庄内軍戦場改日記
年月日未詳 / 冊子 481~489頁
庄内軍の戦場ごと・日付ごとの戦果を改めた日記。高城口をはじめ各戦場について、蒲生衆・加久藤衆・限城衆・清敷衆・高城衆・志和池衆などの所属別に、分捕、手負、戦死、鉄砲・弓・鑓・刀の使用や取得、参加者名と人数を列挙する。十月から翌正月に及ぶ複数の戦闘記録をまとめ、各隊の働きと損害を具体的に示す。
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年月日未詳 / 冊子 481~489頁
庄内軍の戦場ごと・日付ごとの戦果を改めた日記。高城口をはじめ各戦場について、蒲生衆・加久藤衆・限城衆・清敷衆・高城衆・志和池衆などの所属別に、分捕、手負、戦死、鉄砲・弓・鑓・刀の使用や取得、参加者名と人数を列挙する。十月から翌正月に及ぶ複数の戦闘記録をまとめ、各隊の働きと損害を具体的に示す。
(大永三年)十一月六日 / 冊子 645頁
島津忠朝が土持右馬頭に、新納忠勝の動向、北郷・庄内をめぐる争いと調停経過を述べ、助力を求めた書状。
十月六日 / 冊子 147頁
島津義弘が、全羅道での戦いが終わって諸軍が陣を払い、奉行衆から赤国との境に近い慶尚道泗川の番所を命じられ、築城準備を進めていると報じた書状。庄内御料人の懐胎を聞き、特に祈念を尽くすよう求める。
年月日未詳 / 冊子 494頁
庄内戦で戦死した者を、年月日・戦場・所属とともに列挙した殉国者名簿。慶長五年正月の河内・栗山・追田などでの戦闘を中心に、戦死者名のほか、主従・組・衆の別や人数を記し、庄内戦での人的損害を整理する。
(慶長五年)正月十五日 / 冊子 498頁
島津義久(龍伯)が新年の祝意を述べ、前年以来、庄内方面で不慮の事態が続いたとする。忠恒が判断して志和池城へ着陣し、近頃は敵が弱っていると聞くため近日中の勝利を期待し、吉報は追って知らせると述べる。祝意として軽微ながら縮一端を贈る。
慶長十六年六月十六日 / 冊子 339頁
慶長十六年六月十六日、平田宗親が忠誠誓約に先立って記した起請文前書。太郎左衛門の違背、親類・庄内衆との関係、過去の書状・改易、赦免や忠節の条件を詳述する。
五月十四日 / 冊子 117頁
伊東祐商が新納に、以前使僧を受けたことへの謝意を述べ、今後も懇意を願った書状。新納方の母堂への依頼、庄内城の番衆などの用件について触れ、委細は使者に託す。
十一月廿二日 / 冊子 341頁
島津貴久が境目の平穏を喜び、仕役者の吟味と占い、春の勝利見込み、庄内への派遣、栗野への進出、陣構えや日取りについて報じた軍事書状。関係者との談合と慎重な準備を求める。
年月日未詳 / 冊子 59頁
永禄元年三月の恒吉宮ヶ原合戦で肝付勢が飫肥・庄内両軍四百余人を討ったこと、島津方の櫛間出兵、九月の島津義益の元服と犬追物を記す。
年月日未詳 / 冊子 67頁
永禄元年冬、島津方と肝付氏が戦った経緯を記す。清ヶ島で肝付方の有力者が多数討たれた後、兼続が少人数で踏みとどまり敵を退けたこと、伊東方が新山・南郷方面から櫛間を攻めた状況を述べる。
(寛文十一年)二月十二日 / 冊子 576頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1382
島津光久が、庄内の跡職を島津権十郎へ継がせ、島津帯刀を後見に任じるよう命じた仰出。庄内では近年家政が乱れ、祖母の指図のもとで統治が緩み、領内が衰微し若者も登用されず役人が不足したとして、帯刀に責任をもって改革させ、従来と変わらない場合は帯刀の落度とすると厳命した。
