島津尊久安堵状
応永廿三年九月九日 / 冊子 296頁
島津尊久が根占右近重永に、島津庄大隅方の大祢寝院内瀬筒村の先知行を安堵し、下地を領掌するよう認めた文書。
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応永廿三年九月九日 / 冊子 296頁
島津尊久が根占右近重永に、島津庄大隅方の大祢寝院内瀬筒村の先知行を安堵し、下地を領掌するよう認めた文書。
天正十年九月十七日 / 冊子 717~718頁
島津義久が根占七郎へ、神判によって今後も島津家へ忠節を尽くす旨を示したことを奇特と賞し、義久も将来決して変わらないと春日八幡に誓った返書。本文には義久の紅葉・鹿・旅・水鳥を題材とする和歌も続く。
年月日未詳 / 冊子 354頁
島津義久・義弘が根占七郎へ、肝付郡は御朱印どおり伊集院幸侃が拝領したため、大姶良・西俣・鷹城の三か所がその郡内に組み込まれると伝えた連署状。細川幽斎・石田三成の判断で鷹城は返付され、大姶良には替地を与えるとし、今後は義久・義弘へ忠節を尽くすよう求める。九州国分に伴う具体的な知行替えを示す。
元和七年八月廿五日 / 冊子 768頁
島津久元ら四名が大根占・小根占・川内・高城・出水・清敷の担当者へ、熊嶽勤について家中各所では毎年二度ずつ家衆を回しているのに当地では勤めがなかったため、今後は同様に勤めるよう下々へ申し渡すことを命じた連署書下。
(寛永十一年)五月廿日 / 冊子 427~428頁
奥方関係の知行配当、福昌寺・南林寺・正八幡など寺社領の扱い、根占安千代と嶋伊勢鶴の知行・加増等を定めた連署条書。
文禄4年6月10日 / 冊子 889頁
根占重虎は、本田六右衛門尉に一件の筋目を託したので、相違なく取り計らうよう鎌田政近へ依頼する。 根占家への厚い配慮に礼を述べ、久四郎の件も申し請けたいとして、今後も変わらぬ取り成しを重ねて求める。
年月日未詳 / 冊子 11~12頁
天文二十四年三月以降の帖佐別府川・平松・山田・高尾などの戦闘を記す。島津方諸勢の出陣、敵兵の討取りと味方の戦死、帖佐・新城・山田の確保、北郷・根占・肝付勢の来援をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 326~327頁
島津家久の長女で根占右近大夫重張の妻となった女性について、天正十五年四月、父家久が羽柴秀長に降伏した際に人質となり、秀長の帰洛に従って上方へ送られたことを記す。上方に長く滞在し、のちに命を受けて豊臣秀吉へ拝謁した際、伊集院幸侃らわずかな随員だけが付き従ったという。九州征伐後に島津家の女性が政治的人質として扱われた事実を示す短い女性譜。
(寛永七年)十二月十九日 / 冊子 183頁
子のない伊勢貞昌が、前年に江戸でおたつが産んだ家久の子を養子に迎えたいと願い、家久の内意と許可を得て決着したことを喜ぶ。家久の子女が多く将来の知行負担も増すため、子のない家へ養子を配する先例として伊集院・根占家にも触れ、詳細を福屋五郎兵衛尉に託した書状。
正月十一日 / 冊子 72-73頁
島津久慶・川上久國・伊勢貞昌が、根占殿の御蔵入方を會木弥兵衛尉と黒葛原吉左衛門尉へ命じたことを知らせた連署書状。吉左衛門尉は病気で参上が遅れたが当日出仕したため、その事情を披露するよう求める。
四月十六日 / 冊子 89頁
北郷久加ら三名が、根占七郎による沿岸各地の巡見に際して回した廻文。各地では宿の用意を念入りに行うこと、宿の亭主から礼物を受け取らないことを厳命し、鹿児島・横井・伊集院・神川・日置へ順次伝達するよう指示している。
二月七日 / 冊子 124頁
年頭の三献式における参加者の座次・献数を書き留めた覚書。惟新をはじめ川上・新納・北郷・樺山・入来院・吉利・菱刈・伊地知・根占などを列挙し、三献・一献等の区分を示す。
四月十六日 / 冊子 171頁
本文はNo.223と同文として省略され、あわせて『旧記雑録追録二』No.688と同文である旨を掲げる。No.223によれば、北郷久加ら三名が、根占七郎による沿岸各地の巡見に際し、宿の用意を念入りに行うこと、宿の亭主から礼物を受け取らないことを命じ、鹿児島・横井・伊集院・神川・日置へ順次伝達させた廻文。
「寛永十八年」二月三日 / 冊子 148~149頁
