東郷重盛・川上忠位連署書状
九月廿六日 / 冊子 67頁
東郷重盛と川上忠位が、新納忠左衛門尉に百目掛銀の配分変更を頼んだ連署書状。当月と翌三月に受け取る二回分のうち一回分を、借銀で困窮する相良土佐へ譲るよう求め、詳細は使者から説明するとする。
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九月廿六日 / 冊子 67頁
東郷重盛と川上忠位が、新納忠左衛門尉に百目掛銀の配分変更を頼んだ連署書状。当月と翌三月に受け取る二回分のうち一回分を、借銀で困窮する相良土佐へ譲るよう求め、詳細は使者から説明するとする。
(慶長十三年)七月十日 / 冊子 175頁
慶長十三年七月十日、山口直友が島津家久に、江戸屋敷普請の使者が帰国し、鎌田政在が普請を進めていること、伊勢兵部が駿府で家康へ拝謁したことを報告し、自身は城番等で動けないため駒沢忠左衛門を添えたと伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 325頁
銀子の元高・利銀・本利合計と月数を掲げた覚書。京都での金銀貸借または勘定に関する金額を整理し、竹内忠左衛門へ示したもの。
文久2年戌5月11日(口裏朱書注) / 冊子 259頁/原整理番号 356/整理ID 356
玉里へ現書を引き譲った中の近衛忠房の口述。忠左衛門を招いたのは、久光の呼名が和泉で関東老中にも水野和泉守がいるため、差し当たりどうかと思い改名してはどうかと申し入れるためだと述べる。特に三郎と改めればなおよいとして、忠左衛門へ伝達を頼む。署名忠房、本文は日付を記さず口裏の朱書に文久二年戌五月十一日とある。包紙には嶋津和泉宛忠房、白木十番箱百二十七番の表示。改称を勧める発言と改称の完了を分ける。
3月廿六日(本文、文化5年記事群)。本文去る廿二日照会 / 冊子 297~298頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0079
出府に伴う公儀御目見願を差し出して返された件を別紙どおり知らせ、去る22日に桑山仲太夫を青木忠左衛門のもとへ遣わし、正徳の先例により申請したが御用番から口達だけで返答されたため、国元へ説明する際に意味が分かりにくいとして、極内々に理由を尋ねたと報告する。忠左衛門は、留守家来の代わりの者に御目見を命じると、2度3度と交替するたびに際限がなくなるとの内評があり、当時の正徳先例は採用できず、吟味のうえ前文どおり申し渡しただろうと説明した。ただし吟味の件は決して口外せず、以前から懇意なので秘密に話したものであり、返された書付に決して不都合な筋はないとも述べたという。この仲太夫の報告を添えて伝達を求める。3月廿六日、嶋津安房署、五名家老宛。正式な口達と忠左衛門の私的・秘密の説明を分け、後者を新たな許可や公式の理由書とはしない。
二月十日 / 冊子 321頁
奥平貞由・遠山景朝が、御用のため派遣された竹内忠左衛門・有馬次右衛門に対し、現地の仕置について相談し、書付を渡したことを報告する連署書状。詳細は両使者が説明するとしている。
明和六年六月十八日(許可六月二十三日) / 冊子 218頁/原整理番号 568/整理ID 568
四月に帰国の暇を与えられたが、積気と痔疾の痛みのため長途の旅行が難しく、保養して快くなれば早く出発する旨を先月、用番松平右近将監へ届けたと述べる。武田長春院の薬を服用して養生したが回復せず、出立できる状態ではない。暑さに向かう遠い旅行はおぼつかないという長春院の意見により、可能であれば当年の秋中まで江戸に滞在して養生したいと願う。ただし、その間に少しでも快くなれば早く出発するとする。六月十八日付、明和六年の朱注と松平薩摩守の署を備える。御附札は願いどおり滞府してよいとする。朱注によれば、願書一通を即日、留守居有川勇馬を通じ、御用御頼の御先手松平忠左衛門を介して用番松平右京大夫へ提出し、六月二十三日に右京大夫から御附札で願いのとおり申し渡された。
3月廿三日(本文、文化5年記事群)。昨日青木忠左衛門訪問 / 冊子 298頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0080
御手前の公儀御目見願は、ほかに後例がないため不許可と去る21日に御用番から申し渡されたが、口達だけなので国元へ説明する際に意向が分かりにくかったとして、昨日青木忠左衛門を訪ね、どのような趣旨による申し渡しなのか極内々に尋ねた首尾書。忠左衛門は、留守家来が代わるごとに御目見を認めると2度3度の交替にも及び際限がなくなるという内評があるので、正徳の例は採用できず、吟味して前文のとおり命じたであろうと述べた。この吟味の話は口外しないよう求め、かねて懇意なので秘密に話したもので、返された書付等に決して不都合な筋はないとも聞いた。3月廿三日、桑山仲太夫、安房宛。939の9に転記される説明の首尾報告だが、差出日と宛先を別に保持する。