3月7日知政所(年は目録明治3年) / 冊子 744頁/原整理番号 966の2/整理ID 966-2
下庄内の安久村・後久村・小田部村・鷺巣村・寺柱村の五ヶ村を掲げ、その士族を梶山士族に兼ねる旨を伝える。民事総裁と地頭へ申し渡し、関係向々にも周知するよう命じる。三月七日知政所、年は目録の明治三年による。
3月(日不記)知政所(年は目録明治3年) / 冊子 744~745頁/原整理番号 966の6/整理ID 966-6
前田新之丞を下庄内地頭に任じ、当分の地頭所は従来どおりとし、諸県郡高城に在るよう命じる。続いて三嶋彌兵衛を高崎地頭に任じ、当分の地頭所は従来どおりとし、上庄内に在るよう命じる。三月知政所の周知文を伴い、年は目録の明治三年による。
9月(日不記、朱注明治3年)知政所 / 冊子 759頁/原整理番号 978の2/整理ID 978-2
梶山・勝岡を合郷として上庄内地頭の管轄へ移し、高原・高崎を合郷として小林地頭の管轄とする。合郷について別に申し渡したとおり、管轄も変更する旨を関係向々へ知らせる。九月知政所、明治三年の朱注がある。
9月(日不記、朱注明治3年)知政所 / 冊子 760頁/原整理番号 978の5/整理ID 978-5
黒田彦左衛門を上三俣・山之口・下庄内地頭に任じ、上三俣に在るよう命じる。関係向々にも知らせるよう求める。九月知政所、明治三年の朱注がある。
正応五年十一月卅日 / 冊子 368~369頁
島津庄薩摩方内伊作庄日置北郷の領家と地頭が所務相論を和与した文書。桑代、検断、地頭得分、雑掌・下司による抑留、建治・弘安年間の年貢米と色々の負担、寺社勤、入藍などを条別に定め、違背・訴訟を止めて双方が返付・弁済することを約す。
正応五年十一月卅日 / 冊子 369~370頁
伊作庄日置北郷の領家と地頭・下司名主両職者が所務相論を和与した文書。下司名主職、地頭得分、宮内伊与倉名の半職、田所惣公文屋敷田畠、寺田・井牟田・田神田などの知行と返付を条別に定め、奉行人が向後の証文として加判する。
正応五年十一月卅日 / 冊子 370頁
『伊作家久長譜』所収で、正文は手鑑にある。本文はNo.958と同文のため省略される。内容は、伊作庄日置北郷の領家と地頭・下司名主両職者が所務相論を和与し、下司名主職、地頭得分、宮内伊与倉名半職、田所惣公文屋敷田畠、寺田・井牟田・田神田などの知行と返付を条別に定め、奉行人が後日の証文として加判したもの。
正応五年十一月卅日 / 冊子 370頁
『伊作久長譜』所収で、正文は巻本にある。本文はNo.957と同文のため省略される。内容は、島津庄薩摩方内伊作庄日置北郷の領家と地頭が所務相論を和与し、桑代、検断、地頭得分、雑掌・下司による抑留、建治・弘安年間の年貢米と諸負担、寺社勤、入藍などを条別に定め、違背・訴訟を止めて双方が返付・弁済することを約したもの。
(寛永十三年)八月六日 / 冊子 552頁
使者と珍しい二種の贈物への礼を述べ、しばらく苦しんだ喉の病がここ三日ほど少し良くなったこと、七月二十日の便りが届いたことを知らせた仮名書状。
年月日未詳 / 冊子 646~647頁
北郷忠相の領地となった野々美谷城を伊東尹祐・北原方が攻撃した経過を記す。守兵は城に籠もって射撃戦を続けたが、援軍が届かず兵糧も欠乏し、包囲の長期化で抗戦が困難となって落城した。城の帰属変化と庄内周辺の勢力争いを具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 649~650頁
