島津玄仲宛行状
応永十五年十月八日 / 冊子 230頁
島津玄仲が肥後左近将監入道へ、忠節により薩摩国内の屋久島・恵良部島を祈所として宛行い、先例に任せて領掌するよう命じた宛行状。
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応永十五年十月八日 / 冊子 230頁
島津玄仲が肥後左近将監入道へ、忠節により薩摩国内の屋久島・恵良部島を祈所として宛行い、先例に任せて領掌するよう命じた宛行状。
応永十五年十月八日 / 冊子 230頁
島津玄仲が肥後左近将監へ、三か国の情勢がいかに変転しても立身を支え、大事の際に見捨てず、讒言や風説があれば直接問いただすと神々に誓った契状。
(慶長元年)八月十二日 / 冊子 38頁
島津義弘が伊集院肥後入道へ、長期在陣の苦労をねぎらい、忠恒が健在なのは祈念のおかげであると喜んだ。忠恒が上洛する場合には供奉するよう求め、鎌入・慶呑にも辛労の事情を伝えるよう依頼した書状。
十一月廿五日 / 冊子 450頁
突然暇を得て帰国する細川肥後守を祝い、太刀一腰・馬代黄金一枚・小袖十領を贈る。また有馬方面の情勢を尋ね、新しい動きがあれば隣国として知らせてほしいと依頼した島津光久書状。
元和五年二月七日 / 冊子 687~691頁
前書を欠くため誓約の具体的内容は不明だが、天照大神以下多数の神仏を勧請し、違反すれば重い神罰を受けると誓い、肥後盛次ら二百二十二名が連署した大規模な起請文。
慶長十八年二月五日 / 冊子 389~390頁
慶長十八年二月五日、成正院頼真が肥後乗右衛門尉・川崎九左衛門尉へ渡した、高野山蓮金院の寺領証文、年々の帳、曼荼羅供入目帳、交割、知行名寄帳、院指図などの文書目録。
宝永五年四月廿八日 / 冊子 506~507頁
黄致誠の朝鮮国書が島津武久宛とする点を、忠昌の実名・生没年と万暦年号から検討し、義久の時代には合うが宛名の書き違いとも考えにくいとして、年代の疑問を後考のため記した連署添書。
元徳二年五月一日 / 冊子 576頁
藤野家文書の返紙として、肥後国守護代請文の外題・年月日と「正貞執筆」の注記のみを掲げる。請文本文は収録されていないため内容を補わない。
五月十七日 / 冊子 584~585頁
大坂落城後の移動に伴い、伊集院伴右衛門尉らの乗馬・出船や馬の手配が滞っている事情を知らせ、必要な対応を求めた有川貞政の書状。
六月十三日 / 冊子 194頁
忠恒が遠国で長年在陣し、国元の公儀も混乱して音信が途絶えていたが、病気の長患いを案じる直書を受けて安堵したと謝した。守りとして弘法大師筆と伝える百体不動を進上し、深く信仰するよう求めた書状。
寛永十一年十二月朔日 / 冊子 462頁
包丁役に関係する三名の知行について、切米返地として十五石・三十石・二十一石を割り当て、役替わり時の返還を前提としつつ、当時の知行逼迫を理由に二十五石を加えて合計五十石を支配させる旨を記した覚書。
(応永六年)十一月廿日 / 冊子 185頁
島津元久が田代殿へ、肥後・石井らをめぐる風説にもかかわらず田代本人の忠節を信頼し、兄弟・親類が敵方に同心しても本人を疑わず、今回の振舞いを遺恨としないことを神仏に誓った契状。
年月日未詳 / 冊子 192頁
応永記の記事として、伊久の子生黒丸が元久の養子となり、久照と名乗って北殿と呼ばれた経緯を記す。久照への厚遇と近臣の振舞いが元久・伊久間の不和、肥後・石井らの討伐、久照の離縁へつながり、本田忠親の諫言も容れられなかったことを載せる。
(永禄六年)十月廿一日 / 冊子 126頁
佐々木宗綱が島津方からの要請を大友氏の重臣へ伝え、各人が了承して上聞に達したことを報じた書状。日向へ一軍を送る予定は豊前の戦争で遅れているが、終結後は豊後・肥後勢を残して派遣すると伝える。
天正十一年冬 / 冊子 762~763頁
天正十一年冬、島津征久・忠長以下の諸将がともに肥後へ出陣し、数日にわたり軍務に従ったことを記す譜中記事。
年月日未詳 / 冊子 98~99頁
