沙弥通松譲状
応永廿八年五月三日 / 冊子 318頁
沙弥通松が舎弟羽嶋新三郎に、国分寺領内薩摩郡の羽嶋を、代々の文書に基づいて知行するよう譲った文書。
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応永廿八年五月三日 / 冊子 318頁
沙弥通松が舎弟羽嶋新三郎に、国分寺領内薩摩郡の羽嶋を、代々の文書に基づいて知行するよう譲った文書。
応永廿八年八月九日 / 冊子 320頁
島津存忠が、薩摩国東郷退治の際の恩賞として、国分で万徳に相当する所領を羽嶋新三郎へ宛行うよう定めた文書。
応永廿八年八月十三日 / 冊子 320頁
島津存忠が、薩摩郡内羽嶋の本領について、現在の知行に相違がないよう羽嶋新三郎へ安堵した文書。
年月日未詳 / 冊子 314~315頁
応永二十八年、島津久豊が兵を徴し、伊集院頼久方の隈城を攻めさせた経過を記す。羽島新三郎・奈良美作らが出兵・攻城し、克久・忠朝ら一族も軍事・所領処置に関与した。落城後の所領給与と反乱勢力の鎮圧を通じて山門院支配を再編した。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 256~257頁
大隅の肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が島津氏への出仕を拒み、廻城主肝付忠勝の死後は伊東氏とも結んで敵対した経緯を述べる。元亀二年十一月二十日、百余艘の船団が鹿児島湾に侵入して瀧水村を攻めたが、平田新三郎ら帖佐衆約五十人が防戦し、敵船を退却させた。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 257~258頁
伊地知重興が肝付氏に同心し、日向・肝付・禰寝・下大隅の三百余艘で鹿児島方面へ来襲した戦闘を記す。野尻沖で伊集院善左衛門が鉄砲に倒れたのち、敵は瀧水に上陸したが、平田新三郎ら約五十人が撃退した。島津家久は瀬戸の防備を命じ、岸からの一斉射撃を受けた船団は軽石港へ退いた。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 258頁
元亀二年十一月二十日、伊東・肝付・伊地知・禰寝方の百余艘が桜島内へ侵入したが、瀧水を守る平田新三郎ら帖佐衆五十人が迎撃して退けたことを簡潔に記す。
元亀二年十一月廿日~天正元年 / 冊子 305~307頁
肝付・伊地知方の大船団が桜島を経て鹿児島湾へ侵入した海戦と、その後の下大隅征討を長文で記す。伊集院善左衛門が海戦で戦死した後、瀧水では平田新三郎ら約五十人が上陸を阻み、島津家久が瀬戸村で追撃して敵船を軽石へ退けた。続いて早崎・小浜城を攻め、伊地知美作守が退去した城へ家久が入り、牛根城も攻撃したが諏訪神事のため一時帰陣したとする。海戦年次には本文内注記との相違がある。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日の犬追物手組を記した別一覧。殿以下、島津河内守・島津式部太輔・島津勘解由次官・平田新三郎らの射手名と割当てを列挙する。
八月十一日 / 冊子 587頁
先日新三郎が礼のため参上したので取り次いだことを伝え、岩川の領地について満足できるよう尽力すると約し、境目での苦労を察した伊集院忠倉書状。
天明四年(日付なし) / 冊子 749頁/原整理番号 2114の3/整理ID 2114-3
大井屋敷の作事願いについて使者から伝えられた趣旨を承知したと名主貫蔵が返答する短い書状。宛先に安部次郎兵衛・鵜殿新三郎の名がある。独立した『の3』であり、作事許可の裁定そのものではない。
応永28年5月3日 / 冊子 360頁/原整理番号 149
応永二十八年五月三日、沙弥通松(羽島豊後守友平)が舎弟新三郎へ、国分寺領内の薩摩郡羽島を譲与した仮名書の譲状。坪付などの細目は代々の文書に記載されているため重ねて詳述せず、早く知行するよう命じ、後日の証文として作成する。『旧記雑録前編二』九九八号文書と同一文書と注記される。
応永28年8月9日 / 冊子 360頁/原整理番号 151
