島津貴久書状
七月一日 / 冊子 349頁
島津貴久が比志島氏へ、境目の様子、川口からの帰還、春山の件、世上の情勢や伊集院方の混乱を伝え、近日中に自ら訪ねて諸事を申し述べるとした書状。
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七月一日 / 冊子 349頁
島津貴久が比志島氏へ、境目の様子、川口からの帰還、春山の件、世上の情勢や伊集院方の混乱を伝え、近日中に自ら訪ねて諸事を申し述べるとした書状。
永享四年五月十五日 / 冊子 355頁
島津貴久が比志島氏へ、世上が変転しても二心なく信頼し、忠節を生涯忘れず、和議を害する動きがあれば直ちに知らせると誓った起請文。本文年紀は『永享三年五月十五日』。
長禄三年十月十九日 / 冊子 436頁
島津立久の加冠に関する文書。正文は比志島左京義時所蔵とされ、立久公御譜中にも収録される。
明和七年十月 / 冊子 323~324頁/原整理番号 34
比志島氏の由緒を述べる抄録。左馬助義興らの奉公と、比志島氏の家筋が島津家から認められた経緯を記し、家中の役職、相続や家格に関する伝承を挙げる。
年月日未詳 / 冊子 324~325頁/原整理番号 35
源姓比志島氏の庶流を示す略系図。義重以下の諸系統を線で結び、各人の通称・官途、養子・兄弟関係、居住地や所領を付記する。
年月日未詳 / 冊子 283~285頁
応永二十年十二月上旬、島津久豊が伊集院頼久とともに菱刈の凶徒討伐へ進軍した義天公譜記事。吉田清正・蒲生清寛・佐多忠豊・川田・比志島諸氏が参加し、鹿児島本城・東福寺城周辺で交戦した。諸将の戦死と忠功、敵方の後退、帰陣までを記し、討伐軍の構成と損害を示す。
年月日未詳 / 冊子 286~287頁
応永二十年十二月上旬、伊集院頼久方が鹿児島本城を攻撃した戦況を記す。蒲生清寛・吉田清正・比志島・河田諸氏らが関わり、久豊方は東福寺城と鹿児島周辺で応戦した。屋形への侵入と焼討ち、城下での交戦を経て両勢が進退した経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 287~288頁
応永二十一年正月、伊集院頼久方が小山田範清の小山田城を攻撃したことから始まる戦役。鹿児島・東福寺城周辺で久豊方が反撃し、比志島・蒲生諸氏も交戦した。戦後は島津久世との和解を進め、城・所領の処置を整えるまでの経過を記す。
十月十八日 / 冊子 36~37頁
大峯採燈護摩の結願巻数を送り、佐渡で金地袈裟を着た山伏をめぐる本山・当山間の訴訟が将軍裁許で照高院側の勝訴となったことを報告し、茶壺を秘蔵することや祈念継続も伝えた書状。
建武二年二月卅日 / 冊子 633頁
薩摩国の内裏大番役を勤仕すべき御家人の別交名注文。大隅二郎三郎、渋谷氏・矢上氏・比志島氏・光富氏、式部孫五郎入道、周防蔵人三郎、朝臣弥三郎らを列挙する。
暦応二年八月三日 / 冊子 721頁
比志島氏の還住を喜び、京都の静謐を報じ、国奉行の処置や近く下向する用事について連絡した酒勾久景書状。
(建武四年)十月廿九日 / 冊子 699~700頁
加木県城に残る凶徒の追討を比志島彦次郎らへ命じた沙弥誓念書状。十月十八日に軍勢を率いて発向し、北村諸三郎範清の親類右衛門六郎が射られた夜戦、同十九日の城攻め、軍奉行下の軍勢配置を記し、退散した敵を追って軍忠を尽くし後日の恩賞に備えるよう促す。
弘安三年四月一日 / 冊子 304頁
笹崎警固番役について、弘安三年四月一日から翌年十月まで勤仕した期間を覆勘した比志嶋氏文書。
弘安四年五月一日 / 冊子 308頁
異国警固の宮崎番役について、弘安四年二月二日から五月一日まで島津久時が比志嶋代河田右衛門尉を勤仕させたことを覆勘した文書。
嘉暦元年九月四日 / 冊子 548頁
勝長寿院・建長寺の唐船が載せた物資を京都へ運ぶ兵士について、薩摩国の地頭御家人を催進し、早く参加の意思を報告させるよう命じた守護代本性の書下。
建武二年三月廿七日 / 冊子 634頁
