北郷一雲時久譜
年月日未詳 / 冊子 474頁
京都にいた島津義久が北郷一雲時久および忠広へ御書を与えたことを記す。 本文は収録されず、正文が別に存在するとされるため、具体的な用件は確認できない。
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年月日未詳 / 冊子 474頁
京都にいた島津義久が北郷一雲時久および忠広へ御書を与えたことを記す。 本文は収録されず、正文が別に存在するとされるため、具体的な用件は確認できない。
(文禄2年)6月吉日 / 冊子 706頁
上原にある屋敷一か所を入来院重時方へ宛てた、きわめて短い屋敷宛行状。 本文量は少ないが、所在地と給付対象を確認できる入来院家の所領文書。
年月日未詳 / 冊子 822頁
時任義高の系譜記事。初名・法号、生年を記し、高原城攻めや大友軍との戦いで軍功を立てたこと、慶長十年に六十八歳で没したことと法名を掲げる。
(元和九年)六月三日 / 冊子 789頁
西洞院時直が島津家久へ、依頼された香を聞く人物について、父や使者からも確かな候補を聞いておらず、林羅山にも相談すると伝えた。以前から求められている人物の件は事情が複雑で書面にしにくいため、詳しくは口上で申し上げるとした書状。
元徳二年十一月日 / 冊子 586頁
薩摩郡延時名に属する者を列記した交名注文。吉富又太郎入道、延時孫三郎入道、延時又三郎入道、東郷入道、東郷六郎入道、同妹中左、同大夫房、在国司入道、白浜五郎入道、山田九郎入道などを掲げる。
年月日未詳 / 冊子 129頁/原整理番号 204-1
島津久賀の従兵・時任氏の日記。十三日、有馬城見物のため上津浦を出船したが、順風が悪く、柳之瀬戸に船掛かりしてその夜泊まったと記す。以下は十四日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 132頁/原整理番号 216
島津久賀の従兵・時任氏の日記。十四日に有馬へ着船し、薩州様の船で目見えしたのち、陣場と城を見物し、同日晩に有馬を出船して上津浦へ着いたと記す。
延文二年正月廿八日 / 冊子 1頁
蔵人頭左中弁藤原時光が奉じ、左衛門少尉藤原師久を従五位下に叙する旨を伝えた口宣案。
延文二年正月廿八日 / 冊子 1頁
蔵人頭左中弁藤原時光が奉じ、従五位下藤原師久を従前どおり検非違使に任ずる旨を伝えた口宣案。本文にはNo.2と併せて師久公御譜中に載ると注記される。
七月十一日 / 冊子 44頁
北条守時が、寶満寺長老から大般若経転読などの修法・祈祷の巻数を受け取り、謝意を伝えた請取状。
至徳四年五月四日 / 冊子 132頁
宮内大輔今川三雄が延時筑前守に、薩摩国薩摩郡内延時名地頭職と庶子山野、本若松名・串木野・若松・橋間・寄田・火同丸・成岡名の各地頭職、成枝などの知行を安堵した文書。
応永卅五年五月廿五日 / 冊子 342頁
時任栄政ら三名が、所定の段銭一貫百七十二文を請け取ったことを証した連署請取状。
〔弘治二年〕十二月十三日 / 冊子 632頁
琉球中山王が種子島時尭からの品々を受け、香華・緑織物などを返礼として贈った朱印状。
年月日未詳 / 冊子 828頁
天文十四年十二月二十三日以後、飫肥周辺で羽島氏らを支援し、伊東方との攻防に臨んだ北郷時久方の動きを記す。
天文十六年七月晦日 / 冊子 842頁
足利義時が真如寺の住持職について、先例に任せて執務するよう命じた補任御教書。
