姫木忠通寄進状
応永十二年十二月十五日 / 冊子 217頁
姫木右馬助大中臣忠通□□が祈祷のため、桑東郷内澤津水口二反を守公神へ永代寄進し、忠通一類が違乱しないこと、毎年の御年貢を未進なく納めること、無沙汰の場合は寄進状に任せて沙汰を受けることを定めた寄進状。本文中の四角枠は原資料自体の空格として保持し、推測補完しない。
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応永十二年十二月十五日 / 冊子 217頁
姫木右馬助大中臣忠通□□が祈祷のため、桑東郷内澤津水口二反を守公神へ永代寄進し、忠通一類が違乱しないこと、毎年の御年貢を未進なく納めること、無沙汰の場合は寄進状に任せて沙汰を受けることを定めた寄進状。本文中の四角枠は原資料自体の空格として保持し、推測補完しない。
(寛永十二年)八月廿八日 / 冊子 492~493頁
川上忠通が琉球側へ、幕府から頂戴した琉球高十二万三千七百石の朱印写しと目録を送り、琉球からの銀流出、対唐貿易の決済、年貢・産物の納付などに関する取扱いを条書で示したもの。
年月日未詳 / 冊子 149~150頁
応永元年、今川貞兼が都城方面を攻めたため、島津元久が北郷讃久方を救援した経過を記す国史記事。梶山・三俣・野々美谷・高城などで和田・高木氏らと交戦し、北郷久秀・忠通らが戦死した。伊地知又七郎や山田聖栄の記録も踏まえ、攻略後の城・領地処置までを追う。
年月日未詳 / 冊子 153頁
北郷久秀譜として、応永元年に今川貞兼方が梶山城を襲い、島津元久が救援に赴いたが御方が難儀し、北郷忠通が二月十七日、久秀が三月七日に戦死したこと、その夜に野々三谷城を攻略した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 153頁
北郷義久を祖として、子の久秀(藤次郎)・忠通(又次郎)・知久(中務少輔)を示す北郷氏の系図。
年月日未詳 / 冊子 153頁
北郷知久譜として、知久が当初出家を志して寺で喝食となったが、応永元年の梶山合戦で兄久秀・忠通が戦死したため、島津元久の養子となり加冠・命名を受け、宝刀鵜戸丸を拝領して家を継いだ経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 153頁
殉国者の記事として、明徳五年二月十七日の北郷忠通と三月七日の北郷久秀の戦死を掲げ、今川貞兼方による梶山城攻撃との関係や異説を注記する。
元亀三年~天正年間 / 冊子 319~320頁
禰寝・肝付・伊地知方が島津氏に従わなかったため、島津軍が下大隅へ渡り早崎を陣として小浜城を攻め、前陣と号したことを記す。のち禰寝重長が島津方へ出頭すると伊東・肝付・伊地知勢が禰寝麓を攻め、喜入季久が迎撃したが、弟忠通・久績以下十余人が戦死した。最終的に肝付・伊地知も帰順し、伊地知氏には下城一所が与えられ鹿児島に在住した。
天正二年正月十九日 / 冊子 327頁
天正二年正月十九日の禰寝方面の合戦で戦死した喜入季久の弟忠通・久績と、季久配下の武士らを列挙する。地下・足軽を含めて十五人が戦死したとする。
元和八年五月廿五日 / 冊子 780~782頁
『山何』を賦題として、島津家久をはじめ重長・重種・宗可・喜庵・貞守・紹嘉・宗繁・祐昌・忠通・重商らが、春秋の景、月、花、旅、山里、海などを詠み継いだ長編の連歌。
年月日未詳 / 冊子 211頁
家久が国内にない品を明国から求めるため銀百貫目余を琉球へ渡し、川上又左衛門忠通を奉行として派遣した。忠通が現地で便宜よく任務を果たした功により知行百石を与えられ、琉球在番奉行はこの時に始まったと記す。