天正十三年閏八月十二日、薩摩・大隅・日向の軍勢が肥後の敵城を攻めた経過を長谷場越前が記す。城下の町を焼き、鉄砲・火攻めで城戸を破り、逃れる敵を追撃した。島津義弘・伊集院忠棟らが軍勢や兵船を差配し、城主の妻子・降参者の処置、占領後の守備配置まで進めており、攻城から支配確立までを連続して伝える。
年月日未詳 / 冊子 99頁
「日向記」の本文はNo.77の記事後半と同文であるため省略すると注記した参照記事。花山・甲佐・堅志田をめぐる肥後戦線の記事に対応し、この番号には独立した本文がない。
年月日未詳 / 冊子 379頁
安国寺恵瓊の働きで佐々成政の上京が進む一方、秀吉の帰洛後に肥後国人一揆が起こり、島津勢が鎮圧へ加わった経緯を記す。 一揆勢の城を攻め、多数を討ち取って肥後を平定したことを島津義弘の忠功として位置づける譜記事。
年月日未詳 / 冊子 383頁
島津義弘が大口に在陣していた時期から、肥後国人一揆鎮圧へ派兵し、諸将が城や集落を攻略した経過を記す聞書。 加藤主計介ら豊臣方の諸将、肥後・薩摩の軍勢、現地住民への被害や帰陣までを伝え、戦場側の見聞を具体的に残す。
(慶長二年)七月十一日 / 冊子 114~115頁
島津義久が島津義弘に、軍勢加増の要請を受けて肥後勝兵衛尉を差し上せ、急用の道具を先に整えて渡海させ、残りは追って送ると報じた書状。軍事行動は八月と聞くため、石田治部少輔が又八郎の帰朝延期を了承したこと、渡海衆不足にも対処することを伝える。
(慶長二年)七月十一日 / 冊子 115頁
島津義久が又八郎の五月二十三日付書状を六月三日に受け、肥後勝兵衛尉を差し上せて急用の道具を先に整え、遅陣を避けるため渡海させると報じた書状。残りの人員・物資は追送し、八月の軍事行動と又八郎の帰朝延期について石田治部少輔が了承していることを伝える。
(慶長十二年)正月十五日 / 冊子 106頁
新納拙斎(忠元)が、安満(安満加)の元服を翌月四日の丁酉に行い、出立日は二十九日が吉日であると伝え、肥後仲右衛門尉・当木将右衛門尉へも知らせるよう求めた書状。銀子の拠出期限や調達・立替えについて相談し、先に出立した際の内方に関する用件への返答を求める。追而書では、火の用心や馬の飼育などについて指示する。
十月六日 / 冊子 349~350頁
十月六日付の三原重種書状。水俣の将屋や肥後方面へ人員を遣わし、筑川・高瀬への到着、上使への出迎え、家中衆五人と馬の手配などを報告する。
(寛永九年)七月六日 / 冊子 292~293頁
島津久元が、家久の指示を谷山孫右衛門尉・国分帯刀長に伝えさせ、帯刀長の馬の件を処置するよう命じた書状。併せて、肥後の有力者が剃髪して退去し熊本城が無事に渡される見込み、肥後への諸国衆の動員・人質や家臣配置、伊勢貞昌の病状と後任・奉公人選、惟新供衆の名簿などを詳報した。
(寛永九年)七月 / 冊子 293~294頁
肥後に置かれた目付と薩摩側の関係をめぐる覚書。九州諸方から肥後目付へ音信があるなか、薩摩は私曲なく直接関与しない方針を示し、薩摩で調えた焔硝を舟で運んだ件について、他国者の入国には案内が必要であるための手続で秘密の企てではないと説明するよう定め、取次・口上・対応方法を指示した。
六月十六日 / 冊子 23頁
細川忠興が、加藤肥後父子の国が召し上げられ、江戸から上使が派遣された情勢を知らせた書状。必要なら黒田殿・鍋島殿らと兵を出せるよう準備し、熊本城も命令に従って城を渡すため掃除を進めていると報じ、近隣の相手方の状況を尋ねる。
八月廿一日 / 冊子 66頁
新納忠清・肥後盛行・大寺政安が、大脇舎人佑の知行高十四石の算入先について連署した書状。当初は相手方の高へ籠めるよう伝えたが、改めて山田民部少輔を通じて当地の高へ算入せよとの命が出たため、その処理を通知する。
九月廿日 / 冊子 75頁
川上久國が新納仲左衛門尉・市来備前守に、大脇主馬丞の子息舎人佑へ肥後内膳正の知行の一部を分け与え、当地へ移すよう御老中が命じたことを伝えた書状。山田民部少輔が使者を務め、詳細は主馬丞から伝えるとする。
十二月十三日 / 冊子 250頁
