島津義天譜
年月日未詳 / 冊子 311~312頁
川邊・知覧方面で続いた島津久豊方と伊集院頼久方の攻防を記す。知覧氏をはじめ阿多・山田・鮫島諸氏が所領防衛のため出兵し、戦況に応じて退去・帰服・再戦を重ねた動きを追い、南薩摩の国衆が所属を変えながら領地を維持した状況を示す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 311~312頁
川邊・知覧方面で続いた島津久豊方と伊集院頼久方の攻防を記す。知覧氏をはじめ阿多・山田・鮫島諸氏が所領防衛のため出兵し、戦況に応じて退去・帰服・再戦を重ねた動きを追い、南薩摩の国衆が所属を変えながら領地を維持した状況を示す。
四月十五日 / 冊子 249頁
芥河愛阿が、南蛮船に関する三月二十七日付書状を四月十三日に受け、船の着岸後の京都への注進、安案文や吹挙雑掌の処置、京着後の対応を指示し、京都の情勢を踏まえて早く大太郎殿を向かわせるよう求めた書状。
天正元年正月六日 / 冊子 296~297頁
越前島津庶流知覧氏の系図記事。梅北地頭知覧大和守久親が天正元年正月六日の末吉住吉原合戦で北郷時久に従い、梅北八十町の兵を率いて橋野から肝付勢を攻撃し、稲井原から進んだ時久軍と呼応して勝利したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 532頁
官庫所蔵の越前島津族知覧氏系図と各家伝を校合し、梅北地頭職を継いだ知覧久親と知覧行通の家系を本宗と判定する。田布施・種子島の知覧諸家を庶流とし、錯綜する実名・伝記を併記して後考に備えた系図抄。
「大永六年」九月四日 / 冊子 662頁
島津勝久が北郷信濃守に、たびたび味方してくれることへの謝意を述べ、金吾・祐脩との結束を今後も保つよう求め、詳細を知覧の使者に託した書状。
年月日未詳 / 冊子 64頁
永禄元年十一月五日、伊東勢が飫肥新山城を大軍で攻め、北郷忠孝・久信、知覧忠幸らが戦死し、士卒にも多数の死者が出たことを記す。
年月日未詳 / 冊子 65頁
新山城からの落人が水不足を告げたため、伊東方が永禄元年十一月四日に城を包囲し、二時間ほどで攻略した経過を記す。知覧忠幸らをはじめ百五十余の首級を得、伊東方にも戦死者が出た。
天正元年正月六日 / 冊子 297~299頁
天正元年正月六日の住吉原合戦を詳述する。北郷時久は相久・忠虎と手勢を率いて不意に肝付軍を攻め、知覧久親ら各地の援軍とともに松山城戸口まで追撃し、伊集院竹友以下百五十一の首級を得た。味方も河野主税・田原信秀らを失った。この日が北郷家の僧礼日に当たり、急報のため簡略な酒礼を行ったことが龍峯寺門徒の正月六日の先例になったと伝える。
年月日未詳 / 冊子 582頁
石田三成の挙兵で東西が分かれた際、北郷忠能は在国したが、西郷孫一久永は七十五人を率いて伏見にあり、島津義弘(惟新)に従って伏見城攻撃に参加し、家臣和田仲蔵義吉が戦死したと記す。その後、北郷忠泰・久栄が数百兵を率いて上洛し、九月十五日の関ヶ原合戦では根占清右衛門尉・小杉頼長・知覧忠清・津曲兼親以下、多数の忠能家臣が討死したことを列記する。
年月日未詳 / 冊子 58頁
永禄元年の恒吉宮ヶ原、志布志、飫肥新山城などの戦闘で討死した北郷・豊州両家ほかの将士を、日付・戦場・所属とともに列挙する。多数の戦死者と異同注記を収める。
年月日未詳 / 冊子 64頁
永禄元年十一月五日の飫肥新山城合戦を詳述する。伊東勢の猛攻で北郷忠相の二男忠孝と三郎右衛門久信らが討死し、三月の久慶戦死に続き忠相が子を失った悲哀と、多数の将兵の戦死を記す。
年月日未詳 / 冊子 64~65頁
永禄元年十一月四日に新山城が攻め落とされ、多数が戦死したことと、十二月二十三日に薩摩・飫肥・庄内三家の軍が反撃した戦闘を記す。島津忠将を大将とする諸将の槍働きや負傷を列挙する。
