忠堯坪付
閏9月吉日 / 冊子 750頁
谷口忠堯が、大隅国清水のうち北辰神社に付属する土地の坪付を作成したもの。田畠を所在地ごとに分け、反・畝・歩および収量を記して、神社領の規模と内訳を示す。 戦国末期の神社経営を支えた土地配分と年貢基準を確認できる実務文書。
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閏9月吉日 / 冊子 750頁
谷口忠堯が、大隅国清水のうち北辰神社に付属する土地の坪付を作成したもの。田畠を所在地ごとに分け、反・畝・歩および収量を記して、神社領の規模と内訳を示す。 戦国末期の神社経営を支えた土地配分と年貢基準を確認できる実務文書。
年月日未詳 / 冊子 750頁
清水北辰神社の祭礼費として渡す米を「籾米七斗八」と定めた入目書。祭礼に必要な支出を、谷口忠堯が具体的な米量で記録する。 No.1222の坪付と対になり、神社領から祭礼経費がどのように賄われたかを示す短い会計文書。
三月九日 / 冊子 430頁
島津義久の書状案。緩五端の贈答に謝し、名代の勝光坊が観世音宝前で祈念を受けたことを喜ぶ。舞台再興のため銀子十貫目を勝光坊へ渡すので、作事を急ぎ命じるよう清水寺成就院へ求めた文書。
(慶長十三年)二月廿七日 / 冊子 162頁
慶長十三年二月二十七日、清水光直が島津家久に年賀を述べ、駿府城火災への気遣いに答えて再建がほぼ完成し翌月十一日に移徙予定であること、家康が健勝で当年の上洛もないことを知らせた書状。
(慶長十四年)十二月廿四日 / 冊子 250頁
十二月二十四日、清水光直が島津家久に、琉球の件が望みどおりとなり大御所の機嫌もよいことを祝い、段子一巻の贈答を謝した。使者の到着と本多正純の披露にも触れ、今後の引き立てを願う書状。
(慶長十四年)十二月廿四日 / 冊子 250頁
十二月二十四日、清水光直が島津義弘に、春の下向を喜び、贈られた織物三巻を謝したうえで、琉球の件が意向どおりとなり大御所の機嫌もよいと伝え、今後の厚意を願った書状。
(寛永十五年)二月廿三日 / 冊子 757~758頁
島原・天草一揆への薩摩勢派遣を記す年代記。島津家久の病気と島津光久の江戸滞在、総勢一万一千二百六十八人の編成と諸隊の人数、出水・米之津までの出陣、島原落城による帰陣、光久の江戸出立・有馬到着などを記録する。
年月日未詳 / 冊子 310頁
薩摩・大隅西方の反乱を鎮めたのち日向伊東氏の討伐を企て、油津へ兵を進めて加江田城を攻めたが、清水氏一族の堅守と通路難のため軍を帰した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 423頁
『本田重恒譜』に、文安五年十二月二十九日、税所氏らと清水で戦い、本田重恒が石原口で国親に討たれたことと、その法名を義翁忠公とすることを記す。
年月日未詳 / 冊子 596頁
永正六・七年の国内動向と薩摩の事件を年次順に掲げ、島津忠治期の幕府関係、清水氏や島氏をめぐる動きを記す島津国史の記事。
年月日未詳 / 冊子 650頁
本田親尚が本田兼親を島津勝久に讒訴して所領を収公させたことや、清水隼人城など本田氏一族の動向を記す記事。
三月十一日 / 冊子 657頁
隈江匡久・中野歳信が、番城の守備と出動時期、境目の敵情を毎日偵察することを指示し、白清水・真幸方面の情勢を伝えた連署状。
(大永六年)八月廿一日 / 冊子 667頁
隈江匡久が山田安藝守に、蒲生・祁答院・北郷・本田方の動向、御屋形衆と祁答院勢の二度の合戦と損害、白清水からの注進などを伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 685頁
大永七年、清水城に籠る敵を攻めるため八幡宮の衆徒らを動員し、仏敵退治と神威を掲げて本田・新納方へ進攻したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 687頁
勝久・本田氏らをめぐる清水の処置、正興寺や八幡宮領の水汲み・社役、宮内社家の権益と旧例について申し立てた覚書。
年月日未詳 / 冊子 700~701頁