薩摩国満家院の小山田・油須木・東俣・比志島等の御年貢について、上原三郎久基を所補任役職とし、契約のとおり年貢を納めさせ、名主・百姓らが違失しないよう命じた良舜奉書。
建武四年八月十日 / 冊子 696頁
No.1960と同趣旨で、足利直義の御教書を受け、吉野の凶徒追討へ早く発向するよう命じた島津貞久施行状案。
年月日未詳 / 冊子 775頁
南朝正平二年・北朝貞和三年、南方勢の隆信城入城に対し、比志島彦一範平が谷山城へ援兵を送り、公師泰らが正月から六月にかけて東福寺城・濱崎城などを攻めた経過を記す。熊野海賊数千人の来襲、海陸からの攻撃、河西七郎義清らの捕縛・追却を月日順に列挙した肝付兼重伝。
貞和四年十一月十六日 / 冊子 785頁
島津貞久が比志島孫太郎へ、八月十九日付御教書に基づく樺井四郎頼仲退治のため、九月八日以前に指定地へ馳せ寄り、軍忠を尽くすよう命じた施行状。
貞和五年正月廿六日 / 冊子 786頁
島津貞久が比志島彦一へ、薩摩国合戦について御教書に基づき度々催促したのに参陣しない理由を問い、来月十日以前に一族と相談して馳せ参じるよう命じた書下。
(貞和五年)八月十八日 / 冊子 826頁
島津道鑑が、石井中務丞が大隅へ下向して巻狭城を奪取したが難儀しているとして、軍勢を催し、本人・一族とも直ちに馳せ参じるよう求めた書状。
嘉禎二年九月十五日 / 冊子 170頁
『此比志島氏旧御書所御文書三番箱中』所収。比志島氏が河田両村の農祈に関して受けた文書で、龍泉房覚玄の名と嘉禎二年の日付を伝える。
建長四年十一月十四日 / 冊子 216~217頁
比志島氏文書として掲げられた短い某下文。建長三年八月十三日付で、沙弥順阿弥陀仏の花押を伴う。本文は極めて短く、下文の書式と発給者を伝える。
永禄十二年五月廿五日~七月十四日 / 冊子 221頁
永禄十二年五月二十五日、祁答院長野城を攻め、守兵の激しい抵抗を受けた。比志島氏・鎌田政年らが奮戦し、仲俊坊・貴島源五郎・税所宮内少輔ら多数が戦死したが、各隊が死を顧みず攻めて勝利した。蒲生境でも敵数十人を討ったため伊東方は恐れ、七月十四日に飯野桶比良陣を捨てて退却した。
建武2年2月20日 / 冊子 358~359頁/原整理番号 145
建武二年二月二十日、三月から内裏大番を勤仕すべき薩摩国の地頭御家人を列挙した交名注文。大隅二郎三郎・周坊蔵人三郎・式部孫五郎入道・渋谷小四郎入道・渋谷新平二入道・矢上左衛門二郎・渋谷彦三郎入道・指宿郡司入道・比志島彦太郎・渋谷弥二郎・智覧四郎・光富又五郎入道(友経、心楽)・朝岳強三郎の十三名を、次第不同・常参分として掲げる。鎧・直垂・『てうつかけ』を用意すべきことも指示し、真本は比志島氏家蔵と注記される。
年月日未詳 / 冊子 332~333頁/原整理番号 95
比志島氏蔵本の所領目録から、伊勢・尾張・遠江・肥後・日向などに散在する庄園・御厨・郷の名を抄出する。足利尊氏・直義の知行所領を確認するための列挙資料。
文永四年十二月十九日 / 冊子 264頁
大炊助長久に和泉国上條郷五箇里ほかの領知を認める下知状。旧御番所二番箱所蔵の譲状・置文類の一通として伝わる。
文永十二年四月十一日 / 冊子 280頁
比志島郷内の北限小山・西限久木山田尻・南限井尻田端・東限河など四至を示し、収納使法橋の申状に基づき、年貢を免除して給付の外題を与えるよう求めた文書。
文永十三年四月廿六日 / 冊子 280頁
比志島郷の堀内薗などについて、地頭代が地利物や公事を課して進入したため、申状を受理して早く免除するよう命じる。境界として北限小山・西限久木山田尻・南限井尻田端・東限河を掲げる。
四月十四日 / 冊子 5頁
島津氏久が比志島某に、大隅国退治を来る二十五日に決行すると知らせ、準備を整えたうえで事前に参上し、諸事を相談するよう求めた書状。
正平十二年四月日 / 冊子 47頁
比志島範平の軍忠状。本文は既載の同文書と同文であるため省略され、文書標識と所蔵注記のみを載せる。
十二月廿七日 / 冊子 361~362頁
