島津家久書状案
(慶長十五年八月十二日) / 冊子 288頁
慶長十五年八月十二日、島津家久が寺沢忠成に、普請中の島津忠興へ人手を付け、親身に世話をしたことを謝した書状案。忠興は普請に不案内な田舎の若者であるとして、引き続きの助力を頼み、翌春の参上を約す。
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(慶長十五年八月十二日) / 冊子 288頁
慶長十五年八月十二日、島津家久が寺沢忠成に、普請中の島津忠興へ人手を付け、親身に世話をしたことを謝した書状案。忠興は普請に不案内な田舎の若者であるとして、引き続きの助力を頼み、翌春の参上を約す。
長禄四年十一月廿八日 / 冊子 440頁
佐多忠成が佐多又四郎へ、薩摩国南方で宿の手勢を率い、山田を平定した忠節を認め、恩賞を与える旨を伝えた証状。
慶長五年十月廿四日 / 冊子 601頁
板波忠成・内田実久が、従前どおり島津家の意向に背かず、長門守の妻子を惟新が召し連れて当地へ渡した厚意を忘れず、龍伯・惟新・少将以下へ疎略なく奉仕することを神仏に誓う。
年月日未詳 / 冊子 440頁
佐多氏譜から、忠成が又太郎・太郎左衛門尉・下野守と称し、嘉吉元年辛酉に生まれたことを記す短い系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 780頁
佐多忠成の名乗り・系譜と、明応七年の出生、天文八年秋に薩摩国市来で挙げた戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 912頁
島津忠将の一流系図として、右馬頭以久の出生、母が佐多上野守忠成の娘であることなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 90頁
町田氏十四代家督伊賀守久倍の二男である町田忠成が、島津貴久の命により島津忠将の家老となり、永禄四年七月十二日に廻の竹原山で戦死したことを記す系図記事。
永禄十年 / 冊子 161頁
寺山氏の一族・子女を記す系図。寺山直久の娘が肝付雅楽助の室となり、その母を島津中務太輔忠成の末女とすること、四郎左衛門入道定雲が永禄十年に猿渡休費の娘を母として生まれたことなどを載せる。
年月日未詳 / 冊子 286~287頁
島津家久譜の記事。島津右馬允忠興が尾州名古屋の普請に従事し、福島正則・寺沢忠成らから厚遇を受けたため、家久が両名へ書状を送り、その好意を謝したことを記す。
八月十二日 / 冊子 288頁
八月十二日、島津家久が島津忠興に、尾州名古屋普請の進捗を喜び、忠興を厚遇する福島正則・寺沢忠成への礼状を送ったと知らせた書状案。秋の普請で多忙なため返書が遅れたことも詫びる。
年月日未詳 / 冊子 606~608頁
新納忠泰の四男孝時を祖とする支流系図。市来城退去後に日新公から日置九十町を提示されても二君に仕えるのは士道に反すると辞退した忠苗の逸話、清水・馬越での戦死、忠成以下の生没年・母方・養子関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 609~611頁
新納忠泰の五男忠成を祖とする支流系図。志布志落城時の出奔、日向綾・大崎・帖佐・加治木への移住、惟新公の使役に奉仕した久行、長井氏・新納氏間の養子相続と復姓、後裔の生没年・婚姻を記す。
年月日未詳 / 冊子 616~620頁
新納忠親の三男久明を祖とする支流系図。串良・飫肥新山での戦死、島津豊後守・伊集院忠棟への奉公、日置氏からの養子相続、松山士として島津忠康に附属した忠成、時昭以下へ続く家系を記す。
年月日未詳 / 冊子 778~781頁
碇山伊久流から分かれた相馬氏系図。守護職継承をめぐる伊久・守久父子の対立と和睦、忠朝・義房以下の家系、忠長の還俗と山北一揆での溺死、伊忠の求麻・京都への流転と赤松満祐の乱での戦死、忠成が相馬郡にちなみ相馬を称した由来を記す。
年月日未詳 / 冊子 887頁
島津忠将の子・以久について、初名、官途・入道名、天文十九年の出生と母方を記した系図記事。
年月日未詳 / 冊子 888頁
島津忠興一流の兼盛について、初名・官途・入道名、天文十九年の出生と母方を記した系図記事。
文暦2年8月28日(1235) / 冊子 452~453頁/原整理番号 14-2
鎌倉幕府が、指宿平四郎忠秀とその親類・所従らの殺害事件および遺領争いを審理し、忠秀の弟・小次郎忠成と養子・平次郎重秀に、指宿郡司職、蕨野、九所大明神宮、秋富名の田畠・名主職等を各半分ずつ領知させた文暦二年八月二十八日付関東下知状。指宿郡地頭・豊後四郎左衛門尉忠綱は、殺害は自分の下知ではなく、下手人を六波羅へ差し出すか斬首したと弁明したが、忠綱が忠秀らの名田畠を取り上げて代官高四郎行重の子へ宛行ったとの申状が提出され、幕府は忠綱の陳詞を矯飾として所職を改補した。忠成は忠秀への奉公を理由に遺職を求め、重秀は養父忠秀の譲状を根拠に単独領有を主張したが、譲状の事情が不明で忠成の訴えも棄却できないとして二人へ折半し、忠秀の先例どおり地頭の所務に従うよう命じる。北条泰時・時房が連署し、本文後には忠連(初宗忠・郡司又次郎・法名賢成)の系線を続ける。