(元和三年)九月三日 / 冊子 657~658頁
当年の出銀を高一石につき銀一匁四分と定め、銀・銭・米による換算と納入先、翌年正月の上洛までの納期限を示し、米蔵の修理を在郷衆に相談させるよう命じた連署状。
建武四年五月十七日 / 冊子 691頁
敦賀城の凶徒追討で知覧院式部三郎が尽くした軍忠を、島津三郎左衛門尉の注進により賞し、抽賞する旨を伝えた足利直義感状。
建武四年十一月廿四日 / 冊子 703頁
島津大隅愛寿丸が市来院城郭で軍忠を尽くした軍忠状。九月十九日の合戦で愛寿丸の若党七尚元以下が軍忠を励み、隠岐七郎行貞・知覧院三郎久直らの見知を得たとして、恩賞のため証判を求める。
建徳元年11月21日(1370) / 冊子 456頁/原整理番号 14-13
征西将軍宮の令旨を前中納言が指宿能登守へ伝え、知覧美濃権守忠泰に、亡父忠平の譲状どおり薩摩国知覧院および河辺郡を支配させるよう命じた建徳元年十一月二十一日付文書。指宿能登守は鮫島下野守と現地へ赴いて忠泰へ下地を引き渡し、異論があれば起請の文言を記して注進するよう求められた。
元亨四年三月八日 / 冊子 513~515頁
知覧院鎮守開聞中宮大明神領内の山野・田地をめぐる相論を、平忠世らが和解した長文和与状。利山大道、白谷川、河辺境、西限河辺境など四至を詳細に記し、屋敷・田畠・牧馬地・社領の配分、検断・年貢・神領役、立石や谷・尾根を基準とする境界を定める。双方の押領・違乱を止め、神事と所務を旧例どおり行うことを約す。
年月日未詳 / 冊子 312頁
応永二十七年、薩摩国河邊・知覧が島津久豊の支配下に入り、旧来の当家領である知覧の上木場二十町を佐多親久に与えたことを記す。
安政4年9月19日 / 冊子 53頁/原整理番号 58
季安は嘉永三年に御軍賦役を務めた間、一年皆勤だったとして御礼を申し上げる旨を記す。九月十九日付の短い書付。
二月十四日 / 冊子 133頁/原整理番号 219
川上久国・三原重庸が伊集院以下の諸地域へ、黄門様の養生のため好物の竹の子を献上するよう命じた廻状。各地に大名竹があるので周囲の土を掘って竹の子を採り、少しも遅延なく急送するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 541~542頁
種子島氏家臣知覧氏の系図記事。島津久逸方の戦い、島津忠朝と新納忠武の関係を述べ、加治木大和守が帖佐城を奪取すると島津忠昌が加治木を攻めた経過を記す。降伏後の阿多移封までを追い、園田新右衛門・川山忠直ら知覧氏関係者の軍歴と所領移動を示す。
文和四年十一月五日 / 冊子 261~262頁/原整理番号 26
島津師久が、父道鑑の所領である薩摩国楠木野城に三条侍従・市来氏家・鮫島蓮道・知覧忠世らが九月二日に攻め寄せ、五日間の合戦で敵を捕らえ追い落としたことを申告する目安状。九州宮方の蜂起と一色の長州越えに伴う戦況を述べ、十月十二日の和泉庄側の攻撃では自身が三か所、伯父尾張守資忠が右腕に負傷し、守護代酒匂らが戦死、ほか百余人が負傷したと訴える。道鑑は中風で難儀して詳しい報告ができないとして、敵方の延引を避け両御所の命による出陣を求め、さもなくば国を捨てて参洛すると申し上げる。
本文文書日付:建武四年十一月廿四〔小字日〕 刊本小字:日 / 冊子 622頁/原整理番号 一三〇/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0130
島津愛壽丸の軍忠状は、薩摩国凶徒との合戦を記す。 凶徒等が市木院城郭に立籠ったと記し、「今年九月廿九日」の合戦を述べる。 隠岐七郎行貞・知覧院三郎久直らの見知と、「爲備後證、目安状如件」の文言を記す。
