相良權大夫の異国人長崎到着・引渡し報告
十一月九日 / 冊子 814–815頁/整理ID 2731
琉球人の口事について、綱場から桜馬場へ移して手鎖を申し付け、その後、駒木根邸で野村源助との出会いや通詞三人による口柄の確認を行った経緯を記す。手鎖を下ろした上で両奉行へ引き渡すよう伝える。
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十一月九日 / 冊子 814–815頁/整理ID 2731
琉球人の口事について、綱場から桜馬場へ移して手鎖を申し付け、その後、駒木根邸で野村源助との出会いや通詞三人による口柄の確認を行った経緯を記す。手鎖を下ろした上で両奉行へ引き渡すよう伝える。
元禄十四年十一月廿八日 / 冊子 458頁/原整理番号 266-3
御内意を伺う覚書。島津備前守の家筋・家禄の扱い、当主と子の相続関係について疑問点を挙げ、判断を求める。
〔延宝六年〕三月十七日 / 冊子 221~222頁/原整理番号 2の2
猿渡喜右衛門信安が自家系図の相違点について述べた口上覚。猿渡少左衛門後室への照会に際し、勝目助左衛門から送られた書付と自家の代々の記録に相違があるため、系図と由緒書付を調べ直して判断してほしいと申し入れる。延宝六年三月十七日付、山元孝右衛門宛。
〔天和二年〕六月三日 / 冊子 224~225頁/原整理番号 6
猿渡信安が先祖の地頭歴を記録所へ届け出た書付。猿渡越中守が加世田・羽月地頭となり、天正年中に知行を羽月へ移して城内に居住したこと、猿渡掃部兵衛が羽月地頭となったことを記す。さらに猿渡興三の栗野地頭、猿渡喜右衛門尉の川内山田地頭就任を挙げ、不明な年代は追って調査するとする。
元禄十五年五月十八日 / 冊子 363頁/整理ID 1218
進藤長之が猿渡喜右衛門へ、猿渡家の先祖が藤原姓を与えられ、譜代として相続してきたことを近衞家が重く受け止め、末永い子孫繁昌を祝ったと伝える奉書。殿下の書状が大守から伝えられるはずであるとも知らせる。
〔延宝六年〕三月十三日 / 冊子 222頁/原整理番号 3
勝目助左衛門宗将が、石庵妙庵大姉の出自と猿渡家の系譜照会への対応を記した覚書。石庵妙庵大姉は天正十四年生まれ、寛永六年十月十八日に帖佐で四十四歳で没し、猿渡越中守の子・掃部兵衛の娘であるとする。系図作成に必要な返答書の催促と照会経緯を記し、延宝六年三月十三日、猿渡喜右衛門信安宛に送る。
〔延宝五年〕九月二十五日 / 冊子 219~220頁/原整理番号 1
勝目宗将の書付と猿渡越中守流の系図。猿渡掃部兵衛が羽月地頭時代に高麗へ渡海し、十一月十八日に四十四歳で戦病死したこと、法名、弟による跡目相続、四百石の知行、加治木・帖佐への移動、子女・養子関係を記す。延宝五年九月二十五日、勝目助左衛門宗将から山元孝右衛門へ提出した系譜書付。
〔元禄二年〕正月十四日 / 冊子 225頁/原整理番号 7の1
猿渡信安が嫡子猿渡監物の初御目見と太刀進上を願った口上覚。信安自身は十歳で父監助を失い、十一歳で初御目見したこと、先祖以来太刀を進上してきたことを述べる。監物の家筋と相続事情を示し、先例どおり御目見と太刀進上を許可するよう仁礼覚左衛門に取り次ぎを求める。
〔元禄十二年〕六月十日 / 冊子 227頁/原整理番号 8の1
猿渡信安が二男猿渡助左衛門の初御目見と太刀進上を願った口上覚。二男ではあるものの、先祖代々の奉公と分家筋の由緒を踏まえて御目見を仰せ付けてほしいとし、あわせて太刀を進上する許可を求める。元禄十二年六月十日付。
〔延宝六年〕十一月十九日 / 冊子 222~223頁/原整理番号 4