島津光久が根占七郎へ、世間の噂や讒言によって人を憎み悪く言う者がいても、自分は同調せず、七郎を頼もしく思っているので心配しないよう伝えた書状。今後も奉公に疎意なく、信任によって驕ることもなく、互いに疑わしい事柄があれば率直に申し分けるよう求めている。
年月日未詳 / 冊子 12~13頁
三月二日の帖佐別府川合戦、同八日の加治木・溝辺・日当山・長濱勢の山田出陣などを回想する。島津忠辰らの奮戦、敵味方の討死、帖佐方面への追撃、北郷・根占・肝付勢の来援を記す。
年月日未詳 / 冊子 582頁
石田三成の挙兵で東西が分かれた際、北郷忠能は在国したが、西郷孫一久永は七十五人を率いて伏見にあり、島津義弘(惟新)に従って伏見城攻撃に参加し、家臣和田仲蔵義吉が戦死したと記す。その後、北郷忠泰・久栄が数百兵を率いて上洛し、九月十五日の関ヶ原合戦では根占清右衛門尉・小杉頼長・知覧忠清・津曲兼親以下、多数の忠能家臣が討死したことを列記する。
寛永廿一年三月吉日 / 冊子 327頁
根占重永の起請文。八木主水佐から知音として送られた書物を命令により返却したこと、今後は主水佐と相談・交際せず、いかなる場合も上意と法度に背かないことを誓っている。
〈宝暦元年〉十二月二十二日 / 冊子 341~342頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0999
小根占地頭横目の料木五兵衛・島濱作兵衛が十二月廿二日、水施行者迫田源右衛門七十歳、妻五十七歳、嫡子迫田茂右衛門三十八歳について報告する。源右衛門は極貧のため亡親の菩提供養をする資力がなく、孝志から水を施してきた。去る子四月から施行を始め、当年まで二十年ほど続けたと隣人の話も確認し、現在も継続しているとする。居所から水汲み場は五町余で、一町余の坂を含み、五月時には三町余の所へ汲みに行き、こちらにも難所の坂があると記す。褒賞に関わる事実確認の報告である。
年月日未詳 / 冊子 947頁
小根占橋某日記は、慶長九年十一月二十七日に貫明公島津義久が国分へ移ったことを記す。
覚書三〇慶長十九年九月四日 / 冊子 134~135頁/原整理番号 30
惟新(島津義弘)への年頭の三献の次第を記した覚書。川上・新納・又四郎には式三献、北郷・佐多・喜入らには古鉢三献、入来院には渋谷三献、吉利・根占・肝付・伊地知らには三肴三献を用いるとし、盃や膳の形も区別する。元日の盃、社参後、談議所・福昌寺への出仕時の酒や茶の作法も記す。慶長十九年九月四日の書写記事を付す。
現行年紀:正月五日 / 冊子 153頁/原整理番号 265/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0265
家久が根占七郎へ新春を賀し、相手の地が無事であることを喜び、こちらも同様と知らせる。 夏初には諸大名に御暇が出る由を聞いたとして、帰国の際に諸慶を申し加えると伝える。
現行年紀:二月三日 / 冊子 154~155頁/原整理番号 267/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0267
光久が根占七郎へ、不審な事を聞いた場合は双方から知らせ合い、支障のないようにする旨を伝える。 世上で人を憎んで悪く言うことがあっても、自分は同心しないので心置きしないよう述べる。 相手を頼もしく思うため、いよいよ奉公に疎意なく、こう述べたからといって驕らないよう心得ることを求める。
文書日付:慶長十九年六月十八日 / 冊子 421~422頁/原整理番号 六五五/整理ID TMP-P03-NENESAITO-D0655
吉利村、高原之内入来村、同所蒲牟田村之内、同所大牟田村之内の割付を示す。合三千三百七拾二石壱斗六升と記し、地本目録は後日指し出すとする。慶長十九年六月十八日の連署目録。
寛永十九年六月吉日 / 冊子 200~202頁
杉田伊与秀次・植木三右衛門尉正勝・根占権丞重昌の三名が島津光久・虎寿丸へ忠節を誓った起請文。別心なく奉公し、秘密を漏らさず、悪事の企てを知れば届け出ることを誓い、違反時には天地の神仏・薩摩国諸社・日本国中の神仏の罰を受けるとして、神名と罰文を詳細に列挙する。
寛永廿一年四月吉日 / 冊子 331~332頁
八木元信の起請文。根占七郎へ執心して起請文を渡したことを不調法として詫び、以後は交際しないこと、主君への忠節と法度を守ることを誓う。多数の神仏名を列挙した長大な神文を伴う。
天正十二年三月二十六日 / 冊子 874頁