年月日未詳 / 冊子 58~59頁
永禄元年三月十九日、肝付勢が庄内へ侵攻し、北郷時久・島津忠親の軍が恒吉宮ヶ原で迎撃したが敗れた戦闘を記す。北郷・豊州方の諸将と兵卒二百余人が戦死した。
年月日未詳 / 冊子 107頁
北郷氏が約三十年間にわたり伊東氏と戦った軍功への賞として、永禄五年五月に末吉三百五十町が北郷時久へ与えられた。土持摂津助を地頭とし、のち忠虎を末吉へ移し、梅北も飫肥後援のため時久に付属させた。
永禄六年五月二日 / 冊子 123頁
北郷時久が喜入季久からの返書を受け取り、貴久が当地へ来訪して軍事相談中であるため、遠方ながら今後も支援を求めた書状。追伸で飫肥・福島境に変化はないが、福島浦の都井で勝利し敵七十人ほどを討ったと報じる。
年月日未詳 / 冊子 130頁
永禄七年三月十三日、島津貴久が陸奥守、義久が修理大夫に任じられ、近衛家から北郷時久へもその官途成就を知らせる書状が届いたことを記す。続く近衛前久書状の導入記事。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 130頁
近衛前久が貴久の受領と義久の官途を取り整えたことを北郷時久へ通知し、その成就を祝い、必要があれば取り成すよう求めた書状。詳細は進藤長治が伝えるとする。
永禄七年十一月十九日 / 冊子 136頁
義久が北郷時久との関係について、将来にわたり別儀なく協力し、老中から伝えられた一か条を守り、飫肥が難儀した際には三之山口から援軍を出すと神々に誓った起請文。
永禄九年六月十六日 / 冊子 146頁
永禄九年六月十六日、肝付氏が岩川へ出兵した際、北郷時久が配置していた城兵が防戦して敵の首二十六級を得た一方、味方も久木崎丹後以下十余人が戦死したことを記す。
永禄元年~永禄九年 / 冊子 157~159頁
永禄元年から九年までの北郷氏と守護島津方の軍事行動を、年月日、城の攻防、戦死者数などとともに編年で記す。飫肥・末吉・廻・竹原山・松山・志布志・新山・福島・岩川などをめぐる伊東・肝付両氏との戦い、城の受け渡し、北郷時久の初陣に伴う神社奉納、各戦闘の討取・捕虜・負傷者を載せる。
永禄十一年正月~七月 / 冊子 183~184頁
永禄十一年正月、伊東勢が篠小峯に陣して飫肥本城を囲んだため、北郷時久が酒谷へ援軍を出し、二十一日に本城勢と挟撃して伊東勢を破ったことを記す。二月二十一日の兵糧輸送戦では北郷忠俊・本田親豊・土持頼綱ら多数が戦死し、酒谷・本城は飢餓に陥った。貴久の命を受けた北郷忠徳が和議を進め、六月に飫肥を伊東氏、福島を肝付氏へ渡し、七月に島津忠親・北郷時久らが都城へ退いた。
永禄十一年六月十五日 / 冊子 198~199頁
島津義久が北郷時久に対し、世上がどのように変動しても今後疎意を持たないこと、善悪について真偽を見極め一味同心すること、雑説が起きた際は互いに打ち明け合うことを誓った起請文。違反すれば天帝・四大天王、日本国中の神祇、諏訪大明神、大隅正八幡、霧島六所権現などの罰を受けるとする。
永禄十一年十月 / 冊子 202頁
永禄十一年十月、島津忠親が北郷家と肝付氏の和睦を取り計らったことを受け、島津義久が北郷時久へ御内書を与えた経緯を記す。本文に続くNo.457がその御内書正文である。
(永禄十一年)十月二日 / 冊子 202~203頁
島津義久が、北郷時久と肝付氏との和睦の企てを肝要と認め、肝付方が島津家に対する義久の憤りを疑っているならば、今後真実に親交を結ぶ以上、偏った扱いはしないと説明し、相手方を納得させるよう求めた書状。