勝目助左衛門宗将が猿渡信安の先祖由緒について返答した書状。猿渡越中が日向根白坂で戦死したとの伝承、猿渡掃部兵衛の高麗での戦死と帖佐惣禅寺の石塔、石庵妙庵大姉との関係を述べる。さらに、朝鮮で掃部兵衛と同様の働きをした敷根仲兵衛家の証書を、跡目を願う義耕和尚へ渡した経緯を記す。
〔元禄十四年〕五月三日 / 冊子 241~242頁/原整理番号 14
蓮光院頼英が猿渡信安へ送った書状。先月の結納使者の首尾を尋ねたのち、猿渡家の由緒書と系譜について、内容を簡潔に整えたうえで近衛家へ提出するよう助言する。近衛家の書付を受けるための取り次ぎと、由緒書二通の扱いを説明し、今後も相談に応じる旨を伝える。
〔元禄十四年〕六月二十八日 / 冊子 244~245頁/原整理番号 19
進藤刑部太輔長之が猿渡信安へ送った返書。島津綱貴が陽明御所で関白近衛基熙に対面したため御用が立て込み、猿渡家の藤原姓・由緒を証する書付がまだ出来ていないと知らせる。完成次第大坂へ送るので心配しないよう伝え、引き続き交付を催促すると約す。
〔元禄十四年〕六月十三日 / 冊子 245頁/原整理番号 20
蓮光院頼英が猿渡信安へ送った書状。島津綱貴が陽明御所で関白近衛基熙に対面した折、猿渡信安も庭先で拝見を許されたことを報じる。猿渡家が藤原姓を許された由緒について近衛家の先祖以来の記録を確認し、御書・証書を取り次いだ経緯を述べる。
元禄十二年七月六日 / 冊子 133頁/整理ID 473
島津綱貴が松平修理大夫(島津吉貴)へ、愛寿丸を島津図書の養子、徳慈丸を祢寝丹波の跡目に命じたので承知するよう伝え、詳細は家老から知らせるとした書状。両件について自身の考えは先頃猿渡喜右衛門に言い含めたとも付記する。
元禄十二年七月六日 / 冊子 133–134頁/整理ID 474
島津綱貴が島津又八郎(島津忠英)へ、愛寿丸を島津図書の養子、徳慈丸を祢寝丹波の跡目に命じたので承知するよう伝え、詳細は家老から知らせるとした書状。No.473と同文で宛所が異なり、両件に関する自身の考えを先頃猿渡喜右衛門に言い含めたとも付記する。
元禄十二年八月十八日 / 冊子 146–147頁/整理ID 518
島津吉貴(松平修理大夫)が中将へ、愛寿丸を島津図書の養子、徳慈丸を祢寝丹波の跡目養子に命じたとの知らせを承知し、めでたいこととして喜んだ書状。家老中からの報告と、猿渡喜右衛門を通じた通知の双方に触れる。
元禄十二年八月十八日 / 冊子 147頁/整理ID 519
島津忠英(島津又八郎)が中将へ、愛寿丸を島津図書の養子、徳慈丸を祢寝丹波の跡目養子に命じたとの知らせを承知し、めでたいこととして喜んだ書状。家老中からの報告と、猿渡喜右衛門を通じた通知に触れ、No.518と同趣旨で発給者が異なる。
元禄十五年五月十八日 / 冊子 363頁/整理ID 1217
近衞基煕が島津綱貴へ、猿渡喜右衛門家が藤原氏へ累代奉公し、その系譜も明白であることは誠に立派だと述べた書状。子孫の繁栄を願い、近衛家として喜んでいると伝える。
六月廿五日 / 冊子 588頁/整理ID 1996
平松時方が六月二十五日、吉貴へ、九日に帰国の暇を賜ったことを喜び、左大臣を訪ねる際は拙宅で朝食を取り休息して狩衣に着替え、同行してはどうかと招く。亀姫関係の諸事は河上長左衛門一人では不案内で、猿渡喜右衛門は江戸留守を命じられたと聞くため、嶋津大蔵・家村平八のうち一人を吉貴上京まで京都にとどめるのがよいと勧め、詳しくは対面して話すと伝える。
宝永二年五月十日(出発)・二十七日(到着) / 冊子 576頁/整理ID 1966
五月十日、亀姫婚姻のため江戸高輪邸を発ち、家老嶋津大蔵久明、用人猿渡喜右衛門信安、川上長左衛門久恭らが随行する。東海道を経て同月二十七日、近衛左大臣家熙の邸へ到着した。久恭は亀姫用人、初め奥家老で後に用人となったと注記する。大納言家宣の御簾中から吉貴へ奉書が贈られ、次に掲げることも記す。