(寛永八年)五月九日 / 冊子 211~213頁
琉球・唐との取引奉行を務めた川上忠通と、航海中に公銀を救出した町田勘解由へ各知行百石を加増し、留守奥方に勤める東郷肥前守へ年米三十石を与えるよう伝える。父子で奉公する家々への扶持、上知行に伴う知行米半減の共通扱いも指示した伊勢貞昌の書状。
年月日未詳 / 冊子 517頁
山田氏十二代久武が永禄三年正月二十四日に生まれ、山田忠時に家統を継ぐ子がなかったため猶子となったこと、実父は上総介忠通であることを記した系譜。
年月日未詳 / 冊子 158頁
島津元久譜として、梶山で兄二人を失い寺で喝食となっていた北郷知久を還俗させ、加冠・命名して宝刀鵜戸丸を与え北郷家を継がせたこと、応永十七年に将軍足利義持から中務少輔に任じられたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 852頁
天文十七年、日州飫肥・清水・新納新山城などで戦死した島津方の武士を日付と戦場別に列記する。
年月日未詳 / 冊子 97~100頁
寛永六年六月二十二日、島津家久らが催した懐旧連歌。涼しさ、露、月、雪、松、旅、別れ、無常、四季の景物などを詠み継ぎ、各句に作者名を付して長い連歌一巻を構成する。
年月日未詳 / 冊子 606~608頁
新納忠泰の四男孝時を祖とする支流系図。市来城退去後に日新公から日置九十町を提示されても二君に仕えるのは士道に反すると辞退した忠苗の逸話、清水・馬越での戦死、忠成以下の生没年・母方・養子関係を記す。
延享元年十二月六日 / 冊子 785頁/整理ID 2054
継豊の弟忠通は安之助と称し、延享元年十二月六日に近藤嘉包の娘を母として生まれた。後に禰寝孫左衛門清香の養子となり小松を名乗り、宝暦六年二月二十一日に禰寝家を離れ、島津因幡忠郷の後嗣となったことまで系譜的に記す。
宝暦十年日付不記(祭文) / 冊子 803頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2444
島津因幡忠通が継豊を悼んで献じた祭文で、隠居後の病が治らず九月二十日に亡くなり、月初四日に仏教の葬儀を営んだことを述べる。継豊の魂が苦しみを離れて安らかな境地へ至るよう願い、君臣の礼と同根に生まれた親愛の情を記す。領地の光臺寺の僧を招き、福昌寺で供物と祭文を捧げる。韻文では三州統治や遠方まで及んだ威徳をたたえ、香を焚いて亡き主君を悼む。
年月日未詳 / 冊子 478頁/原整理番号 79
川上忠通の譜。島津家久夫人が国分へ隠居した際、家中の重要文書が譲られていなかったため、忠通が使者として国分へ赴き、譲渡された文書を持ち帰って賞された経緯を記す。川上七郎次郎文書の一通。
天正二年正月三日~廿七日 / 冊子 333頁
天正二年正月三日の茶園ヶ尾合戦、牛根城切岸の掘削と開城、同十九日の禰寝方面の戦闘を詳述する。家久・忠長らの追撃、霧島山神火の瑞兆、喜入季久の奮戦と弟二人の戦死、人質交換、新納忠元の入城を記し、切岸を掘り抜いた三名の働きを高く評価する。
慶長七年四月廿六日 / 冊子 813-814頁
恒吉八幡宮への法楽和歌。首夏風・早苗・村雨・夏月・夕立・旅恋・後朝恋などの題で、島津家臣らが初夏の景物や恋情を詠み連ねる。
慶長十一年三月四日 / 冊子 59~61頁
慶長十一年三月四日に催された『詠花有喜色』を題とする和歌会の詠草。島津義久・義弘をはじめ家臣や僧侶らが、春の花の色、霞、雪、風、長閑さなどを詠み交わした。
