島津惟新書状抄
十一月十六日 / 冊子 357~358頁/原整理番号 120
島津惟新の書状抄。伏見の留守番のため上方へ送るべき人数が出されていないことを案じ、上方情勢の変化に備え、鹿島太郎兵衛を使者として国元の対応を促す。
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十一月十六日 / 冊子 357~358頁/原整理番号 120
島津惟新の書状抄。伏見の留守番のため上方へ送るべき人数が出されていないことを案じ、上方情勢の変化に備え、鹿島太郎兵衛を使者として国元の対応を促す。
慶長5年10月10日(1600) / 冊子 458~459頁/原整理番号 14-17
島津惟新が指宿清左衛門尉へ、美濃国関ヶ原合戦で粉骨し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国途上も片時も側を離れず奉公したことを賞して、知行百石を宛行った慶長五年十月十日付感状。後続系譜には、出水の八重尾因幡守家、蒲生の野村九右衛門家への婚姻、福山居住、忠易夫妻の出水での没年・法名などを記す。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):慶長五年庚子十一月二十六日 / 冊子 150頁/整理ID KW1-G000124
慶長五年十一月二十六日の目安状を左条に載せると記す。
〔慶長五年〕正月廿六日 / 冊子 709頁
新納忠元が樺山権左衛門尉へ、芦北方面から百姓を帰還させる件について、残留者は現地で不忠を働いた者で帰れないと申し立てていることや、出家まで百姓として日記に載せる扱いに疑問を呈した書状。出水・大口双方の縁者を調べ、境目の事情に即して帰還を相談すべきだとする。本文注は編年を誤り慶長五年の文書と指摘する。
慶長五年四月十九日 / 冊子 426頁
新納旅庵長住が材木屋与兵衛に提出した借用書の裏書である。慶長四年八月に借りた本銀二貫目について、同年八月から翌年三月までの利息を計算し、慶長五年四月に合計二貫四百四十三匁九分を済ませたと記す。さらに五月から銀子一貫五百目を借用し、一貫目につき一か月三十目の利息とする条件を確認する。
慶長五年二月六日 / 冊子 507~508頁
慶長五年二月六日、数か月にわたり兵粮を断たれた志和池城の籠城衆は、菜根も尽き、角・皮製の器など食べられる物を食べ、矢・弦もほぼ尽きて防戦の手段を失い、屈して降伏を願った。これに対して死罪を宥め、包囲の一面を解いて退去させたことを記す島津義久譜の記事。
慶長五年三月廿九日 / 冊子 529頁
島津竜伯ら三名が、木の間から聞こえる郭公の初音や松の常緑を題材に詠んだ和歌。慶長五年三月二十九日に住吉大明神の神前で詠み、会紙を法楽として住吉社内へ奉納した詠草。
慶長五年十月十六(十三)日 / 冊子 598頁
島津義久と島津忠恒の連署状で、確定インデックスでは慶長五年十月十六日(異本では十三日)付とされる。本文は別文書との同文注記により省略されており、この頁だけでは宛先・具体的内容を確認できない。
慶長五年十月廿三日 / 冊子 601頁
本文はNo.2500文書と同文であるため省略されており、日付のみ慶長五年十月二十三日と付記される。宛行の対象・内容は当該箇所からは確認できない。
慶長五年十二月八日 / 冊子 721頁
長谷場氏文書に収める、島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近の連署宛行状。慶長五年十二月八日付で長谷場越前守への知行宛行を認めた文書で、本文は史料上で省略されている。
(慶長五年)十二月十三日 / 冊子 724頁
山口直友の慶長五年十二月十三日付書状。本文は旧記雑録後編3のNo.1339と同文であるため、本箇所では省略されている。
慶長五年十二月十八日 / 冊子 724頁
