北郷久隆譜
年月日未詳 / 冊子 803頁
天文十一年六月十八日、豊州家が平坊へ出軍して忠相に援兵を求めたため、北郷久隆が二百人の兵を率いて平坊へ出張し、軍務に従った。
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年月日未詳 / 冊子 803頁
天文十一年六月十八日、豊州家が平坊へ出軍して忠相に援兵を求めたため、北郷久隆が二百人の兵を率いて平坊へ出張し、軍務に従った。
年月日未詳 / 冊子 803頁
天文十一年六月十八日、平坊へ出軍した豊州家の求めに応じ、忠相方の北郷久隆が二百人の兵を率いて援軍に赴いたことを記す。
七月日 / 冊子 729頁
秋の合戦について諸軍衆の疲弊を踏まえ、豊州家を仲介に北郷氏と新納氏が和融するよう提案する。三俣数か所と吉松の処置をよく勘案し、今秋の弓箭を休止して将来も堅固に相談することを求めた伊東祐修書状。
年月日未詳 / 冊子 564~566頁/原整理番号 16
豊州家の系図。島津忠国から忠昌・久逸らへの系譜、法名、役職や居城を示し、帖佐・平山城をめぐる一族の経歴を傍注する。
年月日未詳 / 冊子 802~803頁
天文十一年閏三月、北郷忠相方が北原領の森田・西栫、山田・木野・牛谷の作毛を荒らして敵の兵糧基盤を攻撃した経過を記す。鹿野屋・蓬原方面で北原・志和池勢と激戦となり、双方に多数の死傷者を出した略奪・野戦の実態を伝える。
天保4年4月8日(本文冒頭、末尾に中陰日の記述) / 冊子 977頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0140
No.2704の附属資料「の10」、島津丹波久長が献じた祭文。冒頭は天保四年四月八日、重豪の霊柩が本府城北玉龍山へ帰葬したことを記す。臣久長は国老の一員として一家とも大きな恩を受け、それを報いるすべが分からず永い悲しみを抱くと述べる。中陰の日に茶菓などの供えを備え、霊へ告げる。続く韻文は、清和の貴胄、文武、領域を鎮める威と民への恵み、晩年も忘れない子孫への配慮、三位と長寿を讃える。幽冥への別れ、祭場の霊旗、残る英風、永く隔たる幽明に千行の涙を流す臣の哀痛を詠み、「尚饗」で結ぶ。本文注は豊州家とする。帰葬の記述と中陰日の献祭、領主の讃辞と臣の報恩・悲嘆を分け、具体的な供物の数量や祭文献上の時刻を補わない。
年月日未詳 / 冊子 118~119頁
『豊州家歴・平山氏系図』所収の「対馬守久清譜」によれば、平山久清は文禄元年春に島津義弘が朝鮮へ渡海して以来、その側を離れず従軍した。慶長二年七月十四日の唐島海戦では、朝鮮救援に来た明国軍船数十艘を日本諸将が争って撃破し、唐島を焼いた際、久清が敵一人の首を取ったと記す。
正徳三年三月廿五日 / 冊子 79~80頁/整理ID 193
豊州家などの諸家について、寄合格かどうかや嫡子・二男の別を踏まえ、用いる名乗り字を申渡す。
年月日未詳 / 冊子 745~746頁
島津季久を祖とする豊州家一流系図。忠廉・忠康以下、加治木家への養子相続、寺院住持となった者、串良戦死・飫肥での父子切腹、島津朝久へ続く嫡流の官途・婚姻・生没年を記す。
年月日未詳 / 冊子 747~749頁
豊州家六代朝久以後の系図。島津義弘の嫡女を母とする久賀、島津家久の庶子で朝久後室の領地を継いだ忠弘、松平定行家などへの婚姻、久次・久美以下の生没年・母方・養子関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 278頁
豊州家元祖の島津季久について、応永二十年に久豊の三男として生まれ、母は上原氏の女で、のち修理亮・豊後守・越後守を称し、帖佐瓜生野に居住したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 503頁
豊州家二代忠廉譜として、文明十五年八月廿一日の笠懸に参加した忠廉と一門・家臣らの名、役割、系譜上の注記を列記する記事。
年月日未詳 / 冊子 828頁
豊州家の忠親について、忠相の長子であること、尾張守・豊後守を称したことなど、家督と系譜を記す。
年月日未詳 / 冊子 738頁
島津忠広が義弘の長女御屋地の所領を受け、朝久の二男でありながら延宝五年に光久の命で豊州家を離れ忠朗の次男に準じられ、元禄十六年に没して萬山孤峯大居士と号したこと、および子孫を示す一流系図。
年月日未詳 / 冊子 167頁
島津朝久を祖とする豊州家の系譜を示し、久賀・忠次・藤次郎・久守・久邦・久元らの続柄を図示する。注記では、書状中の藤次郎を久賀の長男とする。
年月日未詳 / 冊子 686頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1757
市正忠広譜中に、忠広が初め御屋地の養子となり豊州家の二男家として一家を立てた後、延宝六年二月十六日に光久の命で豊州家を辞し宗室の庶流へ復帰して、平兵庫忠朗の次弟として三男家に準じ一家を立てたと記す。延宝七年四月六日に家老職を辞し、元禄十六年八月三日に死去する。
年月日未詳 / 冊子 730頁
天文十四年、飫肥の島津忠康が伊東氏の攻撃で危急となり、北郷忠親が救援して竜酒谷城へ入ったこと、忠康の後継として豊州家を継ぐため時久へ北郷家督を譲ったこと、二十余年にわたり飫肥を守って伊東氏と戦った経緯を記す譜。
年月日未詳 / 冊子 750頁
島津帯刀久元一流の系図。久延・久共の生没年と家老就任、久年・忠雄・久名以下の婚姻・養子関係、豊州家久邦への養子相続などを記す。
