樺山久高申状
(寛永五年)十二月朔日 / 冊子 73~75頁
樺山久高が、自家と父祖の軍役・知行・返地・加増の経緯を列挙し、右馬頭戦死後の処置、敷根境目の御座、春毛村・濱村などの領地、親族の奉公や処罰をめぐる事情を申し立てる。旧来の奉公と知行処分を根拠に、家の処遇を再考するよう求める長文申状。
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(寛永五年)十二月朔日 / 冊子 73~75頁
樺山久高が、自家と父祖の軍役・知行・返地・加増の経緯を列挙し、右馬頭戦死後の処置、敷根境目の御座、春毛村・濱村などの領地、親族の奉公や処罰をめぐる事情を申し立てる。旧来の奉公と知行処分を根拠に、家の処遇を再考するよう求める長文申状。
観応三年四月廿五日 / 冊子 819頁
樺山家所蔵文書が、樺山家元祖資久譜中に収録されていることだけを記した注記。
永享十一年六月十五日 / 冊子 391頁
樺山教久の段銭等差出控として目録に掲げられた文書。本文頁には樺山家所蔵で薩州家用久譜中にも載るとの注記だけがあり、本文は再録されていないため、具体的な差出内容は補わない。
天正六年十一月 / 冊子 598頁
樺山規久が高城防衛に入り、数代の忠節によって穆佐・高城を与えられ、戦死した樺山忠副の跡を継いで一族を率いたことを伝える。樺山家の由緒と、高城合戦後の所領拝領を家門繁栄の徴として記す。
年月日未詳 / 冊子 359頁
慶長四年、樺山久高が市成を領していたころ、島津忠恒が伏見で伊集院忠棟を討つと、都城の忠真は父の仇を報じるため十二の外城を構えた。龍伯は国中の混乱を恐れて庄内周辺の要地に諸将を配し、久高も志布志に置かれて国境警備と戦闘にあたり、のち樺山家の家督となったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 467頁/原整理番号 70の2
川上久盤の覚書。樺山家八代の樺山善久(玄佐)の生没・法名と辞世、樺山忠助ら近親者の生没年や関係を注記し、樺山家の伝記を補足する。
年月日未詳 / 冊子 334頁/原整理番号 99
樺山紹銀が、島津忠久から続く家系と樺山家の奉公の由緒を述べる。忠義・久経・忠宗・貞久らの代と自家の関係、所領や功績を挙げ、自らの立場を説明する自記。
年月日未詳 / 冊子 343~344頁/原整理番号 41
樺山家の代々の忠節と、蒲生で戦死した忠副を悼む文章と弔歌。幸久も太刀を用いる巧者だったことや、家臣らの高名・討死を挙げ、死別への悲嘆から弥陀の名号を頼むよう勧める。義久は先立った者と遺された者の悲しみ、父母への思い、面影と武士の名が残ること、世のはかなさを六首に詠んで慰める。
年月日未詳 / 冊子 338頁/原整理番号 115
樺山玄佐が長久入道宗栄や太守忠兼らとの関わりを回顧し、嶋津の都城在名の枕山をめぐる家中の奉公や自分の意向を述べる。自らの年齢・立場を記した家記の抄出。
応永十八年閏十月廿五日 / 冊子 258頁
島津久豊が、日向国北郷・島津内および薩摩国鹿児島・知覧内で買得した所々の土地について、異議なく軍の先例に任せて知行するよう安堵した文書。樺山家三代教宗譜に収録される。
応永十八年閏十月廿五日 / 冊子 258頁
島津久豊が樺山方に、日向国北郷三分一および宮丸名について、由緒に任せ先例どおり知行するよう安堵した文書。樺山家三代教宗譜に収録される。
年月日未詳 / 冊子 400頁
樺山家に伝わる島津持久契状。本文はNo.1266と同文のため省略され、天下の変事や互いの大事に協力し、子孫まで違背しないことを誓う文書に当たる。
永禄五年六月廿日 / 冊子 115頁
樺山玄佐が自身への無実の讒言について直接糾明されたことに感謝し、樺山家十一代にわたり守護へ不忠をしていないと述べた起請文。今後も終始一貫して忠節を尽くし、雑説があれば天道に従って弁明すると誓う。
永禄十二年五月六日以後 / 冊子 220頁
義久が馬越に在陣している間、翌年に家久が平泉戸神尾で大勝し、大口城の引渡しと球磨境の和平に至った経過を記す。その後の入来院・祁答院・東郷・千台方面の知行再編や、樺山家への横川・小浜堅利などの替地を述べる。玄佐は日新の死後、弓箭から離れて和歌に傾き、貴久隠退後の寂しさを舟を流した海人にたとえている。
年月日未詳 / 冊子 211~212頁
樺山紹剣が、豊後へ進む前提として岩屋城を攻めることになった経緯から、七月二十七日の総攻撃と落城までを回想する。城兵は石・長刀・鎗などで激しく防戦し、島津方も岸壁や城際で組み討ちとなって多数の死傷者を出した。配下の樺山忠助が重傷を負いながら退かず戦ったこと、各隊の攻撃位置や討死・負傷者、落城後の処置までを挙げ、岩屋城合戦の苛烈さを樺山家側から伝える。