島津氏久偏諱宛行状
康安二年十二月一日 / 冊子 31頁
島津氏久が長谷場弥六に『氏純』の名を与えた偏諱宛行状。本文は名乗りを示す簡略な形で収録される。
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康安二年十二月一日 / 冊子 31頁
島津氏久が長谷場弥六に『氏純』の名を与えた偏諱宛行状。本文は名乗りを示す簡略な形で収録される。
慶長四年閏三月廿四日 / 冊子 370頁
伊集院弥六左衛門尉が、幸侃成敗に伴う相談内容を源二郎の親類や家中へ漏らさず、源二郎が別儀なく奉公すれば通常どおり交際すること、龍伯・義弘・忠恒に別心なく、縁者の悪逆も即時に言上し、一向宗にならないことを誓う。
貞治七年五月十八日 / 冊子 51頁
長谷場久武が、弥六跡の水田・屋敷について覚阿の取り計らいに従い、六郎を養子として譲与し、末代まで異乱しないと定めた譲状。
二月一日 / 冊子 698頁
島津勝久が奈良原帯刀允に、子息弥六左衛門の討死を忠節の至りとして悼み、今後も変わらぬ奉公を求めた書状。
二月一日 / 冊子 710頁
本文はNo.2143の島津勝久書状と同文のため省略される。奈良原帯刀允の子弥六左衛門の討死を忠節として悼み、奉公を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 587~588頁
船着の知らせを受けて安堵したことを述べ、弥六右衛門が下ったかを尋ねる。今回の神変は自分一人の働きではなく、先に死んだ者たちの心によるものだとして、一同が心を合わせるよう求める。左衛門尉らの同行にも触れるが、仮名書きのため一部の語句は判読困難である。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72~73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、財部内の知行地割目録。蒲興禅寺内などの田地を田位・面積・石高ごとに示し、仲兵衛・五郎右衛門・権右衛門・助六・伝右衛門・源太・弥六左衛門らへ割り付ける。総高二十三石九斗余と、ほかに高山へ遣す七石余を記し、二口を合計する。
慶長十一年十一月廿五日 / 冊子 95頁
慶長十一年十一月二十五日に行う犬追物の手組を記した一覧。殿をはじめ本田弥六・島津摂津守・島津次郎・比志島宮内少輔など射手の名と割当てを列記する。
慶長十一年十一月廿五日 / 冊子 95頁
慶長十一年十一月二十五日の「初日」における犬追物手組の別記。一番の殿以下、本田弥六・島津摂津守・島津次郎・比志島宮内少輔などの射手と割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 96頁
慶長十一年十一月二十六日、二日目の犬追物手組を記した一覧。殿以下、島津式部太輔・島津摂津守・島津河内守・本田弥六らの射手名と割当てを列挙する。
(慶長十八年)九月八日 / 冊子 412頁
慶長十八年九月八日、近衛信尹が島津家久へ、泉坊に関する書状と贈答に謝し、高崎弥六郎の来訪、家久妹の江戸下向などを気遣った書状。
年月日未詳 / 冊子 867-868頁
伊地知季安の考証。霧島山普門院への寄進状に続く時系列として、徳川家康が十二月二十五日に駿府から伏見城へ戻り、大坂の島津忠恒を召し、二十八日に忠恒が伏見へ赴いたこと、島津忠長ら五人が城内まで随従したことを記す。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 95頁
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記した一覧。二日目の射手について、殿以下の人名と組合せ・割当てを図示する。
康安二年十二月一日 / 冊子 116頁/原整理番号 437
島津氏久が弥六に「氏」の一字を与え、「氏純」の名乗りを認めた一字書出。康安二年十二月一日付、氏久花押。
(慶長五年)四月廿二日 / 冊子 535~536頁