大友親世が来状への返答として、出津や京都への礼、代官安治方への下知、肥後・山鹿方面での合戦と菊池武朝らの動向、阿弥陀仏の参着などを報告し、京都での処置にも尽力すると伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 331頁
阿多と加世田が万之瀬川の鎮守の渡で戦った際、劣勢から退いた阿多勢が再び進撃し、激戦の末に敵数十人を討ち取った記事。肥後掃部左衛門・宮人・井尻四郎左衛門らが戦死したため、その忠節に報いるべく戦死地に六地蔵を建立し、冥途の灯とした。
(文禄2年)6月15日 / 冊子 707~708頁
「もくそ」の成敗に諸将が出動する中、島津義弘が現在地の番を守る意向であることに理解を示しつつ、他の諸将と同様に奉行衆の指示へ従うのがよいと助言する。 宇喜多秀家自身も二、三日中に赴き、軍務を直接相談すると伝えた、攻城参加と留守番配置を調整する書状。
(寛永八年)十二月十九日 / 冊子 253頁
江戸から国元への連絡覚書。上洛時の供衆は騎馬二十~三十騎ほどとし、追加の駄乗馬衆を後から召し寄せる準備を指示する。牧野内匠の照会に対し、江戸に詰める夫婦・父子の証人衆と知行高を書き上げた経緯、高力摂津守の所望品、薩州から黄門様・兄弟への年頭の樽と肴、美々津への船配置ができないこと、能の際に縁へ敷く幅広の毛氈の送付を伝える。
(寛永十五年)八月廿五日 / 冊子 821~822頁
先公方徳川家康の時に島津家が琉球を拝領した由緒、遠隔地であるため使者の往還が稀となり関係が途絶えかけたこと、武力行使の構えを経て和睦し、先代中納言島津家久が琉球国司を従来どおり立て置いた経緯を述べる。島津光久が家督を継いだ後も家久同様に取り扱うので心得るよう求め、詳細は使者の口上に委ねた書状。寛永十五年八月二十五日付。
九月廿七日 / 冊子 76頁
島津久茂らが、兵庫守領内から有馬・天草へ移す百姓について、家族人数・牛馬・農具をどの程度伴わせるか回答した連署書状。国元から出す百姓頭百三十人の賦課を示し、詳細は御蔵入奉行三原左衛門尉と御家老衆が定めるため、直接協議するよう促す。
正文年月日不記;2月8日留守居呼出注/3月8日回答期限/当月22日夜の処分記事 / 冊子 286~287頁/原整理番号 399/整理ID 399
雑集中の三内容。第一は井伊へ、江戸へ向かう軍艦が三月八日までに回答がなければ戦争に及ぶと述べているため、横浜から川崎への警衛を命じ、早く人数を出して防禦するよう求める。横浜の英国軍艦の三ヶ条はいずれも難問なので趣旨を踏まえて応接し、兵端を早急に開かず藩屏の任を尽くすよう命じる。二月八日に所司代が留守居を呼び、別所武三郎が罷り出て公用人能勢幸内から伝えたとの注。第二は井伊家来へ、昨年島津三郎家来が英国人を殺害した件の要求について同様の慎重な応接と備えを求め、九名の諸侯官名を列記する。第三は当月廿二日夜、王の名を借りて私意で横行したり将軍の木像の首を抜き取った者や雑言を書いた者を召し捕り、吟味の上処分するとする記事。朝廷は誠実に尊攘を志す者を用いるので疑いなく忠義を励むよう求め、松平肥後守の沙汰として洛中洛外へ知らせると記す。要求の難易・人物の評価は本文の見解で、処分対象や戦争開始を外部情報で補わない。
辰年5月15日 / 冊子 275頁/原整理番号 107-16
辰年五月十五日、上原休兵衛が門司伊兵衛・肥後少三郎へ、自分は上原源右衛門の跡目を命じられて同家を相続したので、今度は国分刑部左衛門の弟・八郎左衛門を自身の猶子にしたいと内談している旨を申し述べ、そのとおり許可されるよう取り次ぎを願った口上覚。追記により、この願いは七月三日に伝達されたことが分かる。
寛永二十年十月一日 / 冊子 105頁/原整理番号 14
赤川兵左衛門尉・西田大蔵丞が御蔵廻の肥後真右衛門へ、当年の百姓七合出米を取り納める準備ができており、五日中から取りかかると報告する短い差出。
年月日未詳 / 冊子 75~77頁