文政2年2月20日(年は朱書) / 冊子 549~550頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1663
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。歳暮の御内書を渡すので、明日五半時に御城へ家来を差し出すよう求める。文政二年の朱書、二月廿日、水野出羽守署、松平榮翁宛。忠成の傍注を伴う。本文の前半は前頁下段、登城指示と日付・署宛は次頁上段に続く。歳暮は用件名で、書状日付は翌年二月二十日である。家来による受取を求める案内で、本人登城や受取済みを直接報告する書状ではない。
文政2年6月3日(年は朱書) / 冊子 559頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1690
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。今朝献じられた魚品一箱(原字は鰑と読める)を披露したところ、一段の御仕合であると伝える。文政二年の朱書、六月三日、忠成判、松平榮翁宛。口裏に水野出羽守忠成とある旨の朱注を下段で採録する。本文・日付・署名と次段の宛名・口裏をつなぐ。数量は一箱、披露済みを記す書状である。魚品の品種同定は留保し、鰯・鯣など別の字へ無注で置き換えない。
文政2年7月6日(年は朱書) / 冊子 564頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1699
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。生見玉の祝儀として黄金十両が献じられ、披露したところ一段の御仕合であると伝える。文政二年の朱書、七月六日、忠成判、松平榮翁宛。口裏に水野出羽守忠成とある旨の朱注を伴う。名目は生見玉、贈品は黄金十両であり、五月の端午贈品や六月の御内書交付案内とは区別する。披露済みを知らせる書状で、贈品の追加数量や使者名は本文には示さない。
文政3年1月7日(年は朱書) / 冊子 572頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1723
前条と同じく若菜の祝儀として鯛一折が献じられ、披露したところ一段の御仕合であると伝える。朱書の文政三年、正月七日、忠成判、松平榮翁宛。口裏に水野出羽守忠成とある旨の朱注を伴う。同日の酒井忠進書状と同じ若菜祝儀に関する通知で、鯛一折の二通の記載を合算して二折とはしない。本文にない使者名や魚の尾数も補わない。
文政3年1月11日(年は朱書) / 冊子 572~573頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1725
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。年頭の祝儀として使者をもって太刀一腰・馬代黄金十両が献じられ、披露したところ一段の御仕合であると伝える。朱書の文政三年、正月十一日、忠成判、松平榮翁宛。口裏に水野出羽守忠成とある旨の朱注を伴う。年頭祝儀の披露済みを知らせる書状で、太刀は一腰、馬代は黄金十両と記す。正月七日の若菜祝儀の鯛一折とは名目・贈品・日付を分けて扱う。
文政4年2月25日(年は朱書) / 冊子 596~597頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1794
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。元姫君の婚礼の祝いとして目録の通り献上した件は披露を遂げたと榮翁へ伝え、一段の御仕合であると述べる。朱書に文政四年、二月廿五日付、忠成判、松平榮翁宛。宛名付近の右上裏との朱書に、水野出羽守忠成の名を記す。先頭頁の出典を次頁の本文へ接続して整理する。本文は祝いの献上と披露を通知するもので、個々の品名・数量、婚礼の相手や具体的な実施日は示さない。
文政5年3月9日(年は朱注) / 冊子 614頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1842
