島津忠直譜
年月日未詳 / 冊子 960頁
島津忠直譜は、兄豊久が戦死して継子がなかったため、慶長九年に忠直が太守の命で後嗣となったと記す。しかし病で狂心となり、長女を喜入摂津守の長子へ嫁がせて兄の家を継がせ、自身は千石を領して三代堂村に隠居した。
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年月日未詳 / 冊子 960頁
島津忠直譜は、兄豊久が戦死して継子がなかったため、慶長九年に忠直が太守の命で後嗣となったと記す。しかし病で狂心となり、長女を喜入摂津守の長子へ嫁がせて兄の家を継がせ、自身は千石を領して三代堂村に隠居した。
年月日未詳 / 冊子 752頁
朝鮮の唐島で、東郷重虎が島津義弘の命により東郷姓を離れ、旧来の鳴津氏へ復したうえで忠直と改名したことを記す。 在陣中に行われた家名復帰と改名の経緯を示し、主君の命令が家臣の姓・名に及んだことが分かる譜記事。
年月日未詳 / 冊子 655頁
家久の病気により久志本式部少輔が鹿児島へ下向したこと、その時北郷忠直は江戸に在府しており、家久から忠直へ書状が与えられたことを記す記事。続けてNo.1040の書状を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 677頁
寛永十四年七月に北郷忠直が帰国し、家久が忠直宅へ移って養生するため造営・修補が行われたことを記す。家久は見舞いを喜び、仮屋を新築して近日移る予定であり、北郷次右衛門を庄内へ遣わして普請を相談させると忠直へ伝えた。
年月日未詳 / 冊子 14頁
『殉国名藪』から、延文四年十月五日、佐多左馬助忠直が相良氏の軍との戦いに従ったこと、佐多彦四郎・佐多三郎四郎らの名が続くこと、向江孫太郎と久木崎丹後が同時に戦死したことを記した記事。
年月日未詳 / 冊子 16頁
延文四年十月五日、島津氏久方が日向南郷へ進軍中に敗北した経過を記す譜記事。国合の戦いで佐多左馬助忠直・彦四郎・三郎四郎ら兄弟が戦死し、氏久は岩川・蓬原・救仁郷へ移動した。各地で援軍を求めながら安全な退路を探り、敗軍を収拾しようとした状況を伝える。
年月日未詳 / 冊子 16~17頁
佐多氏の譜として、忠直が延文四年十月五日に島津氏久に従って日向南郷国合で戦死したこと、弟の彦四郎・三郎四郎も同時または知らせを聞いて敵陣へ馳せ入り戦死したことを記す。家の重宝・爪切丸大刀が敵に奪われたとも伝える。
年月日未詳 / 冊子 175頁
佐多氏譜の記事として、武義が文和四年に生まれ、父忠直の戦死後に叔父備前守の養育で家督を継いだこと、禰寝氏に奪われた佐多城について応永四年に渋川満頼から安堵を受けたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 541~542頁
種子島氏家臣知覧氏の系図記事。島津久逸方の戦い、島津忠朝と新納忠武の関係を述べ、加治木大和守が帖佐城を奪取すると島津忠昌が加治木を攻めた経過を記す。降伏後の阿多移封までを追い、園田新右衛門・川山忠直ら知覧氏関係者の軍歴と所領移動を示す。
年月日未詳 / 冊子 669頁
川上氏支流について、忠直・忠真・八郎三郎・筑前守らの系統、名乗りや続柄を列記した系図記事。
年月日未詳 / 冊子 839頁
天文十六年、伊東勢が飫肥本城・新城を攻め、北郷忠直らが戦死し、攻防の末に新城が陥落した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 840頁
天文十六年、北郷忠直が飫肥南郷新城へ移り、伊東勢の攻撃を受けて戦死したのち、北郷方が新城をめぐって戦った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 845~846頁
天文十六年、飫肥・清水城などの戦闘で討死した北郷忠直ら島津方の武士を日付・戦場とともに列記する。