『庄内平治記』が、北郷忠相と伊東尹祐・北原勢の対立を軸に、新納氏・本田氏を含む諸勢の動きを記す。庄内周辺の城攻め、援兵の動員、籠城側の兵糧欠乏、退却する敵への追撃を追い、複数の城と街道をめぐる戦況の変化をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 692~693頁
新納忠勝と伊東氏の抗争を記す『庄内平治記』記事。伊東勢が冷水・小鷹原方面に伏兵を置いたのに対し、新納方の要請を受けた北郷忠相が援軍を派遣して合流し、黒坂・横尾を経て梅北城戸口まで追撃した。津介忠次・池袋肥後らの戦死や両軍の損害、北郷方の戦功を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 713頁
伊東義祐ら三侯院方が梶山・山之口など高城周辺を押領しようとしたため、北郷忠相方が迎撃した合戦を詳述する『庄内平治記』。伊東勢の布陣に対して伏兵を置き、敵を誘い出して追撃した。双方の戦死者と首級、八代長州勢の反撃までを記し、高城をめぐる作戦と戦果を示す。
年月日未詳 / 冊子 786~787頁
天文九年、長倉上総介・能登守兄弟が伊東氏に背いて河南を押領したため、伊東義祐方が北郷忠相へ援軍を求めた合戦を記す『庄内平治記』。島津忠広も長倉方を支援し、清水城周辺で両軍が攻防を重ねた。各勢の布陣と進退を追い、長倉兄弟が敗北して地域支配を失うまでを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 862~863頁
『庄内平治記』が、本田董親が北原氏を介して勢力回復を図ったことから、北郷忠相・伊集院忠朗らとの対立が深まる経過を記す。清水・姫木方面で諸勢が出陣し、城と周辺拠点をめぐる交渉が合戦へ転じた背景と双方の動向をまとめる。
寛永十四年正月廿七日 / 冊子 632頁
庄内高城の東霧島六所権現宝殿一宇を造立した棟札。大檀主を島津家久・光久とし、地頭三原次郎左衛門重貞、奉行伊集院備前守久望、坐主性秀法印、大工武元兵右衛門尉清方を記す。
年月日未詳 / 冊子 659~660頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1661
島津氏側が、庄内と飫肥の郡境について、古来の山境・川筋・梶山村の利用実態と過去の境界取決めを挙げ、相手方が新たに主張する境筋を認めず、従来の境界を維持するよう求めた申立書。
八月4日~九月27日、帰還の回顧は十月初旬・6日も含む / 冊子 595~597頁/原整理番号 778/整理ID 778
忠義公の御系図。八月四日の村松城攻略、十日の忠義急上京召命、十一日の村上城攻略を記す。二十日から会津攻撃の軍議・玉井村等への進出を掲げ、二十一日の母成嶺、二十二日の猪苗代、二十三日の若松城攻撃、二十四日の外郭への退兵と持久攻撃を叙述する。羽州方面の戦況も記し、二十八日に忠義が上京の詔を受け、この時に主上東幸中の京都留守・参政・警衛を命じられたとする。同日の米沢藩降伏と上杉斉憲、二十九日の春日艦久保田港到着と庄内攻撃を記す。九月は五日の若松方面応援、十二日の関川寨、十五日の刈和野・十六日の羽州戦闘等、十八日の容保請降と二十二日の父子出降・九番小隊半隊護送を述べる。二十四日の各隊の凱旋を記し、一部の十月六日帰還や十月初旬の動きにも触れる。九月二十七日の庄内藩主酒井忠篤降伏、薩州諸隊の入城と凱旋で終わる。戦果・降伏経過と敵対語は系図側の叙述として示し、他報告との重複集計はしない。
No.778の八月28日以降~九月27日等の続き / 冊子 596~597頁/原整理番号 778(続き)/整理ID 779