吉松の伊東勢との合戦で遠州三か所へ切り込み、敵百四十五人を射殺して退け、清水・姫木方面の城衆を動員して警戒を続けた戦況報告。
年月日未詳 / 冊子 913頁
『島津貴久譜』が、天文二十三年九月十一日に島津軍が加治木へ進んだ戦況を記す。貴久方は清水・帖佐周辺で肝付・蒲生方の兵と交戦し、敵兵を討ち取る一方で味方にも戦死者を出し、翌日以後の岩剣城攻撃へ向けて陣を整えた。
天文20年8月26日 / 冊子 601頁
前加賀法眼東尊が執印越前守へ、大隅国正八幡宮の執印職に紀越後儀景が補任されたことを通知する。 石清水八幡宮善法寺法印掌清の命を受けた執達文で、任命を承知し、儀景が神事に専念できるよう取り計らうことを求める。中世の大隅正八幡宮と石清水八幡宮の人事関係を示す史料である。
文禄3年5月吉日 / 冊子 782頁
大隅国清水の北辰社領について、寺田・上田・下田などの坪ごとに面積と分米を列記した坪付。橋口伴左衛門先、田中備後助先などの旧名義を示し、合計一七石四斗七升四合と算出する。 社領の所在と旧給人、石高を照合できる土地台帳で、谷口安房介忠実と忠堯の連署を伴う。
慶長二年十二月廿六日 / 冊子 152~153頁
島津竜伯が清水千手観音に立てた願文。普門品一万巻の読誦を誓い、国家安全、武運長久、子孫繁栄、息災安穏、諸人快楽を祈願する。
年月日未詳 / 冊子 162頁
慶長十三年二月、前年十月に焼失した駿府城の殿舎再建が成り、三月十一日を移徙の日と定めたこと、徳川家康が参洛せず島津家久も国元に留まったこと、清水光直がその事情を報じたことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 389頁
慶長十八年正月、島津義久が清水岡寺で父島津貴久の忌辰追善を営み、法華経の読誦、僧への大斎、音楽や散花などをもって冥福を祈ったことを記す義久譜の記事。
寛永十一年二月十九日 / 冊子 412頁
清水北辰神社関係の屋敷名・間口等を記し、検地帳に載せつつ先例により免許し、門前田畠などには軍役・諸役を課すことを定めた支配所寺社屋敷目録。
三月十一日 / 冊子 130頁
限江匡久・中野歳信が山田安藝守に、番城誘を堅く守り油断しないよう命じた連署書状。境目に敵が見える場合は毎日人数を出して時機を示すこと、本田紀伊や北郷方との連絡、清水の警固を怠らないことを求める。
四月廿八日 / 冊子 130~131頁
限江匡久が山田安藝守に、本田紀伊が伯耆方へ礼のため赴くことを知らせ、当地の人数が少ないため清水の番に配備するよう求めた書状。尾州清水への移動や北郷方の動向を見極め、番衆を整えるよう指示する。
三月四日 / 冊子 367頁
島津義久が又六郎(島津歳久)の体調を尋ね、境目の情勢、番衆が小勢となること、仕役の相談、典厩と同様の上申、清水への連絡について分別を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 312~313頁/原整理番号 14
島津運久が日新を養子に迎えたことから説き起こす一族の由緒。後に生まれた実子とその子孫の家督・奉公の経緯、所領を離れて諸国を転々とし、播磨国に移った家系を述べる。
保延元年十月廿五日 / 冊子 13~14頁
院主石清水権寺主大法師が政所正信に対し、寺領田畠を無断耕作して負担を逃れる者を調査し、耕作者を確定して政所の沙汰に従わせるよう命じた下文。特に入来郡では公験がある田地でも長く沙汰が行われなかったことを問題としている。
年月日未詳 / 冊子 347頁/原整理番号 96
清水台明寺の鐘銘を記録する史料。寺の位置や鐘の来歴・修理を説明し、鐘に刻まれた銘文と年紀を掲げる。
目録年月日記載なし / 冊子 362~363頁/原整理番号 32
「清水次右衛門盛富年中記」は、元禄十七年の綱貴・忠英の花尾権現参詣と供奉を記す。続く社伝本文は平等王院の再建、宝永年間の愛染像や寄進を年代順に記す。
二月廿四日 / 冊子 103頁
出銀負担を一石につき三分から五分へ変更し翌月二十日までに集めるよう求め、人別日記を受領したこと、豊後からの捕虜を月末に集める際の責任者は一人でよいかを相談した書状。
