島津氏久書下
正平十三年十月廿日 / 冊子 11頁
島津氏久が姫木弥四郎入道に、自方へ参じて忠節を尽くしたため、本領の知行に相違がないことを保証した書下。
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正平十三年十月廿日 / 冊子 11頁
島津氏久が姫木弥四郎入道に、自方へ参じて忠節を尽くしたため、本領の知行に相違がないことを保証した書下。
延文五年二月十八日 / 冊子 17頁
島津氏久が目弥四郎入道に、大隅国桑西郷内鏡原三段を凶徒の知行分であったことから兵粮料所として領掌させ、異議があれば改めて沙汰すると定めた書下。
元亀三年五月四日 / 冊子 265~266頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦を記す。伊東方数千が飯野を越えて加久藤を攻めたため、島津義弘は四、五十騎で木崎原を遮り、久富・遠矢らと迎撃した。長峯氏や伊東文次郎・落合源左衛門らを討ち、田原陣・鬼塚原へ追撃して義弘自身も強敵二人を斬った。島津方にも鎌田大炊助らの戦死者を出したが、少数で伊東方の大軍を破った勝利を天助と評する。
元亨三年六月日 / 冊子 500頁
渋谷次郎丸代惟朝が、伯父弥四郎重経は入来院塔原郷内田薗を証文なく押領し、二度の御教書にも参陳しないとして、違背を処罰し所務を回復するよう求めた重訴状。
嘉暦四年四月廿五日 / 冊子 559頁
本田親兼が弥四郎へ、山門院内針原村の田畠・屋敷と付属所領を、手継本証文とともに永代譲り渡した譲状。道観相伝の所領であることを示し、後日の妨げを禁じる。
建武三年五月十二日 / 冊子 665頁
新田右衛門佐与同の益戸弥四郎行政・同四郎兵衛尉秀名・石河内弁済使らとの新納院岩戸原彦尾合戦で、土持新兵衛尉が忠節を尽くしたことを賞した畠山直顕感状。
建武三年五月十五日 / 冊子 665頁
新田義貞与同の益戸弥四郎行政以下が楯籠る石城を追討するため、土持新兵衛尉に一族を率い、早く馳せ向かうよう命じた畠山直顕軍勢催促状。
暦応四年七月日 / 冊子 741頁
放火狼藉の関与者として、渋谷弥四郎本人、西岡弥次郎左衛門尉、重内三郎、山口平次三郎、同平四郎、一渡弥四郎、大井小四郎、同六郎らを列記した交名注文。
観応三年四月廿五日 / 冊子 820頁
足利尊氏が池上弥四郎へ、前年九月八日の筑前国金隈合戦で父池上四郎兵衛尉光久が討死したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
「寛永廿年」六月廿三日 / 冊子 241~242頁
島津久通・新納久詮が、証人衆の評定所出頭と逃亡事件を報じた連署書状。御証人奉行の切紙により証人衆を伴って評定所へ出頭した経緯を伝える。安芸守が主家との争いから国を逃れ、証人として江戸にいた子の弥四郎も留守居衆へ無断で逃亡したため、私怨の有無にかかわらず厳しく捜索・処置するよう求めている。
建武三年五月十二日 / 冊子 61頁/原整理番号 299
畠山直顕が、土持新兵衛尉らが五月十日に新納院岩戸原彦尾で、新田義貞方の益戸弥四郎行政・益戸四郎兵衛尉秀名・石河内弁済使以下と合戦して忠節を尽くしたことを賞した感状。建武三年五月十二日付。
建武三年五月十五日 / 冊子 61頁/原整理番号 300
畠山直顕が、石之城に立て籠もる新田義貞方の益戸弥四郎行政以下を誅伐するため、佐伯備前権守とその一族らとともに同城へ馳せ向かうよう土持新兵衛尉へ命じた軍勢催促状。建武三年五月十五日付。