入来院恒吉(弓市)が、慶長四年十二月から慶長五年十一月までの使者往来と魚塩荷物の通過を条々に記した覚書。大童仁兵衛らの使者、魚塩七十荷・七荷の輸送、加久藤衆などの動きを記し、鹿児島へ提出したうえ湯尾に控えを置いた。
慶長五年十二月廿七日~慶長六年正月晦日 / 冊子 730-740頁
慶長五年十二月二十七日から慶長六年正月晦日までの日記。歳暮の寺社礼、京都使者の下向、忠恒の年始儀礼・五社参り・寺社参詣・家臣接見・宴会・弓鉄砲揃え、冨隈・帖佐への往来、普請、祈祷、贈答などを日ごとに記録する。
慶長五年極月 / 冊子 773頁
慶長五年末、上方勢の薩州来攻や加藤清正の水俣進出との風聞を受け、蒲生城の普請・籠城準備を進めた経緯を記す。松岡勝兵衛の指図で矢倉を上げ、城内へ諸士を召し移した記事。
(慶長五年)十月七日 / 冊子 94頁
慶長五年の軍事危機に際し、知行処置を早く決めて諸人の支持を得、歴々から下々まで血判・神水で団結させるよう説き、立花宗茂・毛利輝元への急使、龍伯の陣所、境目の城と軍勢準備などを談合で確定するよう求めた書状。
慶長五年、慶長七年、寛永十四年~延宝七年(後続系譜記事) / 冊子 487~489頁/原整理番号 20-1
慶長五年・七年の諏訪大明神祭会について、御頭屋・御頭人、左右の居頭、初献・二献・三献、相伴、御幣、敷皮などの勤役者を列挙した書上。高城・寺山・国分・新納・平田・加治木・本田・猿渡らの人名と、嫡子・二男・内衆などの続柄や立場を具体的に記す。後半は平田氏の後続系図で、伊東肥後守祐辰女を妻とした人物の没年・葬地に続き、内田才右衛門正重の嫡子・宗宣が宗敏の婿となって家を継いだことを記す。宗宣は寛永十四年の肥前有馬におけるキリシタン一揆で軍使を務め、翌年二月二十八日の原城攻めでは自ら枝書右衛門を召し取り、分捕りの証状を得たとし、その後の宗模・宗貞・宗明・宗喜らについて妻の出自、出生・没年、幼名・通称を延宝年間まで載せる。
慶長五年十月十日 / 冊子 556~557頁/原整理番号 94の2
島津惟新が横山弓内へ与えた感状。関ヶ原合戦で粉骨し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も離れず奉公したことを賞し、知行五十石を宛行う。慶長五年十月十日付。家村源左衛門の抜書注記を伴う。
年月日未詳 / 冊子 494頁
庄内戦で戦死した者を、年月日・戦場・所属とともに列挙した殉国者名簿。慶長五年正月の河内・栗山・追田などでの戦闘を中心に、戦死者名のほか、主従・組・衆の別や人数を記し、庄内戦での人的損害を整理する。
年月日未詳 / 冊子 495頁
慶長五年、北郷忠能が庄内の本領を安堵されたことに伴い、勝岡・石山の内から久村へ三千石を与えた記事。久村の知行三千石にかかる課役は、忠能の総高の内として扱われたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 507頁
志和池城の守兵が数か月にわたり包囲され、兵器・食糧が尽きて餓死者も出るほど衰弱し、慶長五年二月五日に戦意を失って相次いで降伏を願い、捕虜らも下城して退去したと記す。
年月日未詳 / 冊子 539~540頁
慶長五年五月四日、北郷三久の七年間にわたる軍功を賞し、采地千石を加増したことを記す。
七月七日 / 冊子 550頁
伊集院元巣久信が、文禄四年十一月に伊作地頭職を命じられ、慶長五年まで四年間、公儀から選任されて御宝物の虫干しを自ら勤めたこと、慶長五年に伊作へ移ったことを、後日の証拠として書き残した申状。
年月日未詳 / 冊子 559頁
慶長五年八月朔日の伏見城攻撃で、有馬藤七兵衛純房が戦死し、その従者・小者やともに討死した者を列挙する記事。善七・善六・白坂助六篤次・井尻甚六・福永助十郎・四本人兵衛忠次・東郷源四郎重信・和田仲蔵義音・松元市右衛門・小川平左衛門・牧喜助らの名と一部の戦死事情を記す。