応永二十八年八月九日、島津久豊(存忠)が羽島新三郎へ、薩摩国内の東郷退治時に、国分を万徳の代として取り計らうよう命じた宛行状。軍事行動に際する国分の処置を、特定の代理関係とともに短く指示する。『旧記雑録前編二』一〇〇四号文書と同一文書と注記される。
応永28年8月13日 / 冊子 360~361頁/原整理番号 152
応永二十八年八月十三日、島津久豊(存忠)が羽島新三郎へ、薩摩郡内羽島の本領について現状どおり知行することを認めた宛行状。領掌に相違があってはならないと、簡潔に本領を安堵する。『旧記雑録前編二』一〇〇五号文書と同一文書と注記される。
応永廿八年八月十三日 / 冊子 49頁/原整理番号 263
島津存忠(久豊)が羽島新三郎に、薩摩郡内羽島の本領当知行について領掌に相違がないよう安堵した文書。応永廿八年八月十三日付。
応永廿八年八月九日 / 冊子 49頁/原整理番号 264
島津存忠(久豊)が羽島新三郎に、薩摩国内の東郷退治の際、国分万徳の代として取り計らうよう命じた宛行状。応永廿八年八月九日付。
応永廿八年五月三日 / 冊子 55~56頁/原整理番号 281
沙弥通松が舎弟新三郎に、国分寺領内薩摩郡の羽島を、代々の坪付文書に従って譲与し、知行させるとした譲状。応永廿八年五月三日付。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第三番の手組を記した一覧。殿以下、島津河内守・島津式部太輔・島津勘解由次官・平田新三郎らの射手名と割当てを列挙する。
元禄十三年十一月十四日 / 冊子 248頁/整理ID 842
菊池新三郎が菊池藤助へ、九月四日に林大学頭を訪ねた際、島津家譜略は石野八兵衛からまだ届かず清書中だと答えたことを報告した覚書。島津忠久が源頼朝の子であることを『吾妻鏡』だけでは確認しにくいとの問いに対し、奥州陣や畠山重忠に関する記事などを含む系図を後世に残すべき重宝として念入りに整える趣旨を伝える。
文亀二年四月十六日 / 冊子 580頁
大田忠福が薩摩国南郷内の塩屋一間を坊津龍厳寺一乗院へ永代寄進し、末代の亀鏡として証文を残した寄進状。
(慶長十七年)六月廿二日 / 冊子 365頁
慶長十七年六月二十二日、島津義弘が相良左兵衛佐へ、上洛後の無音を詫び、東国の平穏と大名衆の屋形普請、今後の下向予定などを伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 358~359頁
島津久雄譜の記事。忠将流系図として、久雄が寛永十年三月四日に生まれたこと、母、幼少で父を失ったのち将軍徳川家光の命により父の遺領を安堵され、江戸城で拝謁して刀を献じたことなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 359頁
島津久雄譜の記事。忠興流系図として、久雄が寛永十年三月二十一日に佐土原で生まれ、幼名・官途と母を記し、寛永十四年に将軍家光の命で父忠興の遺跡を相続したことを述べる。
元徳二年十月廿五日 / 冊子 585頁
新田宮雑掌が段米以下の件を重ねて訴えたため、先に催促したにもかかわらず返答しない大隅新三郎へ、来月十五日以前に事情を明らかにするよう命じた鎮西御教書。
文亀4年3月22日 / 冊子 256頁/原整理番号 99
文亀四年三月二十二日の犬追物手組。番号付きの項目として「一 島津備前守」九疋、「二 島津左馬助」十八疋、「三 渋谷藤次郎」五疋、「四 島津次郎四郎」五疋を記し、ほかに豊後守殿十四疋、梁瀬源五十一疋、島津治部少輔十疋、村田与次郎九疋、柏原助七郎十一疋、羽嶋新三郎三疋、羽嶋越前守三疋、上原又七六疋を割り当てる。検見を餅原駿河守、喚次を吉田六郎三郎が務め、前掲の延徳二年手組と同じく参加者・馬匹数・役割を表形式で示す。正本は家蔵され、『旧記雑録前編二』一七八九号文書と同一と注記される。
目録年月日記載なし / 冊子 452~453頁/原整理番号 98
穆佐の稲荷大明神宮と拝殿の寸法、祭礼日、永両村の祭祀、社殿の修補を記す。忠国が穆佐城にいた頃の建立と伝え、火災後の再建や社領の変遷にも触れる。明暦元年九月上旬に下倉永村の祝子野田新三郎が記す。
宝暦11年林鐘日 / 冊子 374頁/原整理番号 188-8