〔永禄六年〕五月二日 / 冊子 206~207頁
北郷時久が喜入季久に、飫肥・福島境では大きな変化はないが、福島浦の都井で勝利し敵七十人ほどを討ち取ったと報じた書状。先の返書への礼を述べ、屋形が当地へ来訪して軍事相談中であることを知らせ、遠隔地ながら今後も支援してほしいと頼んでいる。
永禄十二年五月廿二日~九月 / 冊子 227頁
永禄十二年五月二十二日、義久の命で菱刈へ兵を送り、北郷小次郎を大将とした。九月に菱刈氏が降参すると一命を助けて平城を安堵した。その後、相良頼房が北郷時久へ和睦成立を述べる書状を送った経緯を記し、正文としてNo.519を掲げる。
永禄十二年九月七日 / 冊子 227頁
相良頼房が北郷時久に、菱刈方との二年間にわたる不慮の戦いを振り返り、島津氏の取りなしで菱刈家を存続させると聞いたことへの大きな喜びを伝えた書状。今後は従来どおり相談し、別儀なく付き合うと述べ、時久の出陣に対する礼を使者に託している。
永禄十一年正月~元亀二年九月 / 冊子 241~242頁
永禄十一年正月から元亀二年九月までの北郷家周辺の軍事・外交を日付順に記す。飫肥・酒谷城の伊東方への引渡し、泰心による北郷・肝付和睦、菱刈口での島津方戦死、大口・戸神尾合戦と首級数、肝付との和睦交渉、菱刈番衆派遣、大口城受取などを載せる。末尾は元亀二年九月に伊東方が下河内高小場へ陣を置き、時久が弓箭相談のため供衆を伴って鹿児島へ参上したと記す。
元亀二年十月九日 / 冊子 256頁
元亀二年十月九日、北郷時久が軍議のため鹿児島へ赴いた際の随行者を列挙する。北郷紀伊守忠徳・和田越中入道起雲・津曲備後守兼庚・亀津河内守・河野筑前守・大岩根兵部少輔が供奉した。
元亀三年九月廿九日 / 冊子 294頁
元亀三年九月、島津義久が肝付氏征討のため下大隅へ出張すると、北郷時久も肝付領攻撃を命じられた。同月二十九日に月野・泰野を攻め破って多数の首級を得、同日、梶山の兵も肝付領福島の兵と戦って敵を討った。
天正元年正月六日 / 冊子 297~298頁
天正元年正月六日、肝付氏の大軍が末吉へ侵入すると、北郷時久は二子相久・忠虎と兵を率いて住吉原で迎撃した。三将が自ら指揮して肝付軍を崩し、肝付修理亮・左兵衛尉、伊集院三河入道竹友、安楽因幡入道以下多数を討ち取った。敵の切捨人数は不明で、北郷方も川崎主税・田原大蔵信秀を失った。
天正元年三月八日~天正二年十二月 / 冊子 303頁
天正元年三月八日、島津義久が大軍を率いて肝付氏攻撃へ向かうと、北郷時久も平松に陣を構えた。時久は翌天正二年十二月まで同地に在陣したと記す。
天正二年 / 冊子 343頁
天正二年、肝付氏が伊東氏と結び、伊東軍が下大隅へ侵入したため、島津義久・義弘が北郷時久へ盟書を与え、さらに島津家老らの連署誓紙も送ったことを記す。
天正二年九月十日 / 冊子 343頁
島津義久が北郷時久に対し、伊東氏との戦について一味して親密に協力し、島津方と北郷方の庄内・肝付をめぐって讒言があれば双方へ知らせて腹蔵なく説明すると誓う起請文。違反時には新田八幡・諏訪上下大明神などの神罰を受けるとする。
天正二年九月十日 / 冊子 344頁
島津氏老臣四名が北郷時久に対し、伊東氏との戦で一味して協力し、談合内容を秘密にし、庄内・肝付をめぐる讒言があれば双方へ腹蔵なく説明すると誓う連署起請文。
天正二年九月十一日 / 冊子 344~345頁