年月日未詳 / 冊子 589頁
慶長五年十月、太田飛騨守の豊後の居城へ関東方が攻め寄せるとの情報を得たため、島津忠恒(家久)が多野村狩野介・本田新介に歩卒数十人を付けて使者として派遣した際の書付と考えられる、と本田親孚が記す。
年月日未詳 / 冊子 604頁
本文はNo.2233文書と同文であるため省略される。御案文には島津義久(龍伯)の自筆がなく、慶長五年のものと推定される旨が注記されている。
年月日未詳 / 冊子 616頁
北郷源左衛門久観の譜記事。慶長五年十一月、島津忠恒(家久)から余地三百石を与えられ、その正文を次に掲げると記す。
年月日未詳 / 冊子 707-718頁
慶長五年十月二十五日から霜月三十日までの日記。島津義弘(惟新)の社寺参詣、来客・使者の応接、贈答、蒲生城普請の見分、各地への使者派遣、肥後・日向方面への武器弾薬輸送、鹿児島稲荷・小城権現の再興、関ヶ原供奉者への知行目録交付など、帰国直後の政務・軍備・儀礼を日ごとに記録する。
年月日未詳 / 冊子 719頁
慶長五年に祁答院を与えられた島津忠長が、同年十二月中旬に東郷を離れ、子の河内守忠倍とともに宮之城へ移ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 723頁
島津家久室が慶長五年に肥後で生まれ、母は皆吉久右衛門続能行の娘であったことを記す系譜記事。
慶長5年、安永年間 / 冊子 70頁/原整理番号 16
二階堂行光の後裔・支流を諸系譜から抄録した考証。行盛・行忠・行宗・行貞・行廣を経る系統では、六郷道行が徳川家康に仕えて出羽国仙北郡六郷に住み、六郷氏へ改姓したこと、六郷政壽が慶長五年の上杉景勝挙兵時に家康方へ忠節を尽くし、常陸国府中・出羽国由利郡本荘の城主となった経緯を記す。別支流では石谷政清が遠江国西郷荘石谷に生まれて石谷氏を称し、その後裔が旗本石谷清昌に至るとする。さらに安永年間、喜連川氏家臣二階堂貞英から聞き取った系譜として、行政以下の政所執事、貞頼・貞継の足利持氏奉仕、行稠・行秀以下の古河足利氏・喜連川氏奉仕を掲げ、行光嫡流の所在は不明ながら諸国に支流が残ると考察する。行光の履歴は『東鑑』から別録にまとめた旨を付記する。
年月日未詳 / 冊子 111~113頁/原整理番号 22-1
舒明天皇・天智天皇・大友皇子を起点に伴姓の祖系を示し、兼経・兼益以下の肝付氏と庶流を配する系図。萩原・救仁郷・安楽・検見崎・北原・和泉・岸良・野崎・川南・鹿屋・小野口・山下など各氏の分出を明記する。兼尚が鎌倉在府中、兼重が留守・番代を務め、その子秋兼が兼尚の養子となって嫡家を相続した経緯を載せる。後段では兼続(法号省釣)の永正八年誕生、永禄五年の松山・志布志知行、永禄九年十一月十五日の志布志での死去、良兼・兼勝・兼樹・兼包・兼政らの続柄を記す。兼政は早世した良兼の娘を妻として嫡家を相続し、慶長五年九月十五日に美濃国関ヶ原で戦死したとし、兼元の島津元久上京供奉や兼忠の頴娃拝領にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 153頁/原整理番号 37
佐近・頼安以下の相良氏系図と、清兵衛頼兄・喜平次父子を中心とする家伝。清兵衛は永禄十一年に球磨で生まれ、相良の本姓へ復した。慶長五年、福原右馬助が主取となる濃州大垣城に熊谷内蔵之助・木村宗右衛門・垣見和泉守・相良宮内頼房・高橋右近・秋月長門守らと籠城したが、秋月・高橋・相良は関東方へ赦免時の返忠を申し入れ、城内で五将を討って降参した。この策が清兵衛の謀によるとして徳川家康から感状を受け、近習に取り立てられ、肥後葦北郡を与えるとの申し渡しを辞退した後も御目見・近習同前とされた。球磨城主相良壱岐守の仕置を清兵衛が担った際の専横をめぐり江戸へ召され、清兵衛・喜平次の不仕合の風聞から一揆・内乱が起こり、清兵衛は津軽へ預けられた。頼安の妻を島津中書家久の娘とし、その子喜平次(内蔵丞)は元和三年に加治木へ赴き島津義弘の加冠を受けた。寛永十七年の球磨仕置処分時には薩摩屋敷へ遣わされ、その後公儀の構いを解かれ、薩州の臣として二千石を与えられたと記す。