慶長十二年六月十八日 / 冊子 118~121頁
慶長十二年六月十八日、平松真岳寺で催された懐旧連歌。夏から秋・冬へ移る季節、月、風、雲、旅、故郷などを題材に、龍伯・義久をはじめ多数が付句を重ねる。
慶長十五年十月廿二日 / 冊子 301頁
慶長十五年十月二十二日、島津義久(龍伯)が小根占の園林寺を訪れた際の詠草。詠歌御短冊と供衆の短冊を収め、松杉、古寺、岩根の水、冬木などを題に、龍伯ほか六名の歌を載せる。
延享二年正月廿五日 / 冊子 794頁/整理ID 2080
継豊は、安之助が禰寝家の猶子となったことに伴い、本家の小松の称号を用いるよう命じた。以後も嫡子が代々小松と称することを許可する。No.2054の忠通の系譜記事に記される小松家継承に対応する。
年月日未詳 / 冊子 278~282頁/原整理番号 11
近衛家の系図を、藤原忠実・忠通から基実・基房・兼実らの分流に沿って掲げる。各人の摂政・関白などの官職、法名、没年、姻戚、寺院との関係を付記し、一乗院・近衛家の荘園領有をたどるための資料とする。
年月日未詳 / 冊子 244~245頁/原整理番号 191
寛永十三年三月八日、永春(竪野殿也)が種子島に着き、警固されたことを記す。同年三月二十五日、猿渡嘉左衛門・湯地嘉兵衛に上下人数十人が差し下され、本尊を踏ませたとある。川上又左衛門(忠通)が下島し、永俊を崇敬したことも記す。
年月日未詳 / 冊子 356頁/原整理番号 328
川上久国が肥前島原一揆へ赴く際、病中の島津家久から医師同行を命じられたとの旧伝を載せる。伊地知季安は久国を川上忠通と同一人とする旧説を誤りとし、当時の官途名を根拠に訂正する。
桓武天皇代~近世の記事 / 冊子 403~409頁/原整理番号 5
桓武天皇から葛原親王・高見王・高望王を経る桓武平氏の系線を起点に、良文流、千葉氏・村岡氏などの分岐を示し、秩父武基・武綱から畠山重忠とその後裔へ続ける略系図。武綱が源義家の奥州征討に従って白旗を賜ったこと、重忠が源頼朝の挙兵以来諸戦に功を立てながら北条時政の後妻牧御方の讒言により武蔵国二俣川で一族・百五十余騎と討死したこと、その子孫が畠山・横瀬・長野・本田などへ分かれたことを注記する。後半は子孫とされる季随・貞久以下の鎮西下向と島津氏への奉公を詳述し、合戦で島津氏久を救って博多林香庵に匿し、扁舟で本国へ帰した忠功、薩摩・日向での地頭職・戦死・法号、婚姻・養子・改名を季弘・季豊ら近世の代まで記す。皇胤から東国武士、さらに九州の島津家臣へ接続する家伝的系譜で、重忠の悲劇と島津氏久救出譚を中心的逸話とする。
年月日未詳 / 冊子 495~497頁/原整理番号 7-1
島津忠久系図に挿入された頼政卿集の歌と惟宗廣言の考証。頼政と丹後内侍が、昇殿を許されない身を嘆き、宮廷や大内山の月に託して贈答した和歌を引用する。後白河法皇・高倉王・八條女院などの親族関係を記したうえで、廣言の生年、官歴、日向守・島津庄との関係を諸書で検討する。玉海などによる丹後内侍の出産記事と、廣言が西国へ移って住吉で出産したとする説を組み合わせ、出生時の夜の雨と狐火を記す。これを忠久の住吉出生・三郎の呼称に結びつけ、高倉王の子とする説を論じる。本文・割注では母方、出生年、年齢、廣言・基言などの異名と著作の帰属を比較し、刊本の誤りや他の系図との不一致を指摘する。
延享二年七月二十八日 / 冊子 817頁/整理ID 2154
七月二十八日、継豊が上使興津帯刀忠通を介して御鷹所で搏撃した雲雀を賜った記事。継豊は病気のため島津但馬守忠就が代わって執政各邸へ謝礼に赴いた。