島津氏久譜中から、新納実久の元服、修理亮任官、所領賜与を記し、その後の志布志周辺での合戦を詳述する。畠山治部大輔方に対し北郷彦七郎・本田重親・石井肥後兄弟ら一族・被官が奮戦し、多数の戦死者を出した長期戦の経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 183頁
応永記の記事として、応永六年夏ごろから国中に疑念が広がるなか、島津元久の養子となった黒殿(久照)が鹿児島に屋形を構え、近臣を従えたことへの風評を記す。養子をめぐる政情不安が続き、翌年十二月に肥後・石井・伊地知らが下大隅で討たれた経過へつなげる。
年月日未詳 / 冊子 185頁
田代清久譜の記事として、島津元久が伊久の三男久照を養子として鹿児島の北殿に置いたのち国中が騒乱し、肥後・石井らを下大隅で討ったことを記す。清久兄弟が誓状を差し出し、月末に元久が誓書で応じた経過を載せる。
天正元年正月六日~十一月 / 冊子 296~297頁
天正元年の島津方戦死者を日付別に列記する。正月六日の住吉原合戦で河野主税良次・田原大蔵信秀ら、三月十八日の西俣合戦で禰寝重長臣野間武藤守以下約三百人、早崎関係では肥後平次郎・桑波田孫太郎・河野玄蕃允らを掲げるほか、七月・十一月などの戦死・殉死者を多数収録する。
天正元年九月廿七日~十一月中旬 / 冊子 317頁
天正元年九月二十七日の早崎・咲花平着陣と小浜城攻略を詳述する。島津方は激戦の末に城柵を破り、伊地知美作守を退去させたが、伊集院久春が重傷、肥後平三郎らが戦死した。牛根城包囲中の野戦では白胴服の武者が単騎で敵首を挙げ、周囲を叱咤した逸話を載せる。肝付領の通路を遮断するため、十一月中旬に歳久・以久を大将として平床へ陣を進めた。
年月日未詳 / 冊子 85~86頁
天正十三年八月十八日以降、島津義弘が肥州隈府方面の成敗を命じられ、諸軍を率いて出馬した経過を長谷場越前が記す。松尾の柵を越えて敵と交戦し、兵庫頭義弘の奮戦、敵将の討取り、諸隊の進退や戦死者を伝える一方、合志方との使者・太刀をめぐる争い、在地勢力の去就や帰順交渉にも触れる。肥後出陣の戦闘と調略を現場に近い視点でまとめた日記である。
明和四年十月日 / 冊子 45~47頁/原整理番号 10
記録奉行は、宝暦八年に命じられた御家譜編集が明和四年になっても完了せず、従来の四ツ時から八ツ時までの勤務では進捗が遅いと訴える。先例の勤務時間・賄いの扱いと現在の費用負担を比較したうえで、奉行と筆者が当面は自弁で夕方まで長詰し、作業量と完成までの年数を試算する許可を求めた。
文保三年三月廿六日 / 冊子 468頁
前肥後守顕親が、事情により召し上げていた大隅国肝付郡岸良村弁済使職について、兼村の歎申を受け、子細を糺した上で先例どおり還付・宛行った文書。
元弘三年十月日 / 冊子 618頁
新田宮権執印と五代院政所の両職について、領家の下知に従い補任された者を知行させ、祈祷を勤めさせるよう命じた預所肥後守の書下。
年月日未詳 / 冊子 948頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2604
元禄九年春、肥後主膳盛康を琉球国在番奉行に任じ、久保田平左衛門・津曲平右衛門・二階堂三右衛門・橋元甚助らを副として琉球へ渡航させ、元禄十二年夏に任期を終えて薩摩へ帰国したことを記す記事。
享保十四年十二月十四日 / 冊子 28頁/整理ID 11
婚儀祝儀のため翌十五日に登城するにあたり、招請の時刻や席次などの作法を肥後基偉が加賀守へ照会した書状。幕府の申渡しを受けた後、登城・召出しの手順を確認している。
享保十四年十二月十四日 / 冊子 28頁/整理ID 12
翌十五日の婚儀御礼で大納言らが進上する拝領物の受渡し方法について、老中阿部正喬方で確認した内容を肥後基偉が松平大隅守へ報告した書状。伊勢守・益之助・上総介らの役割と、御座・御礼の作法を伝える。
享保十四年十二月十四日 / 冊子 30頁/整理ID 14
翌十五日の老中招請に着用する衣服について、格式の相違を避けるため肥後基偉が松平大隅守へ問い合わせた届書。袴・羽織などの色や地質を加賀守方へも照会した旨を記す。