永禄元年3月19日、文禄元年、慶長5年1月12日、元和元年5月、明暦3年9月17日、元禄7年、天保7年7月ほか / 冊子 278~280頁/原整理番号 109
都城臣上原甚左衛門家について、上原宮内左衛門の父・長門守以来の北郷氏への奉公と近世の子孫をたどる系図。父祖は豊州家に仕えて飫肥へ移り、北郷忠親が豊州家を継いだ後に北郷氏へ臣従したと伝え、宮内左衛門は永禄元年三月十九日、北郷時久に従って肝付氏と恒吉宮ヶ浜で戦い死亡し、法名を長阿弥陀とする。宮内左衛門の戦死後、時久の許可で養子となった野崎丹後左衛門入道正金の嫡子は、天正年間に旧地回復の使者として二十八人を率いて飫肥へ赴き、文禄元年には北郷忠虎に従って朝鮮へ出陣した。さらに慶長五年茶園尾陣で没した齊次郎、元和元年に北郷忠能に従い大坂へ出陣した尚保、尚貞・尚盛・尚明・尚時・尚純・尚次・尚侍・尚政・尚常らの出生・没年、法名、婚姻・養子関係を収め、末尾に元禄七年の再撰書出から抄出した略系を天保七年七月に伊地知季安が記したと明記する。
年月日未詳 / 冊子 551頁
豊州家三代島津忠廉が延徳二年八月二十日に摂州天王寺で没し、法号を雲溪忠好としたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 823頁
豊州家の当主の病と後継問題をめぐり、樺山玄佐が北郷讃岐守・伊集院氏ら関係者の奉公と主張を記した自記。家督・相続を誰に認めるか、旧来の勤仕をどう評価するかを先例に照らして検討し、一族間の争いを避けるための処置を論じる。
年月日未詳 / 冊子 65~67頁
新山城落城後、豊州家の要請を受けた島津貴久が島津忠将を大将に三千の援軍を飫肥へ送った記事。十二月二十三日、伊東勢との激戦で島津方の物頭らが討たれた一方、伊東方は百九十八の首級を挙げたとする。
年月日未詳 / 冊子 29頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0044
豊州家豊前守久守譜中の記事。久賀の命により、対馬守久清の出自、朝鮮渡海から関ヶ原までの義弘への奉公、右馬頭久武の戦死後に久清を後継とした経緯を述べる。島津氏の支流ではなく平山を称する者も多く、姓氏の同異を知る者は少ないとして、その疑義を裁定した左近将監久守の証書と久清の記を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 690頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1774
豊州家豊後久邦譜中に、久邦が延宝七年正月元日、鶴拝領の御礼使として武城へ参り、二月十五日に将軍家へ拝謁したと記す。元禄四年四月二十五日の死去も記載する。
天保5年9月20日 / 冊子 996~1001頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0146
左近の跡目と家格・連名順位を検討するため、篠原善助と相良甚太夫が支族諸家の成立・相続先例を調べた第一の吟味書。御誕生後ほどなく夭折した男子、御七男左近、御八男為次郎らの位置を示したうえ、大玄院在世中に行われた支族・諸士の家筋吟味以後の制度を参照する。一門方四家、準一門、豊州家・永吉家・佐多家・佐土原家などについて、二男以下の分家、別腹の長男、家督相続、養子、断絶後の再興、地頭職・番頭・御側役等への任命、太刀着座・家格一所持格の付与、知行・宅地・役料の給付を時代順に列挙する。元禄・享保・正徳・文化・天和・宝永・享保・寛政などの先例を引き、家の新設が血統順位だけで一律に決まらず、当主の功績、先祖の由緒、当時の役職と家格、養子・実子の関係、家督継承の事情を伴うことを示す。左近家を新設する場合の家格・席次をどこに置くか、先例と現在の一所持家の配列に照らして慎重に伺う。天保五年午九月二十日、篠原善助・相良甚太夫。全家系を現代的な系図へ再構成せず、本文が跡目判断の根拠として挙げた先例群として保持する。
七月十九日 / 冊子 452頁
豊州家の養子となったものの知行が少なく、当時は私領扱いで別知行がないと聞いたため、黄門へ伺ったうえで光久の持高から五百石を与え、当面の知行とすることを認めた島津光久判物。
年月日未詳 / 冊子 728~729頁
北郷忠相の子忠親と孫時久を中心とする北郷氏系図。忠親が都城の家督を継ぎ、父忠相が高城へ移ったこと、忠親が島津豊州家忠康の養子として飫肥へ移る際に時久が北郷家督となったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 750~751頁
豊州家庶子の平山氏系図。島津季久流から忠廉・忠康・忠朝へ続く家系、松山居住と官途、加治木家への養子、忠智が肝付兼続討伐に向かう途中で肝付兵に斬られたことなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 247~248頁/原整理番号 180-2
伊地知季安の覚書。本田兼親と税所氏の争いに関する先の文書を解説し、豊州家の時代の帖佐平山城、清水・吉田への移動などを挙げて経緯を検討する。関係者の年齢や移住時期も照合する。
年月日未詳 / 冊子 564頁/原整理番号 15
山田聖栄の系図・目安を引き、豊州家の成立と島津忠国の時代の家中の出来事を記す。伊集院氏による平山城襲撃、餅田・平松らの動きも述べる。
年月日未詳 / 冊子 566~568頁/原整理番号 17
『行脚僧雑録』からの抜書。島津氏の家督と豊州家の関係をたどり、平山城をめぐる忠康・久逸らの戦闘や城の移動、家臣の所領・由緒を記す。