慶長5年9月15日、寛永15年1月13日・2月28日、貞享5年6月12日ほか / 冊子 277~278頁/原整理番号 108
上世不詳とする上原丹後守を祖とし、丹後守が日新公に仕えたのち中書家久に臣従し、日州佐土原で二百五十石を与えられたことから始まる上原氏系図。長野下総守の長男で上原家に入った佐太右衛門は慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で二十五歳で戦死し、法名を節義玄忠禅定門とする。尚辰は島津豊久に従って戦い、豊久戦死後に本城へ移り、寛永十五年正月十三日にわずか三人で米津へ至り、二月二十八日の島原で軍功を立てたと記す。後裔には傳左衛門尚堯、薬丸如水門下で示現流に関わり貞享五年六月十二日に能学寺で自殺した佐太右衛門尉、仁禮仁左衛門景治の二男である尚照らを掲げ、奉公・知行・戦死・養子の由緒を伝える。
天文7年、天正7年、慶長5年、承応3年、万治2年12月、天和3年7月18日、宝永2年、正徳5年、享保13年7月1日、元文元年10月2日、文化2年ほか / 冊子 293~296頁/原整理番号 114
上祖不詳で直重の裔族とする三原藤次流の系図。三原藤次は日新公に仕え、天文七年、日新公と島津実久の抗争時に加世田城で戦死し、その後の伊豆守は貴久公の納殿役を務めた。重長は貴久公の御荷内役・御納戸奉行を経て本府へ移り、牛根地頭職と三百石を与えられ、天正七年に家久が佐土原へ移封されると家久の家臣・家老となった。重長の二子は一人が山田城で、藤七が慶長五年に豊久へ従って関ヶ原で戦死したため、垂水の川崎内膳良光の嫡子・重正を後嗣に迎えた。重吉は山奉行となり万治二年に二百九石を知行し、般若院行者堂造営では普請奉行を務め、重時は御納戸奉行・物奉行、重矩(後の経明)は高奉行・御普請奉行寄役・小番を歴任した。後代は重共・経儔・経福・経豊・経載へ続き、児玉家への養子、長崎・入江・児玉各家との婚姻、出生・初見・分家時の四十八石などを記す。
慶長5年(1600)の記事(作成年不詳) / 冊子 363頁/原整理番号 164
羽島太郎次郎が『末吉衆中根元記』に記した家の由緒。祖父が川内山田から高山へ移り、さらに慶長五年に末吉へ移住して、地頭村田雅楽助入道に付いて奉公した経緯を述べる。作成年月日は記されず、慶長五年の移住を回顧する記事である。
正応元年(1288)~貞享2年(1685)の記事 / 冊子 390~398頁/原整理番号 4
後醍醐天皇を後宇多天皇の第二皇子として掲げ、護良・成良・恒良・尊良・宗良・懐良ら諸親王、後村上・長慶・後亀山の南朝皇統と諸王・法親王の系線を示す長大な正統系図。懐良親王については征西将軍として肥後菊池氏に迎えられ、菊池武光・武政らと大友・少弐勢を破り、大宰府を約九年間掌握したこと、明の返簡で『日本国王良懐』と記されたこと、今川了俊の九州下向後に退勢となり八代郡小野郷で没したことを詳記する。系図はさらに懐良親王の後裔とされる肥後系へ続き、相良義陽のもとで佐敷・八代方面に軍功を重ねた宗重、佐々成政の肥後統治と国人一揆、島津方への帰属、庄内合戦への出陣、慶長五年の濃州関ヶ原出陣と敗走・帰国などを、首級数・負傷・恩賞・居所とともに記録する。宗恒・頼浜・義信以下の子孫についても、肥後・薩摩での奉公、寺社への安置・葬地、出生・没年・養子関係・役職を貞享年間まで記す。末尾は村里の旧記や家伝、伊地知重英・良政の書中などを参照した旨を述べ、後醍醐天皇・皇后・征西将軍宮の霊牌と懐良親王の花押を臨写して備考とする。