No.778の系図記事の続き。米沢藩の降伏、春日艦の久保田港到着、九月の会津・羽州方面の戦況、容保父子の出降・護送、庄内藩主の降伏と諸隊の凱旋を収める。全文はNo.778にまとめて整理した。
巳十一月29日上村休助取次(年は目録明治2年、希望文) / 冊子 716頁/原整理番号 940/整理ID 940
御布達留。巳十一月廿九日上村休助の取次で伝えた希望文。庄内表検地に用いるため鹿児嶋士族等の屋敷検地帳を渡してほしいと申し出る。居屋敷限度を千五百石以下三反・五百石以下二反・二百石以下一反としたいとし、宅地の税地との関係から屋敷高を引き結び、無代銀で軍役高へ加え、過上分は定価で売捌き、従来無高の所持者も屋敷高を書き出し米を納める扱いを求める。但書では附添地や余人名を借りる居屋敷を取止め、余分所持を期限付きで売払う希望を記し、上屋敷壱貫目位、中下屋敷貳三百目ずつ少目という原価格表現を掲げる。反数・石高・価格・上納と提案段階を区分し、決定施行済みや実売却総額、現代面積貨幣換算は補わない。
年月日未詳 / 冊子 83~94頁/原整理番号 64
庄内の複数の戦場・日付について、各衆の分捕、高名、手負、戦死、弓・鉄砲・槍・刀の働きを人名や人数別に記す。高城口・守田口・志和知口・野の三谷などの戦功と損害に加え、御供衆・本番衆・御使番衆・留守番衆等の編成を収める。日付の前後や同名再掲を含む複数の書上であり、単一戦闘の総死傷者名簿ではない。
亥11月15日 / 冊子 372頁/原整理番号 188-4
蒲地八左衛門本だけにある末尾異文で、蒲地家の由緒と庄内弓戦中の討物を二条記す。第一条は、曾祖父蒲地四郎左衛門の嫡子八左衛門が、甫心の代に庭の梅が満開の折、島津家久から梅の枝に短冊を付けた詠歌『とりあへす年をふれし雪の木すへの梅香に/一首侍ぬちとせの春をかさしてそ見る』を与えられ、短冊を現に所持すると伝える。第二条は東郷重位弟子衆の科人討伐覚書の抜書で、庄内弓戦中、敷根上之段に潜む相場主税を讃良善助の情報で討つ際、蒲地四郎左衛門が機織具に阻まれて侵入が遅れ、主税の太刀で左臂などを斬られながら添指で斬り、仕留めた経過を記す。亥十一月十五日付、蒲地八左衛門の署名を持つ。
目録年月日記載なし / 冊子 432~433頁/原整理番号 50
『庄内平治記』の抄として、同三十四年十月二十七日に山東須田木で北郷右京亮義知と樺山次郎知音が戦死したことを記す。年次は直前の応永記の記事を承ける。
永仁五年七月五日 / 冊子 381~382頁
伊作庄内の神事用途と本家年貢を先例どおりに沙汰するよう命じ、領家・院家側の所務との関係を示した関東御教書。
文政4年1月5~11日(年は朱書) / 冊子 594頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1783
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。1月5日、備前守側の用人使者から、酒井左衛門尉の弟録之助との養子相談は年齢・縁辺の都合で断り、男子がないため、今春の休暇中に「國中達變」があれば桃次郎の家督相続願書を出したいので許容してほしいと相談があった。備前守には黒田斉溥、左衛門尉には庄内藩主忠器、桃次郎には重豪の男子・後の斉溥の注がある。6日に酒井十郎太夫の使者へ詳しく承知し差し支えないと返答。豊後守にも同じ話があり、翌日同様の返答を使者へ伝えた。9日に仮養子が成立し、備前守から留守居使者をもって鯛一折が届き、桃次郎には織物五巻(品名原字は「綱紗」と読めるが確定を留保)・肴一折・樽一荷が祝いとして送られた。11日にはこちらから備前守へ鯛一折を贈り、豊後守と溪山からも各鯛一折を送った。桃次郎からは羽二重五巻・干鯛一箱・樽一荷を留守居使者で贈った。豊後守には斉興、溪山には斉宣の注。朱書に文政四年。相談、承諾、仮養子成立、相互の贈答を分け、条件句「國中達變」の具体的な意味は留保する。