町田久倍が頴娃・根占の役人中へ、法華経奉納のため来訪する快賓上人が当地から根占へ渡海するので、道中を滞りなく通行させるよう命じた書状。
(寛永十三年)正月五日 / 冊子 522頁
島津家久が根占七郎へ、新春の祝意と双方の無事を述べ、初夏には諸大名に暇が出る見込みなので、帰国の際に詳しく話したいと伝えた書状。
〈延享五年〉四月十五日 / 冊子 89~90頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0242
島津久甫ら五名が、志布志月野村・清水姫城村などにある高三十石の地を小根占安楽寺の寺領として寄附した知行目録。村ごとの土地と別冊の名寄帳を示し、後年も違失なく収納させる旨を連署で定める。
年月日未詳 / 冊子 17~18頁/原整理番号 1
小根占の旧年寄池端氏について、清貧で孝友を重んじた人物像、郷役・公務への従事、家族と居所、晩年の病没を叙した墓誌。居所の池端を称とした由来や、子女、郷内での評価を記す。
寛永廿一年三月十三日 / 冊子 154頁/原整理番号 110
寛永二十一年三月十三日の「二番四角之外」犬追物手組。根占七郎六疋、伊勢兵部少輔五疋、福屋助左衛門尉三疋などを記し、検見を島津志摩守、喚次を島津新兵衛尉とする。
〈宝暦元年〉十二月 / 冊子 341頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0998
No.997の書中朱書として、青銅二千疋を小根占衆中の迫田源右衛門へ与える旨を記す。亡親を弔う資力がなく、門口へ水を出して往還の人へ施していたが、居所周辺には水がなく、遠方から十数年水を運び、近所の客も利用していた。太守巡見時にその志を聞き取り、褒美を下したとする。妻と嫡子迫田茂右衛門も同じ志を持つことを確認し、褒美を与える意向を述べる。十二月、兵部の名と首尾係にも申し渡す旨を持つ。No.996の「銭二千四百」と本朱書の「青銅二千疋」は表記・数量が異なる。
現行年紀:萬暦十一癸未年孟夏廿有二日 / 冊子 148頁/原整理番号 257/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0257
書状を披見し、先規に違わず承るべき旨を喜ぶと伝える。 贈り物を別楮に記し、詳細は後信に期すとして根占七郎殿に宛てる。
年月日未詳 / 冊子 94頁
寛永十七年正月元日の城中における着座順を抄出した名書。北郷式部太輔を筆頭に、兵庫頭、桂又十郎以下の家臣を『上』の区分と組み合わせて列記し、各人の席次・序列を示している。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
天正十九年十二月二日 / 冊子 6~7頁/原整理番号 173
石田三成が島津義弘に示した人質番組。島津歳久の孫、肝付兼演・新納忠元・島津忠辰・種子島久時・入来院重時らの実子または親類年寄の子を三組に編成し、北郷忠虎・伊集院忠棟・新納忠元の質人三名を常詰とする。本田親貞・町田久倍・平田増宗も各組に加え、必要に応じ一人を京都へ召し置くことなどを定める。天正十九年十二月二日付。
年月日未詳 / 冊子 325~326頁/原整理番号 175
師久の次子久安から始め、始良・碇山を称した家の系譜を記す。久安の領地と碇山城への居住、忠安以下の官途、忠親の隅州生別府での戦死、久次の後を継いだ忠種の実家木脇氏を載せる。忠種に男子がないため児玉筑後守利昌の三男を迎えて始良氏を嗣がせたこと、父子の久賀隊への所属、忠種の死を記す。久包は実家喜入氏と母仁禮氏の系譜、出生、小姓奉公、納戸奉行・御近習役と領地頭職、綱久の病を看護した功による褒賞を記し、碇山姓を再び称した経緯と妻子へ続く。
文書日付:于時文禄五丙申年 / 冊子 366~367頁/原整理番号 五九一/整理ID TMP-P02-NENE4F-D0591
十石衆の村山源兵衛尉に関して、田畠・居屋敷と石高、森山・藤為・北之三郎などの作人を列挙する。 惣合を九反五畝九ト・十石九升八合、京押の右之分を十三石三斗一升七勺と記す。 重虎は右の知行を遣わしたことが実であるとして証状を出す。
二月十五日 / 冊子 140頁/原整理番号 235-2
川上久国・三原重庸が諸外城へ、薩州様が今日着くとの有馬からの報を受け、猪鹿を捕って二十日・二十一日までに届けるよう命じた廻状。猪は雄猪を差し上げ、ほかに各地で得られる肴もできる限り調達するよう求める。