島津忠平義弘が北郷時久に対し、伊東氏との戦で一味して協力し、談合内容を秘密にし、庄内・肝付をめぐる讒言があれば左右双方へ腹蔵なく説明すると誓う起請文。
天正四年八月十九日~九月三日 / 冊子 488頁
北郷時久が一万の兵を率いて江平へ進み、高原城南口を攻めて家臣数十人を失ったこと、三山・須木・奈佐木が降伏したことを記す。戦後、上井覚兼が三山へ来て時久の武功を賞し、田野城攻略の人数・敵情と神慮を探るよう命じた。
天正四年十月 / 冊子 503頁
住吉原合戦の敗北で肝付勢が衰えると、義久は肝付氏が降れば救仁院・志布志を北郷時久の忠賞に与えると約した。天正四年十月に肝付氏が降属した後、伊集院忠棟の反対により志布志の代わりに恒吉・永吉・内之浦百八十町が時久へ与えられた。
天正四年八月~十月 / 冊子 507~508頁
天正四年八月から十月の軍事行動を記す。北郷時久が江平で敵五人を討ち、高原城南口を破って三山・須木・奈佐木の放棄に至った経過と出陣役を列記する。十月には肝付勢の南郷敗戦と二百余人の戦死、福島守備、志布志以下十三か所の島津方領有を記す。
天正五年 / 冊子 517頁
天正五年、伊東家臣福永・野村らの内応を受けて島津軍が日向諸城を攻略し、伊東義祐が豊後へ逃れ、日向一円が義久の領土となったことを記す。この報が京都へ届くと、近衛前久が北郷時久へ祝賀の書状を送ったという。
(天正五年)四月七日 / 冊子 517頁
近衛前久が北郷時久に、日向の情勢が義久の望みどおりに進んだことを祝う。前久は織田信長方に属し、摂津一円が敵地のため使者を送れない事情を述べ、時久に取り成しを求めた。信長から格別の厚遇を受けていること、先年贈られた鶴を今も所持していることを伝え、手持ちの大鷹はすべて信長へ進上したため、義虎を通じて大鷹を送るよう依頼した。
天正五年十二月七日 / 冊子 531頁
北郷時久が神柱大明神へ、赤木宿門の田一町を寄進した状。
天正六年 / 冊子 545頁
天正六年、大友宗麟・義統父子が豊後・肥後・筑前・筑後などの大軍を催して日向へ侵入するとの報があり、北郷時久が島津義久へ誓状を提出した。義久からも盟約の返書を与えられたことを記す。
天正六年七月廿日 / 冊子 545頁
島津義久が北郷時久へ、大友氏の邪路に対する防戦をめぐり、諸方の風説を懸念して誓紙を求めたところ応じたことを喜ぶ。永代にわたり心を同じくし、違背しないと誓い、新田八幡・天満天神・鹿島鎮守などの神罰を掲げた起請文。
十月十五日 / 冊子 551頁
島津義久が北郷時久へ、国境の風説によって日下などが騒動していると聞き案じる。たとえ島津方を疑う事情があっても、今後隔心を持たないと互いに神文を交わしている以上、別意はなく、諸神も照覧するので納得するよう求めた。詳しくは南林寺に伝えさせた。
天正六年十月中旬 / 冊子 553頁
大友父子が高城を包囲すると、北郷時久は子の相久・忠虎に数千兵を率いさせ先鋒として鬼山を経て宮崎城へ進ませた。城内の内通者が伊東勘解由左衛門に敵兵を招き入れる計画を知らせたため、都於郡の河原田道場へ走ってこれを捕らえ、北郷久盛が奮戦して大敵を退け城を守った。
天正六年十一月十二日 / 冊子 558頁
十一月十二日、大友軍が島津義久の陣へ大軍で決戦を挑むと、北郷時久の子相久・忠虎が進んで戦った。北郷久盛は抜群の戦死を遂げ、村田経重・山中宗左衛門らも戦死したが、ついに大友軍を破り耳川まで追撃した。義久が深く賞し、京都へ伝わると飛鳥井雅継が書状を送った。