年月日未詳 / 冊子 846頁
天文十六年、伊東義祐方と北郷忠直・源七郎方が日向山東、清水城、姫木城などをめぐって戦った経過を記す。各城への攻撃・救援、北郷方と本田董親らの進退、諸将の討死を追い、城の帰属変化と敗兵の退却までをまとめる。
年月日未詳 / 冊子 695頁
西川氏の伊勢守忠直が天正九年八月二十日、肥後国水俣の戦いで四十四歳にして戦死したと記す系図記事。この時、藤川高兵衛尉・石塚八左衛門尉・八郎右衛門も戦死した。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
三月二十九日、家光が家久嫡子又三郎忠元の四月一日元服を命じたことを記す。元服当日、又三郎は松平姓と光久の名を賜り薩摩守・侍従従四位下となり、家久は大隅守、忠直は式部大輔、忠紀は玄蕃頭となった。献上・拝領、酒宴、西丸で秀忠から刀剣を賜った経過も詳記する。
年月日未詳 / 冊子 199頁
光久元服の日に将軍家光と大御所秀忠から家久父子へ下賜された刀剣の目録。家光から光包の脇指・守家・包永・元重の刀、秀忠から左文字の脇指・刀、国綱・長光の刀が、それぞれ家久・光久・忠直・忠紀へ与えられたことを列記する。
(寛永八年)四月三日 / 冊子 202~203頁
光久の元服が前年から延期されていたが、大御所秀忠の内意により四月一日に江戸城本丸で実現したと報告する。光久が薩摩守・四位侍従、家久が大隅守、忠直が式部大輔、忠紀が玄蕃頭となり、刀剣を拝領した慶事を国元へ知らせた連署書状。
年月日未詳 / 冊子 215~216頁
五月二十四日、家光が土井利勝を介して家久に黄金・屏風・衣服・絹、忠直と忠紀に白銀・衣服を与え、御前で三人に馬も下賜した。六月二日に家久・忠直・忠紀が江戸を発ち、七月五日に鹿児島城へ入り、久通も供奉し、家久が江戸へ無事到着の謝使を送ったことを記す。
(寛永八年)六月八日 / 冊子 216頁
雨で道が悪い中を忠直・忠紀と無事に進み、伏見では滞在せず船に乗る予定を伝える。海上も穏やかだろうと安心させ、妹の病気を案じつつ、兄弟そろって暇を得て帰国できる喜びを記した家久の仮名書状。
年月日未詳 / 冊子 473頁
寛永十二年二月十二日、伏見にいた島津家久のもとへ島津又八郎忠平・北郷式部大輔忠直が使者として赴き、島津光久と嫡孫虎寿丸の疱瘡快癒を祝賀・報告したことを記す記事。久元の書状も持参し、伊勢貞昌が披見後に国元の同職へ返書を送った。
二月十三日 / 冊子 313~314頁
細川忠利が島津家久に、越前宰相松平忠直をめぐる江戸の情勢を報じる。忠直は病気と称して江戸下向を延期したが、国政を意のままにし、甚だしく酔狂であるとの風聞が幕府の不興を招いた。側近の若者らは、忠直が江戸へ下れば自分たちが処罰されると恐れ、種々申し立てて引き留めたという。将軍徳川秀忠は近藤縫殿助を見舞いに遣わしたが、近藤は帰途、大磯で落馬死した。忠利は、忠直の行動を天下への企てではなく「気の違い」とみなし、直ちに軍勢が派遣される様子はないが、いずれ江戸へ召し寄せられるだろうと推測する。また、有馬氏との境界争いでは島津側が紛争の火元とならず、絵図を添えて幕閣へ申し出るよう助言し、江戸城本丸普請の進捗も伝える。
(元和八年)十一月十一日 / 冊子 785~786頁
伊勢貞昌・島津久元が江戸の情勢を報じ、将軍の新城移徙後も下々の風説や武具調達の動きがあること、家久の早い江戸到着を待つことを伝えた。また本多正純の宇都宮城が奥平忠昌に与えられ、永井右近に二万石が加増されたこと、越前宰相・紀伊中納言の病状などを知らせた連署書状。
(寛永八年)三月廿八日 / 冊子 196~197頁
相手の体調がまだ十分でないことを案じ、検校に祈念を頼み、薬と併せて回復を祈る。又三郎・又十郎・越後守の任官が決まったこと、まもなく暇を得て帰国する見込みも伝えた島津家久の仮名書状案。
