殉死者交名
慶長十六年二月廿日 / 冊子 325~326頁
慶長十六年二月二十日に島津義久へ追腹した殉死者の交名。新納民部少輔・吉井佐渡入道・山口対馬守・泉朝坊以下について、人数・年齢を付して列挙する。
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慶長十六年二月廿日 / 冊子 325~326頁
慶長十六年二月二十日に島津義久へ追腹した殉死者の交名。新納民部少輔・吉井佐渡入道・山口対馬守・泉朝坊以下について、人数・年齢を付して列挙する。
年月日未詳 / 冊子 307頁
島津義久譜の記事。祈祷・医薬・鍼灸の効なく、島津義久(龍伯)が慶長十六年正月二十一日に七十九歳で死去したことを記す。法名・墓所を掲げ、義久を追って殉死した十五人の姓名・役職を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 911頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2483
島津光久の死去に際して殉死を申し出た者を列挙し、肥田木正右衛門・白尾金左衛門らの名を記すとともに、末尾の三名については殉死の神文がなかったと注記した人数書立。
年月日未詳 / 冊子 251頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0534
某日記から、承応三年二月十七日に大口地頭新納加賀忠清が大口で六十歳で死去し、家来牧山清兵衛その他二、三人が殉死したことを抄出する。同年十二月に忠清の嫡孫新納次郎右衛門が大口地頭を命じられたことも記す。
十一月廿五日 / 冊子 909頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2479
島津綱貴が、光久への厚恩を理由に殉死してはならず、公儀の法度に従い、家族や家中を乱さないよう命じた達書。
十一月廿五日 / 冊子 909~911頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2480
家老衆が島津綱貴へ、光久の死去に伴う殉死禁止令を伝達するにあたり、契諾者の確認、召集範囲・席次、立会役、達書の読み聞かせ方など具体的な執行手順を伺った書付。
十一月廿六日 / 冊子 911頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2481
島津綱貴が佐多豊前へ、光久への殉死を申し出た者の人数書付を一覧の者へ見せ、殉死禁止の趣旨を速やかに申し渡すよう命じた達書。
十一月廿六日 / 冊子 911頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2482
島津綱貴が佐多豊前へ、殉死禁止の別紙を申し渡す際、佐多豊前・島津縫殿・伊集院遠江が列座し、契諾者を一人ずつ召し出して右筆に達書を読ませるよう命じた達書。
(元禄七年)十二月廿四日 / 冊子 911~912頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2484
伊集院久照が、光久死去後の殉死申出者に関する人数書付、殉死禁止の達書、神文三通、箱・帳面の保管と引渡しなど、一連の文書と事務処理の経過を記した入日記。
年月日未詳 / 冊子 459~493頁/原整理番号 無番号_0002
伊地知季安が藩命により編んだ、島津氏家臣諸家の「忠死」を列挙する人物録。冒頭目次は戦死四百三十人・子孫二百五十八人と記し、本文は伊集院氏から上井・諏訪氏まで、家ごとに当人の諱・通称、戦死・殉死の年月日と場所・事情、子孫の名と家格を記す。承久の乱や蒙古襲来から戦国期の木崎原・根白坂、朝鮮出兵、関ケ原、庄内、島原の戦いまで及び、主君への殉死や捕盗中の死も収める。
正保元年三月二十七日 / 冊子 8頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0011
島津久賀に殉死した家臣の名を掲げる記事。正保元年三月二十七日条に中村茂吉らを記し、鮫島少左衛門など殉死者の名・年齢等を列記する。
正保二年三月二十八日・十二月二日 / 冊子 8頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0012
喜入忠続・相良頼屋に関わる殉死者を列記する記事。三月二十八日に篠原平左衛門宗次・田代助左衛門、十二月二日に山之内伊右衛門を記し、いずれも殉死とする。
正保四年 / 冊子 63頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0121
正保四年の殉死者として川崎平左衛門助延・川添但馬重次・原田平右衛門・藤田政右衛門を列記する。十月晦日の坂元九郎左衛門入道将安は、主君島津大膳忠紀が江戸で死去したと聞いて殉死し、最期の歌を長崎貞義へ贈ったと小字で記す。
慶安三年五月八日 / 冊子 169頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0317
慶安三年五月八日、新納刑部大輔忠秀に殉死した田代諸右衛門、源兵衛、西田亀右衛門を挙げる。田代は大口衆、源兵衛は忠秀の小者、亀右衛門は家臣で同じく殉死した旨の注が付く。