建武三年二月七日 / 冊子 59~60頁/原整理番号 294
土持新兵衛尉宣栄が、建武二年十二月以来の日向国での軍忠を列挙した軍忠状。伊東祐広らの国富庄侵入、穆佐院・楯籠城などでの合戦、祐広の追討、宣栄・子息時栄らの負傷を記し、証判を求めた。建武三年二月七日付。
建武三年二月七日 / 冊子 60~61頁/原整理番号 295
土持宣栄が、新田義貞方の伊東祐広らによる穆佐院攻撃に対し、一族とともに建武二年十二月末から翌年二月まで各地で戦い、肝付兼重方の城攻めや合戦で自身・子息・若党が負傷した軍忠を申告し、証判を求めた文書。建武三年二月七日付。
元亨四年四月十八日 / 冊子 518頁
中津河湯原での狩に備え、祢寝院・郡司・佐多弥四郎・同九郎・田代大掾・伊佐敷らへ各五~十一人、計数十人の歩兵・狩夫を割り当てた沙弥円也の支配状。
嘉暦二年後九月廿八日 / 冊子 553頁
薩摩国入来院寄原南方の田畠・在家などをめぐる訴訟で、渋谷弥四郎重名代祐信に対し、訴えへの陳状を提出するよう催促し、違背すれば処分すると命じた鎮西御教書。
元亨4年4月18日 / 冊子 177頁/原整理番号 95
来る21日の守護狩に備え、弥寝院・佐多弥四郎・同九郎・田代大掾・伊佐敷らに歩兵狩人を割り当てる支配状。中津川湯原に集まり、三日分を用意して早参するよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 82頁/原整理番号 18
『慶応四年戊辰三月写終 伊地知季通 藤原姓長谷場氏系図』とする中表紙・冒頭系図に続く、矢上氏の短い系図抄。冒頭系図には貞満・貞国と五郎左衛門、助七、喜右衛門らを配し、貞満を中村勘解由左衛門義康の三男と記して、郡奉行・御書物奉行・公事奉行の官歴を添える。印刷番号18の本体は矢上五郎時澄から沙弥阿妙・阿実へ続く系線を示し、下段では沙弥純阿、兵庫允久純、鶴一九、覚阿、弥六氏純、弥五郎久武、六郎久純、十郎兵衛尉幸純、千代熊丸、弥四郎、実純、道阿、元恵、乙房丸らを、建武・康永・正平・貞和・貞治・文明などの年代注記とともに配する。
正文発給日:弘安六年十一月十八日 / 冊子 338頁/原整理番号 五一四/整理ID TMP-P02-NENE4C-D0514
祢寝南俣佐汰村本地頭弥四郎親治と、佐汰西方本地頭弥九郎定親が異国警固番役について相論する。 双方は子細を申すが、定親は別の御家人で、安堵の御下文を帯びると記す。 警固番役は各々別に勤めるよう命じる。 その旨を下知する。
本文日付:弘安六年十一月廿二日 / 冊子 338頁/原整理番号 五一五/整理ID TMP-P02-NENE4C-D0515
佐汰弥四郎と弥九郎が相論する警固番役について、双方の申子細と御下知状を踏まえて書き下す。 定親は各別の御家人であり、安堵の御下文を帯びるとする。 警固番役も各別に勤仕すべき旨を述べる。
本文日付:永仁三年五月一日 本文中の参照年紀:正嘉二年 / 冊子 339~340頁/原整理番号 五二三/整理ID TMP-P02-NENE4C-D0523
定親代了親と弥四郎治〔刊本注「親脱カ」〕の、大隅国佐多村内田柒段園一所をめぐる相論。 建部氏の跡を宗親・親綱が和与し、正嘉二年の下知後すでに三十年を経たとして、改めて沙汰に及ばず、和与状と先下知を守って領知すべきとする。 親治が奉行人状を称して謀書を出したとする件を挙げ、正文がないため沙汰の限りではないとする。 鎌倉殿の仰せにより以上を下知したと記す。