水野出羽守忠成から松平榮翁(島津重豪)への書状。今回の御臺様の位階昇進と御簾中の叙位の祝儀として、使者をもって樽肴を献上した件を披露したところ、一段の御仕合せであったと伝え、謹言で結ぶ。三月九日付で、文政五年は朱注。忠成の判があり、朱記「在口裏」に官名・実名を添え、正文在文庫の所在注を持つ。宛名は松平榮翁で、入力の松平薩摩守宛を訂正する。入力概要で落ちていた御簾中の叙位も記録する。本文に樽肴の数量や個別品名はなく、No.1841の二種・五百疋をこの書状へ移して補わない。
文政5年6月24日(年は朱注) / 冊子 617頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1854
水野出羽守から松平榮翁(島津重豪)への通知。端午の御内書を渡すので、家来を江戸城へ差し出すよう求め、以上で結ぶ。六月二十四日付で、文政五年は朱注。署名は水野出羽守の官名のみで、忠成の実名は目録題名による。重豪公御譜中に収め、正文は文庫にあるとの所在注を持つ。原本の宛名は松平榮翁であり、入力の松平薩摩守宛を訂正する。本文に明日などの登城日や時刻は記されないため補わず、御内書引渡しと家来登城の指示を記す通知として保持する。受領の実施や御内書本文も補わない。
文政5年7月6日(年は朱注) / 冊子 618頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1857
水野出羽守忠成から松平榮翁(島津重豪)への書状。生誕の御祝儀として黄金十両を献上した件を披露したところ、一段の御仕合せであったと伝え、謹言で結ぶ。原文の祝儀名は「生見玉」で、祝いの対象者の名は記されない。上段から下段へ本文・日付・署宛が続き、七月六日付で文政五年は朱注。忠成の判があり、水野出羽守忠成の官名・実名を添える。重豪公御譜中に収め、正文は文庫にあるとの所在注を持つ。宛名は松平榮翁で、入力の松平薩摩守宛を訂正する。黄金十両の明記は保持し、出生者や生年月日を他文書から補って確定しない。
文政6年12月18日(朱注) / 冊子 679頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1957
水野忠成が松平榮翁へ送った書状。今朝、鰹節一箱が献じられたことを披露し、結構な御仕合せであると伝える。朱書は文政六年十二月十八日。忠成判があり、口裏に水野出羽守忠成と松平榮翁の名がある。
文政7年2月20日(朱注) / 冊子 696頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1982
水野出羽守忠成が松平榮翁へ送った御内書の受取通知。歳暮の御内書を渡すため、翌日の五半時に家来を城へ差し出すよう求める。朱書は文政七年二月二十日で、水野出羽守の署名と松平榮翁の宛名がある。掲載するのは受渡しの知らせで、御内書そのものの文面は収めない。
文政8年3月21日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 726頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2052
水野出羽守忠成が松平榮翁へ、若君の御弘が仰せ出された祝儀として、使者を通じ献上された御太刀と御馬代を披露し、一段の御仕合であったと伝える書状。三月二十一日付、文政八年は朱注。口裏を次の片段まで確認し、旧文字層の忠精を忠成に訂正する。
文政9年7月6日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 757~758頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2126
水野出羽守忠成が松平榮翁へ、生見玉の祝儀として献上された黄金十両を披露し、一段の御仕合であったと伝える返書。七月六日付、文政九年は朱注。本文の生見玉という表記と黄金十両の数量を保持し、署判・口裏を次片段まで確認する。
文政10年閏6月3日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 770頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2173
水野出羽守忠成が松平榮翁へ、今朝献上された一箱の品を披露し、一段の御仕合であったと伝える返書。品名の魚偏字は鯣候補として留保する。閏六月三日付、文政十年は朱注。数量一箱と献上披露の方向を確認し、同日付でも各差出人の書状を別に整理する。
文政11年正月21日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 782頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2205
