今川了俊安堵状
明徳四年十月十一日 / 冊子 149頁
今川了俊が指宿殿に、薩摩国指宿郡内の山河・嶋河を相伝の旨に任せ、従来どおり知行することを安堵した文書。
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明徳四年十月十一日 / 冊子 149頁
今川了俊が指宿殿に、薩摩国指宿郡内の山河・嶋河を相伝の旨に任せ、従来どおり知行することを安堵した文書。
天正20年12月28日 / 冊子 619頁
薩州郡答院のうち、黒木・一かへの園門など七反五畝余を指宿左近兵衛尉へ宛行った領知目録。 村田先の土地として地名・面積を記し、郡答院における家臣知行の具体的な配分を確認できる。
慶長五年十月十日 / 冊子 595頁
島津義弘(惟新)が指宿清左衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
(寛永四年)四月十三日 / 冊子 33頁
樺山久高が伊藤壱岐守の書状と条書を送り、朝鮮方面で多数の人々が乗船・退避した折の働きを詳述する。指宿らが船を着岸させ、人員を残さず収容した奉公を賞し、当時の褒美について働きかけるよう求める。
(寛永四年)八月廿七日 / 冊子 42頁
樺山久高が、朝鮮方面からの帰帆時に指宿拾郎右衛門が迎えの二艘を率いて着船し、後続十一艘や乗り遅れた者まで確認して全員を乗せ、船団を無事に出航させた働きを賞する。知行などの褒美がなければ申し出るよう勧める。
二月廿九日 / 冊子 52頁
片山重次が、城中で初めて対面した指宿内蔵助の戦功を称賛した書状。指宿が敵二人の首を切り捨てた手柄は比類なく、自身も敵一人を切り捨てたものの首を取らなかったことを悔やむと述べ、薩州衆の前日の働きも報告する。
四月廿五日 / 冊子 743頁
善哉坊が持参した書状を確認し、先年の高麗での加増話は事実がないまま決着したと伝える。島津兵部少輔から預かった関係書類を閲覧用に送り、後日返却を求めた島津久元書状。
年月日未詳 / 冊子 32~33頁
指宿氏の系図。指宿郡司又次郎忠連を起点に、忠篤・忠泰・忠勝・忠元・忠平らの系統、入道名、討死や寺院関係などを図示する。
年月日未詳 / 冊子 55頁
指宿能登守を祖として、忠篤から忠泰次郎・忠勝能登守・忠元左京亮・忠平掃部介へ連なる系譜を示した指宿氏系図。
天授二年七月廿五日 / 冊子 99頁
指宿忠勝が、多年の軍忠により安堵されて知行してきた薩摩国指宿郡惣地頭職を嫡子将忠へ永代に譲り、子孫まで譲状の趣旨に従って知行するよう定めた譲状。
年月日未詳 / 冊子 99頁
指宿忠勝(能登守)から正忠(郡司)へ続く父子関係を示した簡略な系図。
年月日未詳 / 冊子 231頁
指宿氏について、能登守忠勝から郡司正忠・女子師犬・指宿郡司忠合・近江守頼忠・朝忠らへ至る系譜関係を図示した略系図。
元弘三年七月十三日 / 冊子 615頁
薩摩国指宿郡司彦次郎入道成栄が、命に応じて軍忠のため参陣したことを届け、左少将へ披露するよう求めた着到状。
明治5年壬申7月14日ほか / 冊子 893頁/原整理番号 1107の1/整理ID 1107-1
第一大区小三区の区名を改めたことを布告する。また指宿郡治所を山川へ移し、郡長以下を同地に勤務させる。
年月日未詳 / 冊子 484頁
文明七年六月二十七日、指宿三郎四郎朝忠が薩州国分と伊作の戦いで討死したことを記す記事。
(享禄二年)六月 / 冊子 702~704頁
享禄二年六月十一日以降の島津忠良・貴久方の軍事・外交を日次で記す。隈江匡久、本田紀伊守、山田安藝守らの使者派遣、指宿・市来・串木野・清水方面の軍勢と物資の移動を追い、祢寝・肝付・豊州方との贈答・交渉内容を具体的に記録する。
年月日未詳 / 冊子 3~4頁