元禄二年十二月十五日 / 冊子 848頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2254
朝廷が従五位下源吉貴(島津吉貴)を従四位下に叙する旨を伝えた口宣案。上卿は清水谷中納言、蔵人頭右近衛権中将藤原定経が奉じた。
〈宝暦四年〉(月日記載なし) / 冊子 469頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1425
松嶋・岩橋・浦尾・たきつ・さえたの五名が、松平薩摩守様方の人々へ送った返書。二月六日付の書状を受け取り、公方・大納言がますます御機嫌よく過ごしていることを喜ぶ意向を承知する。年頭の祝儀を申し上げ、「春井御あけ」と記される折、公方が萬次郎の御目見を命じ、上意を賜り、そのうえ御料理を下されたことを、まことにありがたく思う旨を受ける。 御礼を申し上げる趣旨はそのとおりよろしく伝え、萬次郎様へも御礼の趣旨を申し上げると返答する。萬次郎には「清水重好」の注が付される。冒頭に「重年公御譜中」「正文在文庫」、末尾に松平薩摩守様方の人々御中への「御返事」と五名の署名、宝暦四年の朱注がある。二月六日は受信書状の日付で、本書自体の発給月日は記されない。「春井御あけ」は本文の表現で、具体的な儀式内容は示されない。
宝暦十三年(本文経過は六月十四日~十一月二十日、前年の派遣も記す。目録日付欄空欄) / 冊子 983~984頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2809
惇信院の訃報が琉球へ届き、中山王尚穆は前年に豊見城親方へ弔書を託したが、逆風で那覇へ戻り、荷が沈んで装備も潮水で損なわれたため渡航できず、今年改めて豊見嶺親方を遣わした。六月十四日の薩府到着後、重豪は清水源兵衛盛容を継使、田中甚助を宰領として江戸へ遣わし、一行は七月十八日に薩府を発ち、八月二十七日に芝邸へ着いた。九月八日、留守居の案内で清水が秋元凉朝・板倉勝清へ重豪の添翰と尚穆の弔書を届け、忠寄・武元・輝高宛の書状も凉朝が受け取った。十月八日、凉朝・勝清ら各邸で奉書返札と尚穆への報翰を受け、十五日に江戸を発ち十一月二十日に薩府で復命すると、家老は豊見嶺親方に老中報翰・家老添翰を渡し、老中報翰を写して上呈するよう命じた。
亥5月9日(本文。享和3年は一件蓋紙による) / 冊子 218頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0049
706の1。お隣・剛之進・武五郎の母は嶋津久山(久建注)娘、職之助・お美壽の母は林玄長娘、お長の母は永田閑龍(利安)の養女で実は清水源左衛門(盛之)家来の青木休右衛門娘と記す。記録奉行から子女の実母附について申出があり、吟味を命じられて調べたところ右のとおりだったと報告する。亥5月9日、御側御用人・御側役。母の養家・実父と子女の対応、官職による連名を保持する。別系譜661・662の武五郎及びお美壽の母表記と同一姓名へ置換しない。
文政3年(近衛基前薨去一件の添付。本文月日なし) / 冊子 575~576頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0103
印刷「の2」の別紙。近衛基前の親族を区分別に並べる。御母は圓臺院宮(経熙室・嶺子王女)、御簾中は維君(徳川氏・泰子)、御嫡は大納言(忠熙)、御縁女は都君(斉興養女)、御弟は大覺寺門跡(充深)と實相院門跡(義海)、御妹は大樹御臺所と享君(東本願寺門主室)とする。御外甥の列には西丸右大将家慶、峯姫(家斉女)、紀伊宰相(家斉男・斉順)、浅姫(家斉女)、元姫(右同)を記す。次頁の御妹子の列には文姫(家斉女)、清水保之丞(家斉男・斉明)、田安要之丞(右同・斉荘)、盛姫(家斉女)、松平乙五郎(家斉男、原注は斉衆と読める)、和姫(家斉女)、溶姫(右同)、松平銀之助(家斉男・斉民)を並べる。末尾に光養君(東本願寺門主嫡)、孫君(同次男)、聖護院宮、田安中納言殿簾中(斉匡)を連記する。全二十五名と傍注を保持し、末尾の「同」の親族対応と松平乙五郎実名注の比定は要確認とする。日付・署名・宛名は本文に示さず、一件の添付として扱う。