〈宝暦四年〉正月 / 冊子 457~458頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1389
宝暦四年正月、四箇所の普請場ごとに担当役人を掲げる名書。濃州桑原輪中から尾州神明津輪中は石野三次郎・高木新兵衛、尾州梶嶋村から勢州田代輪中は大久保荒之助・青木次郎九郎、濃州墨俣輪中から同国本阿弥輪中は浅野左膳・高木内膳、勢州金廻輪中から同国海落口濱地藏辺は新見又四郎・高木玄蕃が担当する。さらに四場を見回る吉田久左衛門を記す。各場の御徒目付と御小人目付を続けて列記し、桑原・神明津は御徒目付小知藤右衛門・原田又兵衛、梶嶋・田代は小川孫七郎・川崎市右衛門、墨俣・本阿弥は鈴木市十郎・中村忠左衛門、金廻・海落口は村山金三郎・吉田半太郎を置く。御小人目付も場別に記すが、全役人の通算人数は本書には記されない。本書では金廻の所属国を勢州と記す。行間には本書二通を御徒目付衆から受け、国元へ送る旨を記す。
天明元年閏五月(日付未記) / 冊子 625頁/原整理番号 1769/整理ID 1769
御縁女に附添う女中として浪江・多賀・千さ・きその身元を列記する。浪江は石川阿波守の組与力松山忠左衛門の妹で居所は弁橋、多賀は松平志摩守の支配に属する日野小左衛門の娘で居所は本所石原、千さは石川阿波守の組与力松山忠左衛門の娘で居所は弁橋と記す。きそは氏名だけが見え、続く身元欄はこの切出しでは確認できない。冒頭には本田信次郎の姉花川と、若年寄格守役・家老同席の家柄に関する記載もある。
寛永十五年四月九日 / 冊子 239~241頁/原整理番号 333-24
二月二十七日の城乗りで、河喜多九太夫正重が本丸海手角と升形の間にある、蓆を掛けた塀の破口下の崩れた石垣(高さ三尺五寸ほど)に取り付き、砲石の激しい攻撃にも退かず、そこから乗り込んだ経過を嶋少右衛門へ申し出たもの。山田新九郎ら近傍の者を一番乗りの証人に挙げ、乗込み後は槍を合わせて敵二人を仕留め、前田忠左衛門・大村孫兵衛から証拠状を取ったと述べる。
年月日未詳 / 冊子 265~266頁/原整理番号 336-1
『天草説書』所載の記事。二月二十七日から二十八日にかけ、黒田右衛門佐の一手が原城の詰の丸を攻め、一揆勢の石礫・材木・火を付けた苫・鍋釜・弓・鉄砲による防戦を受けながら、七、八間の石垣を登ったと記す。黒田三左衛門・橋本市郎右衛門・吉田久太夫・内藤源之丞・高橋忠左衛門・二宮六郎兵衛・福山長助らが乗り込み、二十八日巳の下刻に詰の丸の敵を討ち果たしたという。後段では、黒田右衛門佐が二度自身で城へ乗り込んだ理由を問われ、家臣と生死を共にするためと答え、先手を検分して恩賞・扶持を命じたと伝える。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁/原整理番号 337-1
『藤掛氏集書』所載の黒田右衛門佐一手による天草丸・詰の丸攻撃記事。二十八日、石礫・材木・鍋釜・弓・鉄砲による防戦下で七、八間の石垣を登り、黒田三左衛門・鷲見市郎左衛門・吉田久太夫・内藤源之助・高橋忠左衛門・二色六兵衛・福山長助らが乗り込み、巳の下刻ごろに敵を討ち果たしたとする。右衛門佐は家臣と生死を共にするため自身も城へ乗ったと答え、先手を検分して褒賞し、忠義の士へ腰物を下したという。336-1の『天草説書』記事とほぼ同文だが、出典および鷲見市郎左衛門/橋本市郎右衛門、内藤源之助/源之丞、二色六兵衛/二宮六郎兵衛等の表記異同を保持する。
弘安六年八月日 / 冊子 314頁
越前島津氏の系図として、忠経・忠幹・忠政から忠景・忠継・忠左衛門三郎らへ続く系統を簡略に示す。
(延宝四年)九月十七日 / 冊子 675頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1707
牛込忠左衛門勝定が松平大隅守方へ、琉球中山への福州上将軍による硫黄所望の件で、先に家来へ内意を伝えた旨を記す。琉球への硫黄渡海を一刻も早く取り計らうよう江戸へ申し上げたところ、昨夜宿次で奉書が届いたので、直ちに進達すると知らせる。
〈宝暦四年〉正月 / 冊子 447~448頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1370
三州の御手伝普請場へ出向く役人を御留守居が報告する名書。目付代として石野三次郎・大久保荒之助・浅野左膳・新見又四郎、美濃郡代青木次郎九郎、代官吉田久左衛門を掲げる。美濃衆の高木内膳・玄蕃・新兵衛の三人は領地に居付き、直接普請場へ出向くと説明する。御普請役の長岡文兵衛以下の役人、御徒目付の小知藤右衛門・村山金三郎・鈴木市十郎、御小人目付の小川孫七郎・吉田半太郎・原田又兵衛・川崎市右衛門・中村忠左衛門及び十六人を列挙する。右人数を普請場四ヶ所に分けると記す。