宝暦十一年、蒲地四郎左衛門貞留が、焼失した加世田浄福寺の再建に普請検者として赴いた際、同寺にある蒲地氏先祖の墓を調査した記録。浄福寺の戦亡帳を借り、蒲地帯刀・蒲地左衛門四郎・蒲地新三郎・蒲地越中の四名を確認し、暖土持十兵衛から忠国公下馬札後方の塚について聞き取った。本田用右衛門家が蒲地先祖の墓として花香を手向けてきたとの本田与市左衛門の証言を得て、野町源右衛門の案内で現地を確認し、荒れた墓を整えて道を設け、四霊位の菩提・月忌料として青銅一貫文を納めたことを記す。貞留自身の書留等とも照合できると付記する。
年月日未詳 / 冊子 125頁/原整理番号 20
前欠の犬追物手組の断片。蒲生十郎三郎・島津新三郎・長野助五郎らの射手と犬数を記し、検見を島津十郎左衛門尉とする。年月日は本文に残らない。
天明四年九月七日~十一日(文中の二日付) / 冊子 749~751頁/原整理番号 2114の4/整理ID 2114-4
大井抱屋敷の本家・物置の造作について、根元政右衛門が九月七日付で、願書・絵図の取次ぎ、代官所の見分、隣接する抱屋敷との調整などの経緯を申し出る。未許可の新規作事や見分をめぐる懸念を記し、作事方に意向を確かめて改めて願い出る必要を述べる。続く渋谷五郎右衛門の九月十一日付申出は、屋敷方・代官所・取次役の間で作事と見分の進め方を調整した事情を記す。
年月日未詳 / 冊子 764頁/原整理番号 813
出水滞留中の正月二十日、喜入吉兵衛付衆の到着と、三原左衛門佐からの注進次第出船する旨を記す。落城間近との取沙汰や、南雲・市成・東郷三人の島原行、三原与力野元源左衛門と伊集院衆帖佐小兵衛の戦死注進を載せる。自力立以外には一人一日黒米五合を支給するとし、二十一日に書き留めたと結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 347~352頁/原整理番号 131
末吉羽島氏に真本があると注記する惟宗姓羽島氏の長大な系図で、聖武天皇から惟宗氏へつなぐ系譜を掲げ、伊賀守・紀中納言(宗大納言)・陰陽頭・能登守などの祖先から、羽島・国分・郡山・神崎等の諸流を系線で整理する。康友が島津豊後前司忠久を養子とし、忠久を源頼朝の子、丹後局を康友の妹とする伝承を載せ、国分寺職・天満宮沙汰人・執印職の相伝、筑前岡元庄への居住や分家を記す。国分豊後守宗友は島津忠国の伊東退治で山東においてたびたび忠節を尽くし、日向国海江田庄八十町・上別府ほかの地頭職と自筆判を与えられたとする。後代には島津伊久への奉公、神崎合戦・郡山・平佐・筑後・肥後隈城等での討死、日向上別府への移住、養子・婚姻・出家・法名を多数記し、中世薩摩の宗教職・所領継承と軍役を一系譜内に集積する。
天正15年(1587)ほか / 冊子 420~421頁/原整理番号 8
秩父氏二十四代又太郎重豊の四男・淡路守入道心岳を祖とし、出羽守・淡路守重宗以下へ分かれる伊地知氏庶流の系図。重政は門川地頭として島津義久に仕え、天正十五年に豊後で戦死し、重張は朝鮮で戦死したと記すほか、種子島氏からの養子が義久・義弘・家久の三代に仕えたこと、各支流の官途・婚姻・養子・戦死を載せる。後半は手串良・牛根・栗野・曽木・飯野・倉岡・国分などへの移住、根城攻めでの戦功と前田給付、前田家との由緒から前田または伊地知を称した重悦・重通の系統、重氏・重行・元重・重慶・季定らの系線を示す。
天文三年正月十六日 / 冊子 141頁/原整理番号 73
天文三年正月十六日の大的日記。島津近江守殿・島津孫四郎・島津駿河守ら射手ごとに黒丸・白丸の記号と数を示す。末尾に三度弓のときの日記である旨の記述を伴う。
永禄七年三月十四日・五月晦日・七月十八日 / 冊子 131~132頁
永禄七年の戦死者交名。三月十四日および五月晦日の今城合戦で戦死した宇都源十郎、大河平隆次・隆堅・隆光以下の一族・郎党を多数列挙し、七月十八日に櫛間桂原で戦死した新納新三郎忠衡も付記する。
元亀二年六月廿三日~十一月廿日 / 冊子 246頁
元亀二年六月二十三日、島津貴久が加世田の本宅で没し、二十九日に日新寺で荼毘に付されたことを記す。日新寺境内の釈迦堂を忠良・貴久父子の廟所とする伝承、平田純貞が貴久の冥福のため六十六州を巡歴し翌年鹿児島海中で入水した話を載せる。十一月二十日には肝付・禰寝・伊地知連合軍が船百余艘で鹿児島内海へ侵入して帖佐・瀧水を攻め、平田新三郎らが防いで退却させた。