文和四年九月二日ほか / 冊子 260頁/原整理番号 24の7
『古跡集』から文和四年九月二日の櫛木野合戦を抄出し、宮方勢に対する猿渡彦次郎入道らの戦功・戦死を考証する。氏久・元久の文書四通や応永四年清色城合戦の記事を年代・系図と照合し、猿渡信忠らの軍功を整理する。
正月22日 / 冊子 773~774頁/原整理番号 840
各浦の船を出水へ早く回すよう再三命じたのに、出船後に途中で隠れ、航行を遅らせているとの噂があるとして調査を求める。事実なら上乗・船頭の名を報告させ、容赦なく処罰する旨を伝える。追而書でも不届きの船頭・水手を捕らえて送り上せるよう命じ、回航の厳守を求める。
二月七日 / 冊子 93~94頁/原整理番号 152
差出人不詳の廻状。諸浦からの書状を遅滞なく継送し、南風続きで到来が見込まれる琉球船を、着船した浦から出水方面へ直航させるよう命じる。各浦の船数・積米量・船頭名を次便で報告させ、地頭・浦役人の油断を処罰するとし、二系統の回覧先を列記する。
二月十五日 / 冊子 140頁/原整理番号 235-2
川上久国・三原重庸が諸外城へ、薩州様が今日着くとの有馬からの報を受け、猪鹿を捕って二十日・二十一日までに届けるよう命じた廻状。猪は雄猪を差し上げ、ほかに各地で得られる肴もできる限り調達するよう求める。
十月三日 / 冊子 448~449頁/原整理番号 560-3
唐船・キリシタン・他国人の警戒を沿岸諸所へ回覧し、各所で受取日と次所への引渡日を宛所下へ記し役衆が判を据え、回覧後は秋目から鹿児島へ返すよう命じる。唐船への唐人乗船・荷役は上陸を避け、キリシタンが名を替えることや無手形の不審者を改め、該当者を捕らえて鹿児島へ報告する。本文日付は寛永二十一年十月二十六日で、溝辺から倉岡まで十六か所向けの同案も記すが、目録日付は十月三日である。
元暦一一年六月十五日 / 冊子 520~522頁/原整理番号 329-1
江平伝左衛門の覚書。島津家の合戦における諸将の動き、城や砦の攻防、兵の動員と戦功・戦死者を回想し、関係者への処遇を記す。
年月日未詳 / 冊子 527頁
和泉忠氏譜から、正中元年十一月晦日から翌年閏正月にかけて島津貞久が行った国廻狩の経路と、知覧院・頴娃郡・給黎院・谷山郡・鹿児島郡などで従った数百人の供人を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 140頁
島津国史として、康暦元年・南朝元中六年の改元、忽翁公島津元久による富山土佐介への知覧院水田五町の給付、左衛門佐から渋谷氏への命令などを年代順に記す。
嘉慶三年十月日 / 冊子 140~141頁
島津元久が富山土佐介に、薩摩国知覧院内の水田五町を恩所として宛行い、先例どおり知行するよう命じた宛行状。
嘉慶三年十月日 / 冊子 141頁
島津元久が市来崎入道に、薩摩国知覧院内の田三町を恩所として宛行い、先例どおり知行するよう命じた宛行状。
応永八年十一月十六日 / 冊子 203~204頁
島津久哲(伊久)が伊作大隅守へ、薩摩国知覧院で元久方の祈祷所として先日知行していた水田二十町を、新たな祈祷所として知行することを認めた書下。
応永十年九月一日 / 冊子 210頁
島津元久が伊作氏へ、阿多・河辺・知覧の本知行について自ら大綱を存じて沙汰し、等閑なく扱うよう命じた書下。
応永十五年八月十九日 / 冊子 229~230頁
平田玄親が、薩摩国知覧院内の長山・たう水・おとなり薗三か所を九十貫文で売り渡し、三年後の請戻し条件を定めた売券。目録では玄親の傍らに小字で親宗と比定する。
応永十八年閏十月廿五日 / 冊子 258頁
島津久豊が、日向国北郷・島津内および薩摩国鹿児島・知覧内で買得した所々の土地について、異議なく軍の先例に任せて知行するよう安堵した文書。樺山家三代教宗譜に収録される。