島津貴久勢が北村で北原氏の偽装退却と伏兵に遭い包囲される。指宿右馬允と竹若丸が殿を務めて戦死し、弟子丸らも討死する一方、北原忠辰が追撃勢を攻め、貴久は退却した。翌日、北原勢が加治木・溝辺へ進出すると大隅衆が迎撃し、敵およそ二十人を討ち取る・生け捕るなどしたが、味方の足軽にも戦死者が出た。
永禄七年十二月二日 / 冊子 138頁
南薩州久志浦の久玉大明神宝殿一宇を造立した棟札。大檀那日新、大願主忠長、指宿貞幸・見玉盛賓ら施主と大工貞清以下を記し、天長地久、檀那の息災、国土泰平、諸人快楽を祈願する。
元亀二年秋(十一月廿日) / 冊子 249頁
元亀二年秋、伊地知重興・伊東・肝付・禰寝の連合軍が鹿児島内海へ侵入した際、瀧ケ水で戦功を挙げた者の交名。平田美濃守、鉄砲上手の勝部与左衛門、平田藤九郎、南雲壱岐守・新次郎、指宿四郎二郎ら八、九人を掲げ、平田美濃守の実名に関する編者の考証を付す。
(寛永十二年)十二月七日 / 冊子 508頁
伊勢貞昌が、南蛮宗に関する処置で立野を種子島へ移すことになった件について、指宿に縁のある祖母が先代から厚遇された事情を述べ、種子島でも往来の法度を薩摩と同様に守らせつつ、立野に配慮するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 335~336頁
島津忠良自筆の正文が指宿助左衛門に伝わったとされる『白毛十首之和歌』。白髪を題に、老い、鏡に映る姿、染めても戻る白髪、死への覚悟などを十首に詠む。
七月廿七日 / 冊子 538頁
薩摩国御家人指宿平四郎忠秀と頴娃平太忠継が争う開聞神領について、双方を召して裁決し、事情を注進するよう命じた北条泰時書状。
年月日未詳 / 冊子 339頁
御文庫二十二番箱所収の島津忠良詠草。本文はNo.809『白毛十首之和歌』と同文のため省略され、出典注と同文省略の注記のみが掲げられる。
(元弘三年)五月廿七日 / 冊子 611頁
武蔵修理亮北条英時誅伐の際、指宿左近兵衛忠貞が分取一人・被疵の軍功を挙げたため、その功を認めて沙汰を進めると伝えた島津道鑑の書下。
(元弘三年)七月廿八日 / 冊子 616頁
武蔵修理亮北条英時誅伐時の軍忠申状を受け、指宿郡司彦次郎入道成栄へ、その内容に従って沙汰すると伝えた大友具簡の書下。
建武二年五月廿五日 / 冊子 635頁
薩摩国指宿郡秋富名内中河井・荻迫等をめぐる伊集院弥五郎久兼の申状について、山口三郎入道ら関係者を召し合わせ、証拠を調べて急ぎ対決・注進するよう命じた島津貞久書下。
文和3年10月13日(1354) / 冊子 454頁/原整理番号 14-6
島津貞久が指宿郡司入道へ、島津庄日向方の富山七郎左衛門尉義道が訴えた島津院住人らの追捕・狼藉について、添付訴状に基づき土持掃部左衛門入道とともに現地を検分するよう命じた文和三年十月十三日付書下。当事者を参上させて事情を明らかにし、請文を提出させ、難渋する者には起請の文言を載せて申し開かせるよう指示する。
建武3年3月5日(1336) / 冊子 454頁/原整理番号 14-7
足利尊氏が指宿一族へ、菊池武敏以下の『凶徒』を誅伐し、軍忠を尽くすよう命じた建武三年三月五日付軍勢催促状。短文ながら、九州での敵対勢力を名指しして指宿一族単位の参戦を催促する。
延元2年5月26日(1337) / 冊子 454~455頁/原整理番号 14-9
三条侍従(三条泰季)の仰せを受け、左近将監高家が指宿郡司入道へ、薩摩国指宿郡内秋益名跡を上裁決着まで道鑑法師に預け置くことを伝えた延元二年五月二十六日付御教書。甲乙人による乱妨を止め、同名跡を静穏に支配させるよう命じ、文書冒頭には『御袖判』を記す。
建徳元年11月21日(1370) / 冊子 456頁/原整理番号 14-13