年月日未詳 / 冊子 227頁
寛永八年六月、家久が二人の公子を伴って江戸から帰国した際、児玉利昌が随行した。六月二日に江戸を発ち、七月五日に鹿児島城へ到着したことを記す児玉利昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 600~603頁
新納実久の庶長子久吉を祖とする大崎流の系図。久吉が父命で大崎城へ入ったこと、忠秀の三俣小山戦死、志布志落城後の北郷氏臣従、久綱の朝鮮渡海中の戦死などを記す。
天正十二年三月九日~二十四日 / 冊子 868~870頁
島津義久が薩摩・大隅・日向の軍勢を率いて三月九日に出陣し、十六日に佐敷へ着陣した。義弘・歳久や相良氏と会合後、家久を大将として豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を有馬勢千五百と合流させ、深江・安徳を経て島原へ進軍させた。三月二十四日、龍造寺隆信の大軍を迎え、家久の決死の督励のもと川上忠堅らが隆信を討ち取り、敵首三千余を得た。義久は佐敷で戦勝報告を待った。
天正十二年三月二十四日 / 冊子 870頁
有馬鎮貴が龍造寺隆信に圧迫されて義久へ救援を求めたため、彰久は家久を大将とする豊久・忠直ら三千の軍に加わった。島原で龍造寺勢と戦い、軍功を挙げた。
天正十二年三月二十四日~二十七日 / 冊子 870~871頁
龍造寺隆信に三年にわたり圧迫された有馬氏を救うため、家久は豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を率い、有馬勢と合わせ三千で深江・安徳を経て島原へ進んだ。三月二十四日、数万の龍造寺軍を前に家久が決死の覚悟を説いて奮戦し、隆信を討ち取って敵首三千余を得た。豊久も強敵を討ち、家久は江里口正右衛門を討った。隆信の首は二十七日に佐敷で義久の実検を受けた。
(寛永八年)四月廿九日 / 冊子 208~209頁
先に相談された一件について最上土佐守へ申し入れたが確答がなく、康心へ善鏡坊を介して内談し、和解・合点に向けて調整するよう勧める。追而書では家久・光久兄弟と忠直・忠紀の受領・任官を祝し、祝儀の様子にも触れる。
建仁三年五月廿七日 / 冊子 98頁
薩摩郡司平忠直が七男亀童丸へ所領・職掌を譲った譲状。薩摩郡内の四至を東の田畔、南の河、西山際、北の湯谷などで示し、寺社奉仕と所務を亀童丸および子孫へ継承させ、他の子孫による綺いを禁じる。
年月日未詳 / 冊子 213頁
忠直を三郎左衛門尉・掃部助とし、甲斐国波加利新庄に住したこと、建長四年四月十三日の幕府御格子上下の供奉人数に加わったことを記す島津忠直系の記事。
年月日未詳 / 冊子 790-791頁
和泉忠直(初名忠頼、又八郎右衛門兵衛尉)が、足利尊氏方として高師直兄弟と行動し、軍事奉公に忠信を尽くした由緒を記す。中務兵寮力因を経て和泉右衛門兵衛尉を称し、島津一門に列したとする譜記事。
年月日未詳 / 冊子 822頁
和泉忠直が谷山郡司平忠高追討のため波平へ進み、鹿児島の兵粮・通路・警固を整えたのち、青屋松原で敵と交戦した経過を詳述する。忠直方は松原で待伏せを受けながら速やかに隊列を整えて勝利し、敗走する敵を追撃した。
年月日未詳 / 冊子 822頁
和泉忠直がのちに征西将軍宮方に属し、豊後国で没したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 810頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2132
忠将一流系図に、忠直は虎安丸・又四郎・玄蕃と称し、元禄元年四月五日に武州芝邸で誕生、母は江田五兵衛国重入道道用の女、綱貴の三男と記す。同五年十月十六日に無後嗣の久治の養子となったという記載に、実は島津玄蕃久憲の養子であるとの訂注がある。正徳元年六月二十五日卒、法名静海即福とする。