たびたび命令に従わず、訴訟で多くの口上を並べて自己の主張を押し立て、他人と相談しないなどの振る舞いを列挙し、これ以外にも勝手な行為があるとして比志島宮内少輔へ伝えるよう命じた島津家久袖判条書。
建武3年4月27日 / 冊子 249頁/原整理番号 84
建武三年四月二十七日、肝付八郎兼重とその与党の誅伐に向けて発向中、薩摩国満家院の比志島孫太郎貞範が軍忠を抽んじるため馳参したことを、御奉行所へ披露するよう求めた着到状。貞範は「源貞範」と署名し、島津貞久が「承了」と記して判を据える。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
『島津国史』所収の島津久経伝。弘安四年の蒙古襲来に際し、久経が薩摩・大隅・日向の兵を率いて博多方面で戦い、敵兵・船を破った経過を記す。配下の比志島氏ら諸将、戦死・負傷者、出陣した郷村・地頭名を列挙し、久経の官歴、日置庄・伊作庄拝領、忠宗への家督継承まで叙述する。
元弘三年八月十日 / 冊子 617頁
比志島氏の所領関係文書を列挙した目録。関東御下文正文四通、義祐状正文、菩薩房・法橋房・道願手継正文、五ヶ所事和与状、御使慶忍并訴人教以請文、時村御状、ふかい状、京都大番井石築地請取状などを掲げる。
年月日未詳 / 冊子 755頁
島津方の比志島彦二・範平らが催馬楽城を包囲し、城将高純が夜に城を棄てて逃走した経過と、比志島氏らの軍忠を記す殉国名薮の記事。
年月日未詳 / 冊子 764~765頁
南朝正平元年・北朝貞和二年を中心に、伊集院道忍の再蜂起、野崎・若松・高城・東福寺城などの攻防、日置北郷・河北・河南の占拠、山川港・河辺郡方面の軍事行動を編年で記す。幕府・足利直義・島津貞久の御教書、援軍催促、比志島氏・渋谷氏・肝付氏らの動向も月日順に掲げる国史記事。
年月日未詳 / 冊子 766頁
肝付兼重と中院法印らが河辺郡高城付近に要害を築いて敵路を断ち、山川港から水軍を発したこと、南方勢が高城へ集結して暗夜に東福寺城を襲おうとしたため、鹿児島へ急報して比志島氏らの援軍を催した経過を記す伝記記事。
永禄十二年五月六日・廿五日 / 冊子 217頁
永禄十二年五月六日の大口戸神尾・稲荷山伏兵戦に参加した島津一門・諸将を列挙する交名。島津義久・貴久・家久、新納忠元、肝付兼寛、大野駿河守、宮原景種、前田豊前守らを掲げ、同月二十五日の祁答院長野城攻めで勇功を挙げた比志島氏、新納久鏡、鎌田政年らも付記する。
年月日不記(明応四年の譲状などを系図内に記す) / 冊子 616~620頁/原整理番号 108
比志島源左衛門家の略系図で、冒頭に比志島氏九代の河内守義重の二男とし、義信が父義重から満家院郡山内の横瀬・宇都・坂口・満枝など二十町を譲り受け、明応四年九月の譲状があると記す。義住の郡山城での死や、蒲生・菱刈方面の戦功による大村地頭職、蒲生落城後の蒲生地頭職、島津義弘の朝鮮出兵に供奉した国政、関ヶ原の戦い後に泉州平野から大坂へ遣わされ、黒田氏の船と交戦して戦死した国家など、各代の軍歴・地頭職を載せる。国隆については家老職・高岡地頭を記す一方、罪により処刑され跡が断絶したとし、子の国安は赦免され国治の弟家を立てたと記す。国治の代には島津光久・綱久への奉公、参勤時の海路供奉や江戸城での御用、銀山・物産関係の役を挙げ、ほかに婚姻・養子、国廣の島津義弘元服時の脇指拝領と証状の存在も記す。所領譲状から戦功・家の断絶と再興、近世の奉公・職務へ続く点が、この略系図の特徴である。
年月日未詳 / 冊子 159~160頁/原整理番号 49
比志島氏所蔵の山門院地頭所務に関する和与条々。地頭の狩倉は双方が別々に開くのをやめ、従来の本狩倉とすることを定める。酒藤薗では住人を改めて安堵し、定められた在家役・地利物を負担させる。源次郎薗は地頭の薗とし、高少野薗の半分は地頭の進止に属すると記す。末尾は用紙が失われており、条項の続きは不明。
宝永五年三月十七日 / 冊子 322~323頁/原整理番号 33
比志島氏の由緒についての連署調書。藤右衛門の祖先と村上氏・源氏との関係を系図や文書に照らして述べ、「比志島」の名乗り、家格や相続をめぐる説明を記す。宝永五年三月十七日付。