島津豊久譜
年月日未詳 / 冊子 581頁
島津豊久が慶長五年九月十五日、関ヶ原で軍勢敗北の際に戦死し、享年三十一、法号を天岑昌運としたことを記す。家臣では中村源助・上原貞右衛門・富山庄太らが戦死し、ほかにも死者がいたが死所は不明とする。
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年月日未詳 / 冊子 581頁
島津豊久が慶長五年九月十五日、関ヶ原で軍勢敗北の際に戦死し、享年三十一、法号を天岑昌運としたことを記す。家臣では中村源助・上原貞右衛門・富山庄太らが戦死し、ほかにも死者がいたが死所は不明とする。
十一月十四日 / 冊子 327~328頁
熊本方面の城郭・軍備・人員を探った情報覚書。城内外の区画、堀・門・番所、騎馬・陸衆・町人等の人数、図面作成、江戸からの飛脚、横目衆六十人の巡回、秋月氏の福島到着予定、海老原源助による聞き合わせなどを報告した。
二月三日 / 冊子 27頁
利安が島津龍伯へ、斎藤源助の件を油断なく扱うよう念を押し、名字・名の取り違えがないか確認して訂正するよう求めた書状。原冊には上包・封の情報も併載される。
天正元年正月六日~十一月 / 冊子 296~297頁
天正元年の島津方戦死者を日付別に列記する。正月六日の住吉原合戦で河野主税良次・田原大蔵信秀ら、三月十八日の西俣合戦で禰寝重長臣野間武藤守以下約三百人、早崎関係では肥後平次郎・桑波田孫太郎・河野玄蕃允らを掲げるほか、七月・十一月などの戦死・殉死者を多数収録する。
天正元年正月六日 / 冊子 297~299頁
天正元年正月六日の住吉原合戦を詳述する。北郷時久は相久・忠虎と手勢を率いて不意に肝付軍を攻め、知覧久親ら各地の援軍とともに松山城戸口まで追撃し、伊集院竹友以下百五十一の首級を得た。味方も河野主税・田原信秀らを失った。この日が北郷家の僧礼日に当たり、急報のため簡略な酒礼を行ったことが龍峯寺門徒の正月六日の先例になったと伝える。
十月二日 / 冊子 146頁
白尾幸孝が白尾五兵衛尉へ、唐島の五日崎に在番して銀子が尽きたため援助を求めた書状。未完成の手火矢、長刀、身の回りの品の手配を頼み、留守宅の家族や奉公人の無事を尋ね、年明けには帰朝するつもりだと伝える。
年月日未詳 / 冊子 237頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0487
中山王尚質の使者国頭按司正則が北谷按司の代使として来日し、伊集院源助久朝の監督で江戸・日光へ赴いた。光久は将軍家綱への拝謁、日光参詣、登城と暇付与を取り計らい、使節は十二月に薩摩へ帰着した。
享和3年7月19日(本文・付札) / 冊子 217頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0704
白木御文書六番箱93号の知行目録。高30斛、帖佐西餅田村の高浮免内とし、名寄帳は別冊にある。亡父赤崎源助が斉宣公の幼年から学問の相手を深切に勤めたため、格別の思召で前年8月、江戸にて存生中の源助へ拝領を命じた土地なので、全く所務できるとする。享和3年7月19日、赤松市正則決・高橋縫殿種央・川田伊織佐賢・菱刈下総隆邑・頴娃信濃久喬の5名判、源太郎宛。上包は知行目録写。下段付札は赤崎源助への御高拝領知行目録写、白木六番箱93号・享和3年亥7月19日とし、94号の養子縁与時の規則への参照も併記する。前703の給禄・子孫永領記事と本目録の地所・所務・署宛を区別する。
正徳元年十一月二十八日 / 冊子 981頁/整理ID 3158
島津吉貴が伊集院十太郎に「源助」と名乗るよう命じた短い判物。加冠に際して与えた名を「宜為源助」と記し、日付・御判・宛名を添える。
年月日未詳 / 冊子 156~157頁/原整理番号 40
小野太郎家綱を起点とする江田源助家の系図。家綱は文治三年、源頼朝が惣追捕使として諸国の国人を御家人に補した時に日置地頭となり、島津忠久の命により内裏大番を勤めた。家重は父の譲りを受け日置を領し、京都大番・筥崎警固に従事した。家長は兄に男子がないため跡を継ぎ日置を領して大田を号し、家氏は大田を退いて江田へ改称し、肥前松浦の湊村・同国移万名等の地頭として居住した。家房は松浦を退き日州三俣へ移り、家貞は三俣領主肝付兼重が畠山式部に攻められた際、兼重を山林へ逃がして肝付八郎兼重と名乗り身代わりに討死した。両家は一方が絶えれば他方が継ぐと誓約し、兼重は遺児兼政に伴姓と『兼』字を与えたとする。後半は兼盛・兼房・兼行、兼尭・兼秀、兼賢・兼廣・兼乗、兼年らの系線、官途・通称を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 131~132頁/原整理番号 482