文書日付:元徳二年十一月十九日 / 冊子 429頁/原整理番号 六六八/整理ID TMP-P03-NENESAITO-D0668
橋口土蔵を三郎次郎清武の分とし、他の子らの競望を禁ずる。女房得分の倉・稲以下の進退と邊津賀に関する条に、当年納足三十余石と知行を記す。 女房存生中、邊津賀得分内から毎年麦二石・米三石を請け取る旨を記す。 亀壽力房の倉を佐藤三弥四郎等へ預け置く旨、他の子らの競望禁止、女房方および清武得分の所従の譲与を列挙する。その他は先年の譲りに任せて知行すべきことを記す。
建武三年三月廿八日 / 冊子 657頁
大隅式部三郎忠能が多々良浜合戦で敵の首を取った軍功について、実否を見知者に問い、起請文を付して注進させるよう命じた足利尊氏奉行人連署奉書。
11月22日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 362の3
十一月二十二日、片浦から立てた浦水手の受取を命ずる送状。船頭壱岐・蔵右衛門・市右衛門・弥九郎と宇兵衛尉以下を列記し、第一群を三十二人とする。さらに助之丞・与介・惣五郎・弥右衛門・三右衛門尉・神介・少右衛門・杢之介の八人を別に掲げ、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ受取を申し付ける。
年月日未詳 / 冊子 694~699頁/原整理番号 725
村田市助家蔵本による、正月十三・十四日頃の島原出陣軍衆の人数と飯米処理の記録。川内百次・高城・中郷、阿多、恒吉、須木、水引、松山などの衆および個々の家の主従・人躰・小者・夫丸、到着日、米津・市来湊の兵糧支給や返上を列記する。合人数1799人を人躰550人・内之者1249人とし、別に鹿児島衆254人(人躰90人)、他者夫丸964人を記す。末尾には十四日の追加到着・出船を記し、十五日条へ読み継ぐよう注記する。
寛永十四年(寛永十五年正月六日) / 冊子 323頁/原整理番号 170
島原陣に加勢する軍勢の割り当てを列挙した抄。軍大将は山田民部少輔と渋谷四郎左衛門、乗馬は豊後守と渋谷石見守とし、川上・堀・児玉・柏原・大嶋・福屋・始良・田上・福崎・上持・田原・村尾・佐藤・長谷場・深栖などの軍衆を配している。
年月日未詳 / 冊子 360~361頁/原整理番号 64
菱刈重猛が伊東方と結び、三之山城が攻められた後、幼い鶴千代の所領処分を相談したことを記す。内応が続いたため島津方が飯野から馬越へ夜襲し、井手籠一族を討ち取る際、忠元も働いた。菱刈方は八城を放棄して大口へ退き、島津方は守備隊を配置した。大口は相良の加勢を得て市山へ攻め、守将らが討死した。忠元は大中から守備を命じられ、所領も受けたが、市山へ軍勢を移す下知が出た時の難儀も記す。
年月日未詳 / 冊子 362~364頁/原整理番号 67
求麻・大口・入来院・祁答院・東郷勢が曾木へ攻め寄せた時、佐多を大将として若武者と遠見隊が防戦した記事。忠元も備えたが、敵はその支度を見て退いたとする。続く永福寺・白坂口での諸隊の働きと死傷、守備隊の交替を詳記する。五月には山野から野伏を試み、八月には加久藤・田中河内方面で陣を取り、大雨で攻撃を中止した。長陣の後、感應寺の西堂を頼って和平を申し入れたという。
年月日未詳 / 冊子 375~376頁/原整理番号 85