寛政7年7月13日(本文同年、年次は配列による) / 冊子 93頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0307
同年7月13日、今年は御鷹の雲雀を賜らないと諸侯へ令を伝えたことを記す記事。理由は大家が徳川重好卿の喪に居るためとし、重好には清水の注を伴う。御鷹の雲雀という下賜慣行と服喪による停止を記した短文で、家斉発給の御内書本体ではない。記事に記された7月13日と、旧年月日欄の9月7日を区別して訂正する。
文政7年12月26日(本文) / 冊子 721頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2037-1
上卿清水谷中納言のもと、源斉彬を従五位下に叙する口宣案。文政七年十二月二十六日付で、蔵人権右少弁藤原光暉が奉じる。
文政7年12月26日(関連文書の年月日。当書立に独立日付なし) / 冊子 721頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2037-2
松平兵庫頭について、従五位下叙位の上卿を清水谷中納言、職事を日野西権右少弁、兵庫頭任官の上卿を三条西中納言、職事を万里小路左少弁とする書立。関連文書の担当者一覧として整理する。
文亀四年三月十四日ほか / 冊子 333~334頁/原整理番号 3の32
本田玄賀入道自記の引用と重久氏系譜の考証。兼親の代以来の帖佐方との争いと和睦、清水・曽於郡をめぐる所領関係を記し、文亀四年三月十四日などの系譜記事を挙げる。後段では島津家の宮参に供奉した重久某の従者・武具を示し、重久孫七に比定する。
目録年月日記載なし / 冊子 193頁/原整理番号 12
「實久公御軍記ノ抄」。伊地知家の者が旧軍記から、實久公の命、清水権龍の作事、国中の人員・神官らの事情を抜き書きする。
文治三年二月廿五日 / 冊子 58頁
座主僧覚源が、薩摩国伊作郡内の清水薬師寺領田地を売却した売券。字花牟礼田など田地の所在・坪付と面積を記し、代価を受領したうえで、将来の妨げがあれば売主側が弁済すると保証する。
元亨四年三月十六日 / 冊子 516頁
大検校円与が曽野郡竹井田三段を清水霊明寺へ寄進し、山王御宝前の供田として、恒久名内の所領とともに衆徒へ伝領させ、違乱を禁じた寄進状。
年月日未詳 / 冊子 700頁
肝付兼重らが草牟田・清水城方面で戦った経過を記す肝属兼重譜の記事。大隅忠国・谷山隆信・矢上高純・平忠世らが入曽於郡して戦い、橋木城での交戦にも及んだことを記す。
年月日未詳 / 冊子 711頁
重久篤兼らの合戦経過を記す系譜記事。前年十二月から肝付兼重・野辺孫七盛忠・大隅助三郎忠国らが向城・橋木城を攻め、二月・三月に吉水・清水寺・鼻連山・日当山城へ転戦し、夜襲、焼討ち、敵の討取り、諸将の戦功を記す。
応永廿八年二月廿八日 / 冊子 317頁
沙弥文西が、姫木に住む大中臣角入道文西として、清水楞厳寺へ水田五段を現世・来世のため関係証文とともに寄進した文書。
永享五年九月八日 / 冊子 362頁
中道玄祐が、師子神人馬四郎検校から本銭返し条件で取得した善神王畠一段を、両親の後生善のため本大書を添えて清水の『れうこん寺』へ寄進し、元の持主が請け戻す際は別の在所を充てるとした文書。
永正十三年八月廿六日 / 冊子 612頁
石塚種延が清水楞厳寺へ、大門口一町内の田二段などを寄進し、本物は宇大鳥丸貫文・洪武二貫文・米一斗であると記した寄進状。
慶長十年九月廿七日 / 冊子 34~35頁
島津義久譜の記事。慶長十年九月二十七日、島津忠恒(太守)が清水岡寺(岳寺)に遊び、車を留めて和歌一首を詠んだことを記す。その後、御歌を拝覧した松堂が、境内と菊花を詠んだ御歌の韻を用い、花亭で七言絶句を賦して唱和した。唱和詩は、山に囲まれた小蓬莱に太守の車が留まったこと、荒れた菊園の野趣と和歌の芳意を詠む。和韻の正文は清水岡寺にあるとの注記を伴う。
慶長十一年十二月廿六日 / 冊子 102頁
慶長十一年十二月二十六日、島津龍伯が清水千手観音に法華経普門品一万巻の讃誦を誓った願文。国家安全、武運長久、子孫繁栄、息災安穏、諸人快楽を祈願する。