征西将軍宮の令旨を前中納言が指宿能登守へ伝え、知覧美濃権守忠泰に、亡父忠平の譲状どおり薩摩国知覧院および河辺郡を支配させるよう命じた建徳元年十一月二十一日付文書。指宿能登守は鮫島下野守と現地へ赴いて忠泰へ下地を引き渡し、異論があれば起請の文言を記して注進するよう求められた。
明徳4年10月11日(1393) / 冊子 456頁/原整理番号 14-14
今川了俊が指宿殿へ、薩摩国指宿郡内の山河・鳴河を相伝の旨に任せて知行し、権利に相違があってはならないと認めた明徳四年十月十一日付安堵状。短文ながら、指宿氏が同郡内二か所を相伝所領として保持したことを具体的に示す。
慶長5年10月10日(1600) / 冊子 458~459頁/原整理番号 14-17
島津惟新が指宿清左衛門尉へ、美濃国関ヶ原合戦で粉骨し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国途上も片時も側を離れず奉公したことを賞して、知行百石を宛行った慶長五年十月十日付感状。後続系譜には、出水の八重尾因幡守家、蒲生の野村九右衛門家への婚姻、福山居住、忠易夫妻の出水での没年・法名などを記す。
2月29日(年欠) / 冊子 459~461頁/原整理番号 14-18
片山次兵衛尉重次が薩摩様配下の指宿内蔵助へ、前日に城中で初めて対面して見た働きは筆舌に尽くしがたいほど比類なく、敵二人の首級を挙げた手柄に驚いたと伝えた二月二十九日付書状。重次自身も首級を拾ったが、今になって思えば拾うべきではなかったと述懐し、薩州衆の前日の働きについても重ねて言及する。後続系譜には、出水・福山居住、忠能以下の没年・法名・婚姻・養子関係、弥作が七島口之島に住んだことまでを記す。
年月日未詳 / 冊子 2頁
蒲生北村の敵が帰順を装って島津軍を誘い出し、弘治元年正月二十二日に貴久・義久が吉田から出陣したところ伏兵に遭った。弟子丸播磨守・指宿丹後守以下十八人が戦死し、十九歳の歳久も負傷したと記す。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、屋形様父子が吉田まで出陣したが、北村勢の偽計により味方が敗軍した。弟子丸播磨守が退かずに討死し、指宿丹後守・敷根源八兵衛らも戦死したことを記す。
(永禄十二年頃) / 冊子 224~225頁
島津忠良(日新)に加世田で仕えた人々を列挙した交名。大田・稲富・玉利・奈良原・鹿島・河崎・指宿・中条・富松・阿多・有馬・宮原・鮫島など多数の家臣名を掲げる。後世の奥書は村田市助の写本で、日新没後に子孫が鹿児島その他へ移住した者も多いと説明する。
建武三年四月廿五日 / 冊子 663頁
肝付八郎兼重与党の凶徒追討のため、薩摩国御家人指宿郡司入道成栄が参候したことを届け、披露を求めた着到状。
延元二年十月日 / 冊子 698~699頁
指宿彦次郎入道成栄代の高野淡路房宗栄が、市来城攻めで軍忠を尽くした軍忠状。九月十七日から市来へ進み、翌夜の合戦、同十九日の市来・平城攻め、吉田又次郎らとの合戦、手負・討死を列挙し、守護代官酒匂兵衛二郎らの見知と証判を求める。
延元三年二月五日 / 冊子 709頁
指宿彦次郎入道成栄が過去の軍忠を述べた軍忠状。前年三月十七日に薩州大将の御下向へ馳参じ、数十度の合戦で敵を追い、鑑・一族大隅五郎兵衛・嫡子彦次郎らの軍功と打死を挙げ、証判と恩賞を求める。
延元2年10月(1337、日欠) / 冊子 455頁/原整理番号 14-10
薩摩国指宿彦次郎入道成栄の代官・高野淡路房宗栄が、九月二十日、島津孫三郎頼久以下の『凶徒』を討つため大将が市来院へ発向した際に馳せ参じ、軍忠を尽くして敵一人を分取したと申告する延元二年十月付軍忠状。有間平次郎・山角平三郎入道・栗下宰相房の三名が戦功を見知った証人として挙げられ、宗栄はこれを根拠に恩賞を求める。