水野出羽守忠成が松平榮翁へ、若君の着袴の祝儀として使者を通じ目録どおり献上された品を披露し、一段の御仕合であったと伝える返書。正月二十一日付、文政十一年は朱注。署判・口裏・宛名を下段まで確認し、本文にない献上品の種類・数量や若君の実名を補わない。
文政11年2月26日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 784頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2211
水野出羽守が松平榮翁へ、歳暮の御内書を渡すので、明日五半時に城へ家来を差し出すよう知らせる書状。二月二十六日付、文政十一年は朱注。目録の水野忠成書状と本文の官途署名を照合し、五半時を現代時刻へ換算せず保持する。
文政11年4月15日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 786~787頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2217
水野出羽守忠成が松平榮翁へ、大納言様の元服・官位の祝儀として、使者を通じ献上された御太刀・御馬代を披露し、一段の御仕合であったと伝える返書。四月十五日付、文政十一年は朱注。太刀・馬代の数量を補わず、2216の記事と書状を分けて保持する。
文政12年7月6日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 811~812頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2291
水野出羽守忠成が松平榮翁へ、生見玉の祝儀として黄金十両を献上した件を披露したところ、一段の御仕合であったと伝える返書。七月六日付、文政十二年は朱注。祝儀名、黄金十両の数量、忠成の署判・口裏を保持する。
文政12年9月21日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 818頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2310
水野出羽守忠成が松平榮翁へ、大納言様の御宮参りが済んだ祝儀として、使者により目録どおりの品を献上した件を披露し、一段の御仕合であったと伝える返書。九月二十一日付、文政十二年は朱注。宮参り、使者、目録献上、忠成の署判・口裏を保持する。
文政12年10月22日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 820頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2315
水野出羽守忠成が松平榮翁へ、重陽の御内書を渡すため、翌日に家来を五半時に登城させるよう通知した書状。十月二十二日付、文政十二年は朱注。御内書受領の手続、登城日時、差出人を保持する。
文政12年11月28日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 820~821頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2317
水野出羽守忠成が松平榮翁へ、徳川家斉女で毛利斉広室の和姫の婚礼祝儀として、目録どおりの品を献上した件を披露し、一段の御仕合であったと伝える返書。十一月二十八日付、文政十二年は朱注。婚礼対象、献上、披露、日付・署判を保持する。
文政12年12月16日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 824頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2328
水野出羽守忠成が松平榮翁へ、同朝に鰹節一箱を献上した件を披露し、一段の御仕合であったと伝える返書。十二月十六日付、文政十二年は朱注。重豪公御譜中・正文在文庫の出典、品名・数量、披露、忠成の署判・口裏を保持する。
文政13年7月6日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 833頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2360
水野出羽守忠成が榮翁へ、生見玉の祝儀として黄金十両を献上した件を披露し、一段の御仕合であったと伝える返書。七月六日付、文政十三年は朱注。次項の水野忠邦書状と同趣旨でも、忠成署判の別書状である。
天保2年1月19日(本文) / 冊子 855頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2419