肝付源助家の系図。宮内丞・加賀守兼義について、廻之城に忍び入り、島津方が城を攻めた際の濱ノ口合戦で戦死したこと、馬の水舟を被って城内に潜入したとの家伝を記す。子孫の奉公・戦死、僧籍入り、婚姻・養子関係を連ね、兼福の出生と天和三年五月三日の死去、法名金室金剛信士まで記載する。
十一月九日 / 冊子 814–815頁/整理ID 2731
琉球人の口事について、綱場から桜馬場へ移して手鎖を申し付け、その後、駒木根邸で野村源助との出会いや通詞三人による口柄の確認を行った経緯を記す。手鎖を下ろした上で両奉行へ引き渡すよう伝える。
明和二年(同年記事。去歳・翌年の経過を含む) / 冊子 105頁/原整理番号 214/整理ID 214
去歳、中山王尚穆が家重から家治への譲位を賀し、読谷山王子を江戸へ遣わして献上し、将軍からも数品を賜った経緯を記す。その謝恩のため、この年六月廿七日に尚穆が称覇親方を鹿児島の本府へ送り、書と献品を託した。九月九日の条に、新納権左衛門時高を継使、大迫源助貞休・澁谷甚八國般をその宰として江戸へ送ることを記し、六日発国の添注がある。随行雑卒は四人。十一月九日に芝邸へ着き、十七日に留守居佐久間新左衛門村央が時高を導き、松平輝高・西丸老中阿部正右・側用人板倉勝清の各邸へ尚穆の書と重豪の副翰を届けた。翌十八日、時高は登営して蘇鉄之間で将軍へ龍涎香一筐・緞子二十巻・細布二十端・八重山島熬海鼠二筐・泡盛酒三壺を献じる。官香二十把・色繻子三十巻は目録のみとし、添注に入手・海上損壊の事情と翌年献納の許可を記す。翌年九月に右筆稽古亀山用右衛門・門良矩、歩行士森怡春某が色繻子三十巻を江戸へ送り、十一月十三日に献じたとの説明もある。御台へは龍涎香一筐・緞子十巻・細布十端・熬海鼠一筐・泡盛酒二壺を献じ、西営の蘇鉄之間で若君へも同じ数量の五品を献じた。取次後、松平武元・輝高・康福・阿部正右へそれぞれ書翰と細布五端・泡盛酒一壺を贈る。翌年正月五日に時高・國般が雑卒二人と帰国の途に就き、二月五日に到着。十五日に称覇親方を城の敷舞台に召し、家老が旨を宣して老中奉書と重豪の副翰を渡し、品物を与えて帰国を命じた。末尾に老中奉書等について「明年四月留真致写吾本府」と記す。
享和3年7月子孫永領、前年8月給禄(本文) / 冊子 216頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0703
赤崎源助は名貞幹・字彦禮・号海門で、笈を負って江府へ遊学し昌平黌へ入り、儒名が天下に著しく、幕府が講官佐へ挙げたとする。斉宣は幼時からその門で学び、懇篤な教導によって文字を知ったのは実に源助の力だったと述べる。前年8月、江府でその恩に報いるため田禄30斛を与えた。その後源助が没したので、今享和3年癸亥7月、家老が連署して子源太郎へ書を与え、子孫に永領させたと記す。出典は斉宣公御譜中。学問上の恩と前年の給禄、没後に子へ交付した書及び子孫永領を区別し、死亡日を推測補填しない。
(寛永9年)12月14日 / 冊子 36~37頁/原整理番号 39
山田七郎右衛門尉ら三名が川因幡守へ、本丸・二之丸の間を埋める普請、堀や出入口、五つの口の守備配置と昼夜の巡回を報告する。紀之国様・尾張様の不和や兵具用意の風聞、江戸飛脚、伊東殿の帰宅、秋月殿の福島到着予定も伝える。八郎ヶ野番衆の海老原源助から孫六へ状況を伝え、急変時に連絡する段取りを記す。
寛永廿年九月十五日 / 冊子 152~153頁/原整理番号 104
寛永二十年九月十五日の「初日二番四角之外」犬追物手組。島津安藝守四疋、島津源助一疋、三原遠江守二疋などの配当を記し、検見を島津志摩守、喚次を島津外記とする。
正保三年四月七日 / 冊子 155頁/原整理番号 112
正保三年卯月七日の「初日二番四角之外」犬追物手組。島津安藝守・島津源助・和田次郎右衛門尉らの射手と犬数を掲げ、検見・喚次のほか日記、射手奉行などの役名も記す。
慶安元年九月廿七日 / 冊子 168頁/原整理番号 123