二月十五日 / 冊子 141頁/原整理番号 238
川上久国・三原重庸が沿道諸地域へ、薩州様が今明日中に阿久根へ着き川内筋を通って鹿児島へ向かう予定なので、自有馬を整えて道橋を補修し、夜道に備えて各所で松明を用意するよう命じた。
現行年紀:十一月十日 / 冊子 148頁/原整理番号 258/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0258
「肥州…之儀」に関する談合と、来る廿日ごろの出立を第一とする旨を伝える。 その時期に実現しなければ今月中には必ず出立するよう求め、油断を戒める。
現行年紀:元和六年三月三日 / 冊子 152頁/原整理番号 263/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0263
吉利村内千三百五十二石五斗六升、日州諸縣郡穂万坊村内百八十四石四斗四升、合千五百三十七石の知行目録。 分国中で知行を改配したので、すべて領知するよう伝える。
現行年紀:慶長五年十一月廿六日 / 冊子 150~151頁/原整理番号 262/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0262
重長の忠節時の約束と根占家在所に関する神文・証文を述べ、諸地の給付条件を記す目安。 鹿屋が守護領となる場合はその田数ほどの別所を、郡本は「御弓箭御存分」が成就する時に給付すべき旨を述べる。 山川・田上等の借地は、合点された分を給付時節に返上する旨を述べる。 約束を知る人衆、御使者、神文等を頂戴している旨を列挙する。
文書日付:慶長貳丁酉年三月廿一日 / 冊子 366~367頁/原整理番号 五九二/整理ID TMP-P02-NENE4F-D0592
田畠・屋敷などの知行地と、御加扶持の分を列挙する。 田方五段九畝十五分・八石一斗七升二合、畠方一町貳反三せ一分・十一石八斗九升四合と記す。 惣合一町八反貳畝十六分、分米廿斛六升六合の知行を村山源兵衛尉へ遣わしたことを証する。 野久尾加賀右衛門尉重忠と根占掃部助重張が署判する。
文書日付:子時天正十三年八月十日 補記(正文と別層):乙酉(年紀脇小字、本文年紀へ補入しない) / 冊子 477頁/原整理番号 七五一/整理ID TMP-P03-IKEHATA-ZASSHO-D0751
重虎の御縁辺について求麻相良殿に願い、鹿児嶋御老中が取り成し、御使を池端出羽守・西方伊賀守の両人がした旨を記す。 同年十二月の御迎えの人衆、御入物請取、御使や道具に関わる名義を列記する。 御迎えの馬十五疋、中間四十三人、御分の人足百五十人、以上人数四百三十人を記す。 馬副・御入物受取・包丁小番中間の名義等を列記し、千兵へ四十三人内で断簡となる。
建武三年六月十八日 / 冊子 670頁
No.1865と同文であるため本文を省略した、小根占池端氏所蔵の祢寝清忠軍忠状。
天正八年閏二月中旬 / 冊子 648頁
差出人不詳の書状案。長く音信が途絶えた理由を海陸遠隔のためとし、島津義久が元亀三年の根占・肝付服属、天正四年の高原城攻略、伊東氏の没落を経て三州を統一した経緯を述べる。さらに大友宗麟・義統が伊東氏復帰を図って高城を包囲したが、義弘を先鋒とする島津軍が大勝し家久を救ったとして、九州諸国が義久の仁化を求める情勢を伝える。
天正九年十二月二十一日 / 冊子 707頁
大隅国根占湊の船『小鷹丸』に対し、天正九年十二月二十一日付で琉球への渡海を認めた島津義久の朱印状。
天正15年2月25日 / 冊子 277~278頁
島津義久が、大隅国根占湊の小嶋丸船頭・橋本右京亮に琉球への渡海を許可した朱印状。航海と積荷を島津氏の統制下に置いた史料で、豊臣軍との戦時下にも南方航路が維持されていたことが分かる。
天正18年9月28日 / 冊子 481頁
島津義久が大隅国根占湊の船・小鷹丸に対し、琉球への渡海を許可した朱印状。 船頭の橋和泉掾を名指ししており、島津氏による航海許可・海外交易統制の実務を示す。
慶長五年十一月七日 / 冊子 610-611頁
島津義久(龍伯)が息女の公領として、大隅国大根占村二千七百三十九石一斗四升の役なし地を宛行う。幼少以来の多年にわたる在京の苦労と島津家への奉公を評価し、今後も知行に相違がないことを保証する。