年月日未詳 / 冊子 57~58頁/原整理番号 288
末吉衆中根元記から、羽島太郎次郎の祖父が川内山田から高山へ移り、慶長五年に末吉へ移住して地頭村田雅楽入道に付属した経緯を抄出し、羽島周防助以下の系譜注記を付した記録。
年月日未詳 / 冊子 168~169頁/原整理番号 512
高尾野の肝付伴右衛門家系図。肝付如心入道(右近藤左衛門、実名不詳)は慶長五年に帖佐から出水へ召し移され、高尾野城地頭宮原秋扇(景晴)の談合衆として徳永・樅所らと旧高尾野城内へ移住して奉公したという。以下、兼盛・兼行・兼平・兼経らの分岐、養子、母方、婚姻を列記する。
目録年月日記載なし / 冊子 307頁/原整理番号 10
「鶴岡八幡神主大伴左衛門家蔵日記」は、慶長五年六月二十八日、藤沢宿からの行程で、頼朝の屋形跡を見分したとする記事を抄出する。社中唐門・法華堂前などの地名を挙げ、鎌倉に伝わる忠久公屋敷跡の位置を考える。
慶長五年十二月二日 / 冊子 719頁
薩摩国祁答院の山崎村、指宿十九町の浦之門・尾辻之門・下吹越之門内を、合計千石余の加増として島津忠長へ与える目録。鎌田政近・比志島国貞・平田増宗が連署する。
慶長五年十二月五日 / 冊子 720頁
平田宗敏と村田経永が、島津義久(龍伯)・惟新(義弘)・少将(忠恒)に異心なく奉公すること、親類に逆心者がいれば直ちに言上すること、自身が讒言を受けた際は糺明に従うことを誓った連署起請文。
慶長五年十二月 / 冊子 720-721頁
伊集院久信(元巣)が、島津義久(龍伯)・惟新(義弘)・少将(忠恒)への忠節を誓い、高麗出陣時に義弘への申告をめぐって壱岐と血判の盟約を結んだとの風聞を否定する。親子・親類・他人を問わず逆心や不正を知れば言上し、隠蔽しないことも誓約する。
慶長五年十二月八日 / 冊子 721頁
島津義弘(惟新)が、大少路村内の籾五石を従来どおり他と混同せず、泰平寺へ寄進する旨を認めた寄進状。
慶長五年十二月八日 / 冊子 721頁
島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署し、合計二百四十石を加増分の知行として長谷場越前守に宛行うことを認めた宛行状。
慶長五年十二月十一日 / 冊子 722-723頁
伊勢貞成が、大隅国菱刈横邊村内の田畠について、地名・面積・分米や耕作者を列記し、合計分米・大豆三十石を本田勝次郎の領知として示した目録。
慶長五年十二月十八日 / 冊子 724-725頁
日向国諸県郡志布志安楽村内の勢園之門・江園門などの土地と石高を列記し、合計二十六石二斗を加増として宛行う目録。島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署する。
(慶長五年) / 冊子 726-727頁
島津義弘(惟新)が、上方との交渉に赴く使者へ示した条書。従前の談合を違えず忠節を尽くすこと、京都・大坂での奉公や召喚に慎重に対応すること、井伊直政・山口直友らとの折衝内容を正確に報告することなどを指示する。
(慶長五年) / 冊子 727-728頁
本田助允が十二月二十六日に大坂を出船し、翌日、日向国美々津へ到着したことを報じる案文。井伊直政・山口直友の使者下向、薩摩・大隅の安堵に向けた京都からの返事、龍伯(島津義久)の上洛や使者派遣の準備を伝える。
(慶長五年) / 冊子 729-730頁
島津義弘(惟新)が忠恒に示した領内統制の条書。出水で衆中を召集して周知し、家臣の出仕・番普請を励行する一方、大酒、党派的結合、私怨、一向宗の虚偽起請、喧嘩口論、情報漏洩、不義などを禁じ、風聞は役人へ速やかに届けるよう命じる。
(慶長五年頃) / 冊子 730頁
伊集院久信(元巣)が島津義久(龍伯)・義弘・忠恒への忠節を誓い、高麗出陣時に壱岐と血判の盟約を結んだとの風聞を否定した起請文。本箇所はNo.1416と同文のため本文が省略される。