島津義久(龍伯)が又八郎殿に、高崎弥六を介して承った事柄への返答として、和歌の語句・心の扱いや玄与に申し付けた歌の出来を論じ、詠歌を送るよう求める。さらに祈念や女性衆の祈り、納戸衆・書奉行への手配、衣類、山野での馬追いに触れ、二十五日に必ず出向く意向を伝える。
明応八年六月廿七日 / 冊子 576頁
室町幕府奉行が、播磨国布施郷の地頭職・下司職・公文職について、島津氏の先祖以来の権利を認め、島津四郎へ返付して従前どおり領知するよう命じた奉書。
天正二年十二月 / 冊子 348~349頁
天正二年十二月、志岐氏が肝付氏帰順の祝詞と進物を届け、義虎・天草氏の和平を仲介した。同行者が吉野で殺害され、犯人二人が福昌寺に逃げ込むと、捕縛の際に坂本吉右衛門が刺されて犯人を斬殺した。代賢和尚が寺の災厄を嘆いて退去したため義久らが慰留し、のち志岐氏へ和平方針を返答して馬・鉄砲を贈った経緯を記す。
(文禄2年)8月1日 / 冊子 717~718頁
帰国・上洛や船旅の手配、京都での滞在先について又八郎へ細かく指示し、長陣で疲れた身体を気遣う。 妻への土産、枕や小袖など身の回りの品、家臣の処遇にも触れ、朝鮮在陣中の義弘が嫡子の旅程と家庭生活まで心配した私信。
年月日未詳 / 冊子 583頁
新納久无は八月中旬に薩州から伏見へ向かう途中、島津義弘(惟新)が石田三成方に加わったと聞き、九月に大垣で義弘へ謁した。十五日の関ヶ原合戦に従軍して多くの家臣を失い、敗走時には伊吹山から近江路を経て京都へ到着した。喜入忠政・川上助七らと平道正庵宗古の宅に潜伏し、近衛信尹の厚意と宝刀を受け、翌年三月に帰国した経緯を記す。
慶長五年十一月廿八日 / 冊子 620頁
新納新八郎ら十一名が、用に備えて銀子一貫目(うち七匁不足)を借用したことを証する。利子について配慮を受けたことに謝意を示し、本銀は各人が国元へ下る次第、早々に返済すると約束する連署借用証文である。
本文末尾:元亨二年八月九日 / 冊子 658頁/原整理番号 〇二二/整理ID TMP-OF-P04-D022
又太郎入道の負銭について、御引付で承諾した経過を記す。 式部孫五郎入道殿から当該入道が召し渡されたことを述べ、以後の訴訟を止めるとして請取状を出す。
三月十九日 / 冊子 33頁/原整理番号 248
伊集院幸侃が米良勝右衛門尉に、弥六の上洛と龍伯への拝謁が首尾よく済んだことを祝い、当地と龍伯以下が平穏・健勝であると知らせた書状。三月十九日付。
貞治六年十月一日 / 冊子 111頁/原整理番号 424
覚阿が、子のない弥六の跡の水田について、長谷場内の田地や甘子木村内西牟田五段などを正弟六郎に譲った譲状。六郎に弥五郎を親と思って仕え、互いに水魚の思いで知行するよう定める。貞治六年十月一日付。
貞治七年五月十八日 / 冊子 111~112頁/原整理番号 425
長谷場久武が、覚阿の裁量に従い、弥六跡の水田・屋敷について六郎を養子とし、後世まで妨げや違乱をしないことを約した譲状。久武に子がないため、互いに協調するよう求める。貞治七年五月十八日付。
慶長十二年六月吉日 / 冊子 121~122頁
慶長十二年六月吉日、喜入久供ほか八名が別府舎人佑・高崎弥六に提出した連署起請文。弓箭の伝授を受けたことを身に余ることとしてありがたく受け止め、相弟子であっても重位の秘事を他言せず、日夜油断なく弓の修練に励み、指南者の中に別心の者がいれば知り次第言上することを誓う。違反時には、梵天・帝釈・四大天王以下、日本六十余州の神祇や新田八幡・開聞・霧島・稲荷・春日・愛宕山などの神罰・冥罰を受けるとする。
慶長十二年六月吉祥日 / 冊子 122頁
慶長十二年六月吉祥日、白濱重昌が弓箭の古儀を守り、同僚を重んじ、秘密を漏らさず、上意に忠実であることを諸神に誓った起請文。
年月日未詳 / 冊子 57頁/原整理番号 52
天文二十三年九月十二日酉刻の岩剣合戦出陣次第を記す。若殿義久を大将、伊集院大和守忠朗を軍配者、本田弥六を太刀役、梶原新兵衛を番役、瀬戸口藤兵衛を幡指とし、御屋形貴久の太刀役を鎌田甚五郎とする。後評では、永禄十一年正月二十日の菱刈羽作瀬での義久・義弘の危難と梶原の不手際・御内追放を挙げ、御旗役を三原氏に代えたのではないかと耳川合戦の記録に関連づけて考える。