慶安四年八月十八日 / 冊子 188頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0368
慶安四年八月十八日、荻田隨右衛門を掲げ、島津弾正久慶の家臣で殉死した旨を注す。下に続く上村求馬助・松元山右衛門・奥甚助の三人も同じと記す。
年月日未詳 / 冊子 241頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0501
承応三年二月十七日に新納忠清へ殉死した者として、丸田元心・山下慶右衛門・金丸宇右衛門・牧山清兵衛を掲げ、大口衆または忠清家臣である旨を注記する記事。
年月日未詳 / 冊子 363頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0771
明暦三年十二月四日、阿多内膳忠栄の家臣内田平右衛門が殉死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 438頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0932
寛文元年を中心に、朝倉六兵衛・藤井四郎兵衛らの殉死、長谷場十郎兵衛純堯・山内七右衛門・関田次郎右衛門らの戦傷・死亡について、日付や主家関係を付して列挙した記事。
年月日未詳 / 冊子 17頁
『御譜中 義朝伝』。保元元年、新院方の謀反に備えて東三条へ武士を集め、源義朝と源義康を内裏警護に配した経過を記す。七月十一日の院御所攻撃は夜半から暁まで決着せず、義朝は火攻めを提案。風下の法勝寺焼失を懸念する意見に対し、勝利後は再建できるとの勅許を得て放火し、西風による延焼で新院・左大臣方を敗走させた。功により義朝は左馬頭となるが、降参した父為義の助命は許されず、弟頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲ら九人を船岡山で斬首。幼い弟四人と家臣六人が殉死し、母と乳母も桂川へ投身したと伝える。
年月日未詳 / 冊子 781-782頁
島津久氏が足利尊氏の近習として父宗久を師とし、楠正行討伐に出陣して天王寺で戦死した経過を記す。梅花の絵に和歌を添えて尊氏へ献じ扇を賜った逸話、戦死時に家臣が殉死したこと、遺族が薩摩へ移り伊作氏を継いだことも伝える譜記事。
天文十九年八月廿八日 / 冊子 782頁
伊作三郎左衛門尉久氏が京都で将軍の御代官を務め、天王寺合戦で京方が敗れた後も退かず、皇居を遥拝して辞世の和歌を書き、切腹したとする後胤伝承。家臣三名の殉死、遺族の薩摩移住、伊作に居住して系統を継いだことまで記す。
年月日未詳 / 冊子 295頁
応永二十三年正月十三日、千手堂で久世方の侍中太郎らが自害・殉死し、本田伊賀守、小田原弾正、天辰助次郎らを含む二十一人が殉死したと伝える戦死者名記事。姓名不詳者がいることも注記する。
年月日未詳 / 冊子 349頁
永享二年十一月朔日、島津久林が徳満城で自殺した際、本田石見が殉死し、小田原杢も同じく殉死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 349頁
島津久林が永享二年十一月一日に日向国真幸院へ来て、徳満城で島津忠国の謀略により十八歳で死去し、家臣の本田石見・小田原杢工が殉死したことなどを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 593頁
永正五年二月十五日に島津忠昌が清水の私宅で自害したのち、奈良原助八が忠昌を追って同月十八日に殉死したことを記す殉国記事。
年月日未詳 / 冊子 594頁
奈良原助八の死後に親族が描いた肖像に、奈良原道三が助八の武勇・忠義と殉死を称えて記した画像賛。
年月日未詳 / 冊子 730~731頁
天文四年四月三日、川上大和守昌久が死去し、高木左近・竹迫助左衛門・鍋倉筑後・宮野原助右衛門・肝付兼利ら五人が殉死したことを記す。
永禄十一年十二月十三日~十九日 / 冊子 204~205頁
日新の死に際して十数人の家臣が追腹を望んだが、貴久が後嗣断絶を伴う厳禁の高札を立てたため、殉死は止められた。ただし二十年前から主君に誓約していた中条二郎右衛門と満留郷右衛門だけは禁制の対象外とされ、市来・加世田でそれぞれ自害し、日新とともに火葬された。
元亀三年三月廿三日 / 冊子 265頁
平田治部少輔純貞入道純喜が、島津貴久(大中良等庵主)の後世菩提を弔うため日本六十六州を巡歴した。翌元亀三年に帰国して、三月二十三日、貴久を追慕して鹿児島の海に身を沈め殉死し、廉州純貞禅伯と号したことを記す。
元亀三年三月廿三日・五月四日 / 冊子 266頁
元亀三年の殉死・戦死者を列記する。三月二十三日に島津貴久を慕って南林寺前の海に入水した平田純貞を掲げ、五月四日の木崎原合戦で戦死した鎌田大炊助政高・鎌田源三・野田越中坊・有馬豊前兵衛純秀・前田主税助範春・富永刑部左衛門・曽木播磨守重治ら多数の名を収録する。
年月日未詳 / 冊子 591~594頁
秀吉方から歳久処罰の厳命が下る一方、義久が病気を理由に助命を求めた経緯と、梅北一揆・邪答院での事件などが歳久の罪状として扱われた事情を詳述する。 家臣たちは城中で防戦や人質策を相談するが、歳久は領民を戦乱に巻き込むことを避けて退去し、病身で逃れる途中も自害を望む。最終的な死と首級の扱い、従者の殉死、追善供養・葬送関係者まで記し、処断の政治過程と現場の混乱を併せて伝える。