松平周防守康任・松平和泉守乗寛・水野出羽守忠成が松平榮翁へ、重豪の従四位から従三位への昇進に伴う仰付けと、位記などの儀式について知らせる連署状。正月十九日付で本文年次は天保二年。三名の署判と叙位の通知を保持する。
天保2年2月14日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 865頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2438
松平和泉守乗寛と水野出羽守忠成が松平榮翁へ、翌十五日に位階昇進の御礼を行うにつき、本人に代えて名代一人を五時に登城させるよう伝える連署状。二月十四日付、年次は朱注。名代一人と登城時刻を明示する。
天保2年6月15日(本文・朱注) / 冊子 883頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2474
水野出羽守忠成が松平榮翁へ送った六月十五日付書状。榮翁が当朝に鯛一箱を献上したため披露したところ、格別に結構な仕合せであったと伝える。忠成の判、在口裏の注、天保二年の朱注を伴う。入力表題の「害状」は原本と目録に基づき「書状」へ訂正する。
天保2年6月24日(本文・朱注) / 冊子 884頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2478
水野出羽守忠成が松平榮翁へ送った六月二十四日付書状。端午の御内書を渡すため、翌日の五半時に家来を城へ差し出すよう通知する。天保二年の朱注を伴う。入力表題の「主回状」は原本と目録に基づき「書状」へ訂正する。
天保3年1月7日(本文・朱注) / 冊子 895頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2510
水野出羽守忠成が松平榮翁こと島津重豪へ送った若菜祝儀の返書。重豪から鯛一折が献上され、披露したところ喜ばれたことを伝える。正月七日付で忠成の判を伴い、口裏にも水野出羽守忠成と記す。年次は朱注の天保三年、出典は重豪公御譜中、正文は文庫所在と表示される。
天保3年1月11日(本文・朱注) / 冊子 896頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2514
水野出羽守忠成が松平榮翁こと島津重豪へ送った年頭祝儀の返書。重豪が使者をもって太刀一腰と馬代黄金十両を献上し、披露したところ喜ばれた旨を伝える。正月十一日付、忠成の判と口裏署名を伴う。年次は朱注の天保三年。出典は重豪公御譜中、正文は文庫所在と表示され、上段左端の本文が下段右側の日付・署宛へ続く。
天保3年2月22日(本文。3月21日到来の外包注) / 冊子 898頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2522
松平周防守康任・松平和泉守乗寛・大久保加賀守忠真・水野出羽守忠成の四名が松平豊後守へ送った連署書状。公方・内府・大納言が健やかに過ごしているので安心するよう伝え、鷹の鶴を拝領したため宿次で送り届けると知らせる。二月二十二日付、四名の判を伴う。白木御文書九番箱中の二十五番。外包には天保三年壬辰三月二十一日到来につき、信濃殿から興倉直介が受け取り、白木御文書九番箱へ納める旨が記される。本文日付と受領・収納の注記を分けて記録する。
天保3年6月24日(本文・朱注) / 冊子 910頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2588
水野出羽守が松平榮翁こと島津重豪へ送った書状。端午の御内書を渡すので、翌日の五半時に江戸城へ家来を差し出すよう求める。本文は六月二十四日付、年次は朱注の天保三年。署名は官名のみで、目録標題は水野忠成書状。出典は重豪公御譜中、正文は文庫所在と表示される。
文永9年11月12日(1272) / 冊子 453頁/原整理番号 14-3
平忠成が嫡男・又二郎宗忠へ、先祖相伝の指宿郡司職、田畠・山野・河海、および開門神宮宮司職を譲った文永九年十一月十二日付譲状。関係証文を添え、所領の様体を書き記して譲与するもので、将来にわたり他から妨げられず知行するよう定める。本文後の系譜には女子から重秀・忠直へ続く線と、忠篤が幼名彦鶴丸、指宿郡司彦次郎、入道成笑を称したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 91頁
永禄四年五月から七月十二日にかけての廻・竹原山合戦における島津忠将以下の戦死者を列挙する。町田氏・川上氏・酒勾氏などの武士に加え、中間・従者・人足まで多数の名を伝える。