年月日未詳 / 冊子 290頁
応永二十一年八月朔日、本田五郎次郎が伊集院頼久方として知覧で戦死したとの説と、税所氏・吉田従軍者らの戦死者名を記す短い記事。
年月日未詳 / 冊子 290~291頁
応永二十一年、島津久豊方が知覧方面で伊集院頼久勢と戦い、松平・荒平付近の陣を追い破ったものの、援軍を受けた敵勢に押され、同月六日夜に城兵を率いて退去した戦闘記事。
応永廿四年十一月二日 / 冊子 305~306頁
島津存忠が伊作殿に、阿多・日置・南郷・高橋・知覧院瀬々村・河邊郡田部田村・谷山郡福本村内三十町などの所領を、先例に任せて領知するよう宛行った文書。
嘉吉四年三月八日 / 冊子 408頁
島津持久が梶山殿へ、日向国北郷の島津井、大隅国および薩摩国魔島・知覧内の各買得地について異議がないことを認め、先例に任せて知行するよう命じた安堵状。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺の士卒と桑波田孫六らをめぐる勝久方との対立を背景に、日新方が武略によって南郷城を奪取し、地名を永吉と改めた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺に現れた桑波田孫六を先約どおり鹿児島へ迎え、翌十九日に羽狩のため山へ登る留守を機に南郷城を平定したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 494頁
佐多久慶の母が島津左兵衛尉久の娘であったこと、永禄年間の出生、天正十九年に三州の所領改替を受けて旧領知覧から河辺へ移ったことを記す。久慶が同年六月二十一日に没したことも載せ、佐多氏の婚姻と所領移動を簡潔に伝える譜の記事。
慶長五年十一月二日 / 冊子 609頁
島津忠長ら四名が本田助左衛門尉へ、薩州知覧の西別府村百二十三石六斗八升五合と、庄内末吉の深川村七十六石三斗一升五合、合計二百石を加増として宛行う。
寛文四年七月十一日 / 冊子 488~491頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1074
島津久茂が、領知御判物・御朱印の頂戴に関する先例と手順を整理し、将軍家の判物、領知高辻帳、琉球関係帳簿、知覧郡の扱いなど、受領・保管・照合に必要な事項を列記した覚書。
年月日未詳 / 冊子 491頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1075
知覧郡が古書に見えないため、その村数を給黎郡へ合わせ、古書の記載どおり郡数を合計十三郡とした旨を記す覚抜書。
元禄十三年十一月一日 / 冊子 246頁/整理ID 834
諸国絵図改訂に際し、薩摩国の郡数の相違を下絵図に付紙でどう注記すべきかを尋ねた伺書。正保年間の絵図では古来の伝承どおり知覧郡を含む十四郡としたが、寛文四年の御目録では知覧郡が給黎郡へ付属され十三郡となった経緯を示し、記載方法の指示を求める。
年月日未詳 / 冊子 246頁/整理ID 835
薩摩国は古来、鹿児島・谿山・給黎・知覧・揖宿・頴娃・河辺・阿多・日置・薩摩・伊佐・出水・高城・甑島の十四郡とされ、正保年間の国絵図もこれに従ったと記す記事。寛文四年・貞享元年の処置で知覧郡を給黎郡へ属させ、御判物の目録を十三郡としたため、今回の絵図も正保図を改め薩摩国十三郡として調進した経緯を説明する。
正徳二年六月廿七日 / 冊子 14頁/整理ID 38
駒木根政方と大岡清平が松平薩摩守に、領国知覧の浦に廣南からの唐船一艘が漂着したとの報告を受け、警固を添えて当津へ差し越したことを承知したと連署で伝える。