(天正20年)7月21日 / 冊子 597頁
島津義久(竜伯)が大慈寺へ、歳久が秀吉の九州下向時に兵糧提出を拒み矢を射掛けたことなどから処断命令を受け、一身を犠牲にして家を残そうとしたと説明する。 歳久の家臣が殉死し、さらに宮之城へ籠城する動きが続いたため、龍雲寺の一岳和尚とも連携し、残党を説得して国家と家を存続させるよう依頼した書状である。
年月日未詳 / 冊子 705頁
六月に山下周防が主君に従って死に、坂元伴助・福永八・藤井右馬丞・川野太兵衛ら六人も殉死したことを記す。 その一人である久木崎佐弥太は朝鮮で戦死したとの注記もあり、島津家臣団における殉死者と朝鮮出兵の人的損失を伝える記事。
年月日未詳 / 冊子 803頁
秀吉の上使が薩摩・大隅・日向を検地し、北郷忠虎領では田中吉政らが都城・安永・高城・末吉・財部など十五か所、計六万九千二百余石を調査したと記す。 同年冬、忠虎は巨済城で寒気と軍務の疲労から病を得て、十二月十四日に三十九歳で死去した。鶴田貞明が殉死したことも記し、検地による領地確定と朝鮮陣中での最期を一続きに伝える家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 899頁
島津彰久が文禄四年七月五日に朝鮮で病死し、享年二十九、法号を天宗慈雲大禅定門としたことを記す。 家臣の安田次郎兵衛が主君の死を追って殉死した逸話も載せ、朝鮮在陣の人的損失と主従関係を伝える。
年月日未詳 / 冊子 905頁
島津彰久が文禄四年七月五日、朝鮮巨済島の陣中で病没し、殉死者を伴って葬られた経緯を記す。 法号「天宗慈雲大禅定門」と、同年八月十日に義久が追悼文を贈ったことを掲げ、朝鮮在陣中の死と島津家の服喪を結びつける譜記事。
年月日未詳 / 冊子 2頁
築山伴五郎が文禄五年正月十八日に朝鮮渡海中に戦死し、長峯伊予入道宗珍が同年二月二日に主を慕って殉死したことを記す『殉国名藪』の記事。
年月日未詳 / 冊子 621-624頁
慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦を中心に、島津豊久・長寿院盛淳をはじめ島津勢の戦死者・殉死者を多数列挙する殉国者名簿である。九月十八日・二十三日、十月四日・二十三日など後続の日付の戦死者も追記し、各人の実名・役職・家臣や従者、戦死地・法名等を注記する。
慶長十年乙巳卯月二十日 / 冊子 14頁
本出源右衛門親商の家臣である神田藤兵衛が、主人親商の死後、その跡を慕って慶長十年四月二十日に殉死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 216頁
『殉国名薮』の記事。慶長十四年の琉球戦役で、首里城攻略などに際して戦死・殉死した梅北照存坊、小松彦九郎、山元弾右衛門らの名と没日・戦死地を記す。
年月日未詳 / 冊子 221頁
島津忠倍譜の記事。慶長十四年五月十八日、宅地造営中に病となった忠倍が死去し、法号を覚翁大圓居士として青龍山大圓寺に葬られ、家臣の阿久根右衛門・山本弾右衛門・有川慶助も追跡殉死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 266頁
殉国名薮の記事。慶長十五年四月九日の久保権兵衛重次をはじめ、島津以久に仕えた猿渡左近、肝付治部左衛門兼家、日高大炊左衛門重勝ら、主君に従って殉死した家臣を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 302~303頁
島津忠長譜の記事。忠長が病床にあり、諸医の治療や祈祷も効かず、慶長十五年十一月九日に六十歳で死去したことを記す。法号・墓所を掲げ、家臣尾辻次郎兵衛尉と藍田分太が追跡殉死したことも載せる。
年月日未詳 / 冊子 308頁
殉国名薮の記事。慶長十六年二月二十日に島津義久へ殉死した市来清左衛門・濱田民部左衛門らについて、年齢・役職・姓名を列挙し、義久への殉死者名簿を補う。
年月日未詳 / 冊子 527頁
慶長十九年五月、広津下総守常久の家臣岩元孫兵衛が、木下藤吉左衛門と同じく主君に殉死したことを記す殉国者の記事。
年月日未詳 / 冊子 527頁
島津常久が慶長十九年五月二十九日、広島上山城で疱瘡により二十八歳で死去したことを記す譜。法号とともに、瀬戸口兵右衛門・岩本孫兵衛・木下藤吉左衛門が殉死したことを載せる。
年月日未詳 / 冊子 605頁
元和元年七月十八日、吉富大蔵が主君の跡を追って四十二歳で殉死したことを記す『殉国名藪』の記事。
年月日未詳 / 冊子 711頁
島津義弘の死に際して殉死した家臣たちについて、氏名・年齢・没日を列記した殉国者名簿。
(寛永五年)五月六日 / 冊子 61~62頁
比志島国隆に近侍して不正を助長したとされる折田四郎右衛門・家村四郎左衛門について、高岡の者も責任を訴えているとして、死罪ではなく流罪とする方針を伝える。国隆に殉死すると称した者や種子島へ従わなかった者の扱いも含め、山田土佐守らと協議するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 190頁
北郷讃岐守忠能が二月五日に死去した後、家臣の土屋七左衛門宗武が同月十七日に後を追って殉死し、紀藤丹波守光繁も同様であったことを記す。