年月日未詳 / 冊子 57頁
「御家譜増補中」。康安二年六月の島津上総入道道鑑の文言を引き、三箇国が島津庄内の国々であることを示す。
嘉禄三年十月十日 / 冊子 155頁
将軍家が左衛門尉惟宗忠義に、亡父忠久の譲状どおり薩摩国島津庄内の地頭・守護職、伊作庄、河辺郡・指宿郡、信濃国太田庄内小嶋・神代・石村・津乃など十二か所の所職を安堵した下文。
弘安八年七月三日 / 冊子 325頁
亡父・下野守久経法師の譲状等に基づき、薬寿丸が信濃国太田庄内神代・津濃両郷と薩摩国日置庄内伊作庄の地頭職を、母一期の後に領知することを認めた将軍家政所下文。
正応四年八月廿八日 / 冊子 363~364頁
故濃谷平五郎致重の遺領をめぐる女子辰童と妹弥陀童の相論を裁いた関東下知状。相模国吉田庄内藤意立野、薩摩国清色村、筑前国下長尾田などについて、父の処分状・譲状と双方の主張を検討し、姉妹の配分と知行を定める。
元徳二年六月十八日 / 冊子 578頁
鹿児島郡荒田庄内の用作田二町について、当年の御恩所領として伊賀法橋房所へ早く領掌させるよう命じた道壮の奉書。
正慶元年八月日 / 冊子 601頁
阿波国大野新庄内北方田島の在家・山海・荒野等に関する文保二年の正文を焼失したため、渋谷重頼らが先祖以来の知行と譲与を確認し、願證・定意・定秀・定阿・重頼の連署で証明した紛失証状。
建武五年正月廿四日 / 冊子 705頁
島津大夫判官宗久に信濃国太田庄内大蔵郷の地頭職を与え、早く領知して沙汰するよう命じた足利尊氏下文。
建武五年正月廿四日 / 冊子 708頁
島津大夫判官宗久に信濃国太田庄内大蔵郷の地頭職を与え、早く領知して沙汰するよう命じた足利尊氏下文。No.1993の異本。
暦応三年三月廿七日 / 冊子 729頁
日向国島津庄内宝満寺の塔婆を六十六基の一つとして所司に興隆させるよう寺の長老へ命じた足利直義御教書。
寛元2年8月18日 / 冊子 331頁/原整理番号 130-2
将軍が薩摩国島津庄内市来院の住人へ出した寛元二年八月十八日付袖判下文。養祖母が同年七月十九日に作成した譲状に基づき、千与熊丸を市来院の郡司職に就け、先例を守って職務を沙汰するよう命じる。譲状の傍注には、養祖母に男子がなく、禅師腹の子以外は権利を主張できない旨を記す。同文が『旧記雑録』前編一四二四号文書にも収められるとの注記がある。
慶長四年八月十八日 / 冊子 393~394頁/原整理番号 148
島津惟新の書状案。庄内の騒動をめぐり、伊集院方との和議、家中の事情、内府・龍伯らへの報告を述べ、相手方の意向と今後の処置を伊東豊後守に伝える。慶長四年八月十八日付。
年月日未詳 / 冊子 660頁
本田氏領曽於郡の土卒が北郷忠相へ通じ、忠相が北郷左京亮・加茂民部らを清水へ派遣し、新納勢とともに城を攻略して曽於郡を領有し、北郷久利を地頭とした経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 706頁
享禄二年十一月二十八日、北郷忠相と本田氏が春山原で合戦し、本田方の兵五十余人を討ち取ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 708頁
本田方が郡城を奪回しようと攻めたため北郷忠相が援兵を送り、城兵とともに撃退したこと、その後の西城・屏涯などの攻防を記す。