延元3年2月5日(1338) / 冊子 455~456頁/原整理番号 14-11
指宿彦次郎入道成栄が、前年二月十七日に薩州御大将・三条侍従が下向した際、綸旨に従って最前に馳せ参じ、以後数十度の合戦に参加した軍忠を申告する延元三年二月五日付軍忠状。島津上総入道道鑑一族、大隅五郎兵衛尉子息孫六・頴娃三郎らに言及し、成栄の子息次郎をはじめ一族・親類・若党数人が戦死したこと、市来院後巻では代官高野中務丞朝久が激戦の末に分取を遂げたことを述べ、絶え間ない軍忠の後証となる一見状の交付を求める。
天授2年7月25日(1376) / 冊子 456~457頁/原整理番号 14-15
指宿能登守忠勝が、多年の軍忠により安堵の令旨を受け、自ら知行していた薩摩国指宿郡惣地頭職を、嫡子正忠へ永代譲与した天授二年七月二十五日付譲状。正忠は以後、安堵状の趣旨を守って知行し、相違があってはならないと定める。併載系図には忠合(指宿郡司・近江守)・頼忠らを掲げるが、譲状本文の譲受人は正忠一人である。
応永16年2月18日(1409) / 冊子 457~458頁/原整理番号 14-16
指宿近江守忠合が子息・平頼忠へ、薩摩国指宿郡五ヶ名を重代相伝の所領として譲った応永十六年二月十八日付譲状。父・能登守忠勝の公方御教書や代々の本証文を根拠に、指宿郡一円の知行と正忠・忠合へ至る相続経緯を述べ、父祖代々の証文が明白であるとして頼忠への譲与を定める。後続系譜には、永吉城・新納院高城・日州庄内での戦死、島津尚久・本田氏・市来家・松下家との婚姻、忠政の関ヶ原合戦従軍と感状・知行百石、福山居住・没年法名など、指宿氏後裔の軍歴と家系を記す。
年月日未詳 / 冊子 1~2頁
島津貴久が嫡男義久、弟忠将、子の歳久・家久を率いて北村を攻めた際、敵の伏兵に遭って歳久が負傷。翌日、北原氏の軍勢が溝辺に出たため大隅衆が迎撃し、鉄砲で敵六人を射殺、太刀で一人を討ち取った。
元亀二年十一月廿日~天正元年 / 冊子 305~307頁
肝付・伊地知方の大船団が桜島を経て鹿児島湾へ侵入した海戦と、その後の下大隅征討を長文で記す。伊集院善左衛門が海戦で戦死した後、瀧水では平田新三郎ら約五十人が上陸を阻み、島津家久が瀬戸村で追撃して敵船を軽石へ退けた。続いて早崎・小浜城を攻め、伊地知美作守が退去した城へ家久が入り、牛根城も攻撃したが諏訪神事のため一時帰陣したとする。海戦年次には本文内注記との相違がある。
天正二年正月十九日 / 冊子 327頁
天正二年正月十九日の禰寝方面の合戦で戦死した喜入季久の弟忠通・久績と、季久配下の武士らを列挙する。地下・足軽を含めて十五人が戦死したとする。
七月六日 / 冊子 33~34頁
賦所が、諸士と従者の人数、夫役、船数、乗船地、飯米の受領方法を定めて平田狩野介・上原源右衛門尉へ達した文書。如瀬浦・名護浦へ移動し、山田主計助の指示で乗船すること、三枚帆三艘への割付や三日分の飯米を用意することなどを命じる。
正月17日 / 冊子 731頁/原整理番号 768
琉球米を積んだ船を出水へ回すよう堅く指示する。有馬の陣まで船を引くと兵糧が間に合わないため、少しでも急いで回航するよう命じ、上荷を一部下ろして船を軽くすることを求める。荷下ろしには頴娃・指宿・山川から一、二人ずつ出会って立ち会うよう定める。正月十七日付。
元弘三年十月十三日 / 冊子 618頁
島津庄日向方富山十郎左衛門義道の訴状に基づき、指宿十郎右衛門五郎へ、追捕した刈田・狼藉の実否と相論地を検見し、証拠を添えて公平に執進するよう命じた島津貞久の施行状。
年月日未詳 / 冊子 709頁
延元三年正月以降、指宿成栄が秦季師に属し、戦闘で子次郎忠泰ら多数が死傷したことを記す肝付兼重伝の記事。