異文注がある。十一月二十七日、板倉・石谷連署。
12月5日 / 冊子 454頁/原整理番号 435の2
原城陣中の法度。陣場・内膳と十蔵の指図に従い備えを崩さず、騎馬での出入り、勝手な出陣、切支丹への私的攻撃を禁じる。男女の処置は公儀の指図に従い、違反者を捕縛して届けるよう命じた十二月五日付の連署掟書。
年月日未詳 / 冊子 350~351頁/原整理番号 321
十六日、上使板倉重昌・石谷貞清が伏見へ到着し、京都で警固・加勢人数を整えたことを記す。西国諸家の兵力と目付の動きを列挙し、天草・島原一揆討伐のため近国家老を招集する方針を述べる。
年月日未詳 / 冊子 352頁/原整理番号 323
十七日辰刻、板倉重昌・石谷貞清が大坂へ到着し、出船・出陣の準備を整えたことを記す。幕府からの書状、近国勢の加勢とともに、板倉重昌父子の人数・馬乗侍七十人を掲げる。
11月18日 / 冊子 357~358頁/原整理番号 332の2
石谷貞清・板倉重昌が細川忠利家老中へ、大坂に十七日到着し、十八日夜に出船する予定であることを知らせた連署書状である。天草方面への進軍に際する道中案内などの支援を求める。
年月日未詳 / 冊子 383頁/原整理番号 352の2
米田是季が山田有栄へ、島原一乱のため板倉重昌・石谷貞清が上使として下向したことを知らせた書状である。熊本側の使者往来と薩摩側の対応、境目の警備や連絡の迅速化を求める。
年月日未詳 / 冊子 419頁/原整理番号 384
出水地頭山田民部有榮が兵を率いて獅子島へ移っていたところ、熊本家老長岡監物から二十一日の便りを受け、板倉内膳正重昌・石谷十蔵貞清が江戸から上使として有馬へ向かうとの報を鹿児府へ伝えたと記す。慈眼公島津家久は病中ながらこれに対応し、上使へ飛脚を遣わして島原・天草の一揆に対し要請があれば直ちに出兵する旨を伝えた。
年月日未詳 / 冊子 511頁/原整理番号 523の1
『藤掛集書』所収、元日の城攻めと板倉内膳正討死に関する導入記事。武州江戸から来た松平伊豆守信綱を御代官として仰ぎ、板倉重昌・石谷貞清らが鍋島家老安芸へ城攻めの評議を求めたこと、元日の総攻めに先立ち諸勢へ触れた条々が次に続くことを記す。
年月日未詳 / 冊子 554頁/原整理番号 562
元日付の石谷貞清書簡を、出水衆の小倉大炊介が島原から持ち帰って呈上したことを記す。書簡の詳しい内容は正月五日条に載せるとする。
年月日未詳 / 冊子 592頁/原整理番号 639
石谷貞清・松平直恒の元日付注進が江戸へ到着したことを記し、喜入摂津守忠政が加世田衆百五十人を市来湊に集め、この夜串木野に宿したと付記する。
年月日未詳 / 冊子 197~199頁/原整理番号 320
『元寛年月日記』巻第十三の寛永十五年二月二十七日条。鍋島勢は築山から大石・火矢を絶え間なく浴びせて城兵の出丸往来を妨げ、出丸を乗り取るための仕寄を進めた。二十七日午刻、出丸近くに鎧武者三百余騎を隠し、竹束を段々に付けて攻撃を開始したため、二十八日の総攻め命令を待つ諸陣は法令との関係に戸惑ったという。城内からの矢・鉄砲・木石が激しいなか、榊原左衛門らが三の丸へ攻め込み、鍋島勢や追随した諸勢が戦って三の丸・出丸を占めたが、日暮れまでに本丸は落ちなかった。翌日の攻撃に向け、黒田忠之は他勢に先を越されたことを惜しんで先掛けを命じ、細川忠利は退却を禁じて戦功への恩賞と臆病への処罰を示し、米田美作父子を先陣に定め白旄を与えた。父板倉重昌の仇を討ちたいと願う板倉主水重矩には、石谷十蔵貞清が意を認めつつ士卒の下知を全うするよう求めた。
年月日未詳 / 冊子 371~373頁/原整理番号 453
『旗馬印覚書』は、板倉内膳正重・板倉主水正重矩・石谷十蔵貞清・松平伊豆守信綱をはじめ、諸将と家中の旗・馬印・指物について、地色、形、紋、付物、家老・家中の印を人別に列記する。
年月日不記(各代の生没年・任官年を系図内に記す) / 冊子 627~628頁/原整理番号 112
種子島氏支族・美座対馬守時里の二男から出た国上氏の系図で、時里・時宣・時通以下の系線と婚姻・養子関係を記す。時盛は伊勢長門守貞清の二男で嗣子として養育されたとあり、島津義久の奥向きへの奉仕、小浜村千石の采地拝領、見隆寺建立を記す。後代の時貞は馬術と鉄砲の師範を務めたとされ、時春には高原・羽月の地頭職の記事がある。和田十助正弘の養子になった者や家督を継いだ者、諸家との婚姻も挙げ、国上氏の分流と奉公・知行の継承をたどる。
「寛永十八年」九月廿八日 / 冊子 166~167頁