宝永元年六月二十六日 / 冊子 486–487頁/整理ID 1701
島津忠直が島津綱貴へ、匠作島津吉貴が先月十四日に国元への暇を首尾よく拝領し、同二十一日に出発したと聞いたことを喜び、祝意を述べた書状。
年月日未詳 / 冊子 520–521頁/整理ID 1797
島津忠直が主君綱貴へ献じた祭文。綱貴が政務に尽くしたこと、武江の旅館で病没して遺骸が国元へ戻され、梵儀をもって葬られたことを述べ、威徳と家臣への慈愛をたたえて哀悼する。
十一月四日 / 冊子 621頁/整理ID 2121
土屋伊賀守忠直・松平右京大夫輝貞が松平薩摩守島津吉貴へ、公方が八月二十二日に増上寺の桂昌院廟所へ参詣し、同二十四日に大納言が仏参したとの報告を承知して喜びを述べた連署書状。書面の趣旨を受け取ったと返答した。
十一月六日 / 冊子 622頁/整理ID 2124
土屋伊賀守忠直・松平右京大夫輝貞が松平薩摩守島津吉貴へ、徳川内蔵頭の死去に対する言葉に尽くせない弔意を承知し、書面の趣旨を受け取ったと返答した連署書状。
十一月十四日 / 冊子 624頁/整理ID 2133
土屋伊賀守忠直・松平右京大夫輝貞が松平薩摩守島津吉貴へ、吉貴が尋ねた公方と大納言の機嫌はともに安泰であるため安心するよう伝え、書面の趣旨を承知したと返答した連署書状。
延享二年十月二日 / 冊子 830頁/整理ID 2200
継豊が代替わりの初祝儀として使者を立て、太刀と馬代を献じたことを西尾隠岐守忠直が承知したと返答する。No.2199と同日・同宛先だが、こちらは西尾忠直の返書で、本文に馬代とある。
延享二年十月五日 / 冊子 833頁/整理ID 2211
吉貴が吉宗の隠居を祝って使者を遣わし、目録記載の品を献じたことにつき、西尾隠岐守忠直がその趣旨を承知したと返す。No.2210の酒井忠知返書と同じ祝いだが、差出人が異なる。
延享二年十月五日 / 冊子 833頁/整理ID 2213
継豊が吉宗の隠居を祝って使者と目録の品を献じたことを、西尾隠岐守忠直が承知したと返す。No.2212と同じ継豊宛の隠居祝いに対する別の返書である。
延享二年十月五日 / 冊子 833頁/整理ID 2214
宗信が吉宗の隠居を祝って使者を遣わし、目録記載の品を献じた。西尾隠岐守忠直はその旨を承知したと薩摩守宛に返す。No.2215は同日の酒井忠知返書。
延享二年十一月七日 / 冊子 839頁/整理ID 2237
吉貴が三御所の健勝と公方の政務、大御所の隠居儀礼を喜び、使者を通じて知らせた。西尾隠岐守忠直はその旨を承知し、書面の趣旨を伝えたと返答する。No.2236・2238と同日・同宛先で差出人が異なる。
延享二年十一月七日 / 冊子 840頁/整理ID 2240
宗信が三御所の健勝、公方の政務、大御所の隠居儀礼を喜び、使者から書状を届けた。西尾隠岐守忠直はその旨を承り、使者の話と紙面の趣旨を上へ伝えたと返す。No.2239と同日・同宛先で差出人が異なる。
延享二年十一月廿八日 / 冊子 849頁/整理ID 2263
宗信が三御所の健勝と九月廿五日の大御所の移徙を喜び、使者から伝えた。西尾隠岐守忠直はその旨を承知し、紙面と使者の趣旨を伝えたと返答する。No.2262・2264と同じ祝意に対し、差出人が異なる。
延享二年十二月朔日 / 冊子 852頁/整理ID 2270
宗信の使者は三御所の健勝を祝い、右衛門督家の御簾中の安産を喜ぶ意を伝えた。西尾隠岐守忠直は祝意を承り、紙面の趣旨を上へ伝えたと返答する。No.2269と同じ話題だが差出人が異なる。
延享二年十二月二日 / 冊子 853頁/整理ID 2274
宗信は三御所の健勝を喜び、十月三日の御曲輪内出火を聞いて早速使者を差し出した。西尾隠岐守忠直はその配慮を承り、祝意と安否伺いを伝えたと返す。No.2273・2275と同件で差出人が異なる。