年月日未詳 / 冊子 82頁/原整理番号 18
『慶応四年戊辰三月写終 伊地知季通 藤原姓長谷場氏系図』とする中表紙・冒頭系図に続く、矢上氏の短い系図抄。冒頭系図には貞満・貞国と五郎左衛門、助七、喜右衛門らを配し、貞満を中村勘解由左衛門義康の三男と記して、郡奉行・御書物奉行・公事奉行の官歴を添える。印刷番号18の本体は矢上五郎時澄から沙弥阿妙・阿実へ続く系線を示し、下段では沙弥純阿、兵庫允久純、鶴一九、覚阿、弥六氏純、弥五郎久武、六郎久純、十郎兵衛尉幸純、千代熊丸、弥四郎、実純、道阿、元恵、乙房丸らを、建武・康永・正平・貞和・貞治・文明などの年代注記とともに配する。
元亀二年七月十六日 / 冊子 380~381頁/原整理番号 95
大口郷に残る諏方社の祭方古帳の抄録。元亀二年七月十六日のしめおろしに用いる酒米一斗・飯米一斗三升・花米三升と、注連など各所への米の配分を記す。地頭組の肴銭百文、御頭の人足積日記に載る三町分の人数と米、十八町分六組なども抜き出す。末尾に同年七月吉日と伊集院弥六左衛門尉・新納刑部太輔・春成の名を記し、途中の人名・数行は省略されている。
文書本文の日付:嘉暦二年二月四日 / 冊子 525頁/原整理番号 八二七/整理ID TMP-P03-REIMEIKAN-D0827
沙弥行智が所従等を譲与する旨を記す譲状。 力壽丸所として、弥六男・水引三郎妻夫同一類などを原列記の配置で掲げる。 奴原は重代相伝の下人等であると述べる。 譲状の旨に任せて子々孫々に至るまで服仕させるべきとし、行智の花押表示を伴う。
年月日未詳 / 冊子 678~680頁/原整理番号 685
島原軍衆の人数差出を留めた帳簿で、諸士・各衆中ごとに主従、人躰、夫丸などの人数を記し、正月中旬の米津到着と飯米支給を照合する。途中に合人数・内訳を掲げ、米津への到着が遅れた者や前帳に記載のない者を別に書き留め、日々の到着人数を整理する。
年月日未詳 / 冊子 356~358頁/原整理番号 59
横川から来た者が島津方の情勢を菱刈・伊東・相良へ知らせ、背反が起きたことを記す。菱刈は大軍の進路に気づかなかったといい、島津方は馬越へ急襲した。先鋒が多数の損害を受けながら攻め、義久・義弘の隊や諸隊が戦って落城させた。諸城が放棄され大口に籠城されると守備隊を置いたが、相良頼房の加勢もあり、求麻・八代・芦北の兵や住民が集まって、大口は攻め難い城になったという。
年月日未詳 / 冊子 689頁
川上頼久が大隅式部三郎・大寺弥六・大田六郎次郎らと軍功を立て、足利直義から御教書二通と賞を受けたことを記す川上頼久伝の記事。
承久年間 / 冊子 176頁/原整理番号 56
高城氏の系図。初代重貞は落合六郎を称して高城を号し、承久の乱に宇治川で戦死したと記す。二代重秀(太郎二郎)から、三代重郷(河内守)、四代重藤(太郎)、五代重雄(小太郎・下総守)、六代義重(六郎太郎)、七代重豊(越後守)、八代重令(越後守)へ続ける。後半は九代重継(小太郎・下総守)、実弟との注を伴う十代重珍(三河守)、十一代重頼(彦太郎・越後守)、十二代重政(又太郎・周防守)、十三代重前(弥六郎・長門守)、十四代重鐘(六郎・周防守)を掲げる。さらに重治(異本は武蔵守)―重説(六郎太郎・左京亮)の系線を示し、『書入諸家系図』では重治を脱して重説を重鐘の子とする旨を注記する。末尾に後代の重貞(喜太郎・主馬允)―重善(小平次〔ママ〕・喜右衛門)の系線を載せる。
天文二十三年九月十二日 / 冊子 233頁/原整理番号 10
天文二十三年九月十二日の合戦で、若殿義久の軍における太刀役本田弥六、旗役梶原新兵衛、幡指瀬戸口藤兵衛らを記す。季安はそれぞれの後裔や家系との関係を注記する。
元和七年十二月四日 / 冊子 150頁/原整理番号 95
元和七年十二月四日の犬追物手組。宰相殿七疋、仁礼信濃守三疋、三原左衛門佐四疋などの犬数を記し、検見を島津志摩守、喚次を本田弥六とする。