山田有栄が島原・天草一揆に際する薩摩勢の行動を時系列で記した覚書。新納加賀守らが三百人で獅子島へ渡って肥後境の下知を待ったこと、板倉内膳正重昌・石谷十蔵への使者として松橋・三角を経て有馬へ赴いたこと、正月十四日に薩摩勢が天草へ渡ったことを記す。有栄自身も松平伊豆守信綱・戸田左門氏鉄への使者として有馬へ詰め、二月二十八日の原城落城後、三月八日に帰国したとしている。
年月日未詳 / 冊子 357頁/原整理番号 332の1
十八日、板倉重昌らが乗船準備を進め、肥後の家老中へ書面を贈った経緯を記す。道中案内を依頼する書状の導入部で、次文書の連署書状本文へ続く。
年月日未詳 / 冊子 511頁/原整理番号 522
『寛明日記』晦日の記事。板倉内膳・石谷十蔵が諸将を招集し、鍋島家老安芸へ内膳正の陣地に関する意見を求めたことを記す。早々の城攻め、城内の外立腹と人数損費をめぐる評議、安芸の応答を載せ、明元日の総攻めについて諸家へ触れたが『平塞録』と同じため省略すると結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 537頁/原整理番号 545
『天草説書』の記事。正月元日、板倉内膳正のもとへ諸勢が集まり登城を企てたところ、石谷方から立花手への使番の行き違いが生じ、各城を乗り抜けた後に敵陣へ落ちた経過を記す。板倉・石谷方の討死・手負、立花勢、附使者らの死傷と退却を述べる。
正月2日 / 冊子 542頁/原整理番号 552
一色昭元が、正月朔日の原城総攻撃で板倉重昌が討死し、石谷十蔵・松平甚三郎も負傷、幕府方に多数の死傷者が出たと早飛脚で注進する書状。城内一揆勢の抵抗が続くため、心を尽くして早く島原へ渡海するよう要請する。
年月日未詳 / 冊子 370~371頁/原整理番号 452
『諸将有馬着陣覚書』は、松倉長門守・右近、板倉内膳・石谷十蔵をはじめ諸将・上使・目付・横目らが、寛永十四年十一月から十五年二月に島原・有馬へ到着・出陣・着陣した日程を人別に列記する。伊東大和守らを天草城代として遣わしたこと、島原横目下曽根三十郎の二月二十三日島原着も記し、攻口・間数の記載は前巻にあると注記する。
年月日未詳 / 冊子 360頁/原整理番号 337
十九日、板倉重昌・石谷貞清が出船しようとしたが大風のため滞留したことを記す。同日、一揆勢が富岡城へ押し寄せて激しい鉄砲戦となり、城方がこれを防いだものの、一揆勢は遠くへ逃げず志岐村へ再集結した。
年月日未詳 / 冊子 419頁/原整理番号 385
上使の板倉内膳正重昌・石谷十蔵貞清が有馬表に着いたとの知らせを受け、十一月二十五日に飛札を送ったと記す。島原・天草両所のキリシタン一揆について、人員が必要なら申し付けるよう伝えた記事である。
年月日未詳 / 冊子 421~422頁/原整理番号 391の1
『平塞録』は、二十六日に上使板倉重昌・石谷貞清が小倉へ到着し、熊本家老へ書状を送ったと記す。十九日に出船して昼夜急ぎ、熊本からの志水伯耆・尾藤金左衛門が迎えた。上使は天草でも一揆が起こり三宅藤兵衛が討たれたと聞き、島原へ波及する前に鎮圧すべきと判断。林丹波・牧野伝蔵の不一致で事態が拡大したとして、両人に天草への急な渡海を命じ、熊本家老にも知らせた。
年月日未詳 / 冊子 423頁/原整理番号 394の1
『平塞録』によれば、二十七日に上使板倉内膳重昌・石谷十蔵貞清から陣中法度一通が諸家へ渡された。季安は、藤掛集書および『寛明日記』がこの法度を十二月二十七日のこととする点について、誤りではないかと注記する。続く法度類の前置記事であり、日付の異同を残す。
年月日未詳 / 冊子 442頁/原整理番号 417の1
同日、上使板倉重昌・石谷貞清が島原の神代に到着したとする。『重矩常行記』には晦日に肥前高来城の松倉長門守の居城へ着いたとあるが、それは誤りだろうと批判し、島津家久への返簡を次に掲げる。
年月日未詳 / 冊子 450頁/原整理番号 429
『寛明日記』四日の記事。板倉重昌・石谷貞清が松倉氏の居城島原へ下着し、同日に神代へ着陣した。牧野傳蔵・林丹波守・長崎奉行馬場三郎左衛門らが参会し、板倉が江戸で承った話として、当地の兵はわずか二、三千で、隣国の人数を招き出す状況を伝える。
年月日未詳 / 冊子 450~451頁/原整理番号 430
藤掛勘九郎の集書。板倉重昌・石谷貞清が島原表へ急行し、松倉居城到着後の軍勢評議と江戸への注進を記す。江戸からの上使・諸勢の派遣、隣国兵の召集、熊本細川勢の天草出兵、島原からの加勢要請などを時系列でまとめる。細川勢は天草へ渡り、島原へも一部を回して一揆勢を追い、原城へ移る動きを記す。