馬越黒坂寺の由来として、僧盛良の生涯と菱刈・大口攻めでの仲介を記す。使僧が傷つけられて往来が絶えたため、盛良が代わって交渉した。忠元が捕らえた子供を預かり、鎧を持たせて城へ遣わして信用を得ると、自身も城へ入り、大将の意向を穏やかに伝えた。やがて和平が成立し、忠元が大口地頭となり、盛良の居た黒坂寺に田を与えた。寺の繁栄と帰依した人々を記して結ぶ。
元亀二年七月十六日 / 冊子 380~381頁/原整理番号 95
大口郷に残る諏方社の祭方古帳の抄録。元亀二年七月十六日のしめおろしに用いる酒米一斗・飯米一斗三升・花米三升と、注連など各所への米の配分を記す。地頭組の肴銭百文、御頭の人足積日記に載る三町分の人数と米、十八町分六組なども抜き出す。末尾に同年七月吉日と伊集院弥六左衛門尉・新納刑部太輔・春成の名を記し、途中の人名・数行は省略されている。
建武三年二月十日 / 冊子 650頁
土持宣栄が、正月廿九日の祐広城攻め、二月一日・三日・四日の合戦で一族とともに戦い、若党らが負傷・戦死した経過を述べた軍忠状。小串弥四郎らの働きを挙げ、左兵衛尉秀信の証判を受ける。
暦応四年七月日 / 冊子 740~741頁
渋谷千代童丸代信政が、渋谷石見権守重棟の子息弥四郎重春以下の一族が祢答院太郎名長野宿所へ押し寄せ、放火狼藉・合戦を行い、さらに東郷内鳥丸村で夜討・殺害に及んだとして、狼藉人の召出しと糾明を求めた申状。
正和元年十月十日 / 冊子 436~437頁
薩摩国満家院内上原三郎基員と同院中保弥四郎入道らの相論について、提出書状が細密で所詮が明確でないため、現地の道証を糺し、理由を付して返答するよう命じた守護代本性の裁許状。基員方・相手方双方の証文と道証を再審する。
年月日未詳 / 冊子 584頁
和泉忠氏(初名実忠)を島津忠宗の二男とし、三郎兵衛尉・左兵衛尉・豊後守・下野守などの称を掲げる系図。建武年間、高越後守師泰・斎藤弥四郎左衛門尉利泰ら三人が鎮西成敗職として博多に在ったことも記す。
年月日未詳 / 冊子 779頁
渋谷弥四郎重名が、五月十九日夜に薩州鹿児島院方の敵が東福寺城へ来襲した際の合戦、六月三日に熊野海賊以下数千人が海陸から攻め寄せた際の防戦、同六日の追撃を列挙し、子細を後日の証拠とするため御判を求めた軍忠状。
年月日未詳 / 冊子 881頁
殉国名藪の記事として、知色城・木野城攻撃で九月三日に討死した猿渡藤三郎信重らを挙げ、酒匂兵衛四郎・愛甲弥四郎ら関係者の名も記す。
年月日未詳 / 冊子 884頁
知色城合戦で討死した酒匂兵衛四郎、酒匂左衛門四郎、愛甲弥四郎、堀源五、阿曽谷三郎、土田五郎らを列記した交名注文。
元亨四年四月十八日 / 冊子 164頁/原整理番号 57
元亨二年四月十八日付、沙弥円也による守護狩夫の支配状。来る二十一日の狩りに向け、祢寝院郡司に歩兵狩人二十人、佐多弥四郎・同九郎・田代大掾・伊佐敷に所定の人数を割り当てる。中津川湯原に三日間の準備をして早く参集させ、雨天なら翌日に延ばす。
本文日付:正安元年十二月四日 本文中の参照年紀:正應四年十一月廿五日 本文中の参照年紀:去十月廿五日 / 冊子 341頁/原整理番号 五二九/整理ID TMP-P02-NENE4C-D0529
信親代季長と弥四郎親治の、大隅国桑東郷武安名内の古作・東迫田畠に関する相論。 正応四年十一月二十五日の関東御教書につき沙汰するところ、去る十月二十五日に双方が和与状を出したとする。 互いにその和与状を守って知行するよう命じる。