慶安元年九月二十七日の「二日四角之外」犬追物手組。島津安藝守二疋、伊集院源助五疋、本田久左衛門尉三疋などの配当を記し、検見に光久様、喚次に島津仲次郎を挙げる。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。
年月日未詳 / 冊子 702頁/原整理番号 732
正月十五日の国分賦所記録。盾板十五枚・大釘三十・熊手十などの調達と代銀・代銭を記し、国分御城山の松で盾板を作り、奉行が出水米之津まで宿送りするよう手配する。続いて十五日までの出立人数85人と国分から付けた人躰、付衆・大工等の名前を記す。
年月日未詳 / 冊子 434頁/原整理番号 545-1
寛永十九年十二月、城下士を初めて十組に分け、各組に組頭二名を置いた由来と、一番から十番までの組頭二十名を列記する。別に家老組一組を設け、島津弾正久慶・島津図書久通を与頭とした。寺社家組・諸役座組なども分け、合計二十六組を置いたと記す。目録年月日は空欄のため、本文の年月をB列へ補入しない。
年月日未詳 / 冊子 350~351頁/原整理番号 48
北原兼守の死後に兼正らが横川城へ籠もったため、島津方が攻めた時の忠元の働きを記す。伊集院久春が先に登り、忠元は城門で槍を用いて戦い、城は陥落した。別の記事では伊集院元巣と城戸口で戦った際の負傷や、溝辺に貴久が滞在した時に両人を派遣したことも記し、攻城での忠元の功を伝える。
文書日付:永和三年十月廿八日 日付留保:日付字面は永和三年十月廿八日を保持。年号前記号・年数細画・正文年紀と補注の区分は未確定。 / 冊子 254~256頁/原整理番号 三一四/整理ID TMP-P02-NENE2-D0314
将軍家御方として同心し忠節を尽くす。島津伊久・氏久の降参が治定した場合、今後の両人退治には改めて公方御意を請うとする。 両人が御方に参っていても、一揆人の知行への競望・合戦時には、公方御意を待たず現地に馳せて防戦する。 所領相論などは合議し、多分の議と理運によって扱う。契約違背者への対応と、本領再住・恩地入部に公方御意・衆議を要することを定める。 「一揆衆中お憑楚忽沙汰候時者」には合力しないとし、公方への訴訟は理運により共同で申し立てる。違反には神罰を受けると誓う。
慶安三年十一月十八日 / 冊子 186頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0360
両上様の機嫌伺いのため伊集院源助を江戸へ差し遣わしたことを了承し、息災を伝え、目録の進物を披露したと返答する老中連署状。
慶安三年十一月二十日 / 冊子 186頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0361
伊集院源助の江戸派遣を了承し、将軍の鷹狩りを伝え、道服五領・国焼の皿二十・肴一種の献上を披露したと返答する老中連署状。
元禄十七年三月十日 / 冊子 469頁/整理ID 1626
島津綱貴が別所播磨守常治へ、家来の野村源助を当地の用件を承るため派遣したので、万事適切に指図してほしいと依頼した書状。
十一月十六日 / 冊子 759頁/整理ID 2564
島津吉貴が永井直囿・佐久間信就へ、日向国諸県郡志布志で切支丹宗門の疑いがある一人を捕え、当地で取調べたと報告する。口問の内容を別紙三通にまとめ、本人をすぐ差し出すべきか指図を求め、使者の野村源助を派遣した。
十二月五日 / 冊子 761頁/整理ID 2571
松平忠栄・松平輝貞が島津吉貴へ、志布志で切支丹宗門の疑いがある一人を捕らえ、口問を別紙三通に記したとの報告を受けたと答える。取調べのうえ、使者野村源助を通じて本人を早く当地へ差し出すよう求める。No.2564への返書。
年月日未詳 / 冊子 352頁
伊集院久春(千代・源助・肥前守、入道名元巣)を起点に、母を伊地知左近将監重貞の娘と記す伊集院氏系図。久春が島津義弘の代に家老職へ補任されたことを掲げ、伊集院氏の家格と家中での位置を示す。
年月日未詳 / 冊子 225頁
島津久基の譜記事。久基は忠清の弟・忠栄の子で、初名を久盛、幼名を鎌菊、通称を弥市郎、官途を美作守・民部少輔といい、実父は入来院伯耆守重国であったと記す。伊集院源助久朝とともに六番組の与頭を務め、隅州牛根・薩州高尾野などの地頭を歴任し、延宝八年正月十二日に没した。