比志島国貞・伊勢貞昌連署書状
四月十日 / 冊子 41頁
比志島国貞と伊勢貞昌が、川辺宝福寺領内の加世田小湊にある塩屋について連署した書状。塩屋の加子役を免除する一方、その地で殿役などが課される場合は確実に勤めるよう申し付ける。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
78 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
四月十日 / 冊子 41頁
比志島国貞と伊勢貞昌が、川辺宝福寺領内の加世田小湊にある塩屋について連署した書状。塩屋の加子役を免除する一方、その地で殿役などが課される場合は確実に勤めるよう申し付ける。
年月日未詳 / 冊子 917~918頁
『島津義久譜』が、九月十三日に義久方が脇元方面へ進んだ戦況を記す。梅北宮内左衛門・川辺衆らが民家へ放火して帖佐方の兵を誘い出し、出撃した敵と交戦して退けた過程と、諸隊が岩剣城包囲を続けた動きを伝える。
年月日未詳 / 冊子 756頁
天文六年四月以降、実久・加世田方との和睦と所領処置、伊集院・鹿児島・谷山・吉田方面の統治や防備について記す。
年月日未詳 / 冊子 775~776頁
谷山神前城攻撃の相談に基づき、伊集院某ら二手の軍勢が火を合図に夜襲した経過を述べる申状。城内へ突入して守兵と戦い、負傷しながら味方と合流した働きを記す。忠良・貴久へ軍忠を報告し、戦功に応じた恩賞・知行を願う。
永禄十年十一月以後 / 冊子 177~178頁
新納忠元が馬越城で四度の槍合わせを行い、狩俣で負傷したことを回想する。馬越城陥落後も大口城が球磨勢の加勢で持ちこたえたため、市山城の守備を貴久から命じられ、蒲生の知行を与えられた。大口が島津方へ入った後は地頭に任じられ、長年その職を勤めたとする。
応永七年二月 / 冊子 451頁/原整理番号 254
日新寺領の高七十六石余についての覚留。寺の願い、権利の由来と掛物免除の扱いを記録する。
二月十四日 / 冊子 133頁/原整理番号 219
川上久国・三原重庸が伊集院以下の諸地域へ、黄門様の養生のため好物の竹の子を献上するよう命じた廻状。各地に大名竹があるので周囲の土を掘って竹の子を採り、少しも遅延なく急送するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 340頁/原整理番号 33
十三日の辰刻から午刻にかけて、川辺・鹿児島の足軽が脇元の人家を焼き、出てきた敵を痩五郎坂で迎えたと記す日記。味方の足軽大将は梅北宮内左衛門と宅間与八左衛門で、川辺衆が交替して戦い、兄弟の隊も坂口へ向かった。敵が八つの群れで登るとの報告を受け、谷山衆などが弓で坂を追い下して、味方は支障なく引き上げたという。
年月日未詳 / 冊子 670~677頁/原整理番号 683
島原へ向かう軍衆が飯米を受け取るために提出した人数差出を写し留めた帳簿。諸士・各地域衆ごとに主従、人躰、夫丸、小者等の人数と正月の出発・米津などへの到着日を記し、飯米渡しの根拠とする。末尾では不足者や指出のない者、張紙に記した有馬在陣の外城衆を含めて集計し、合人数三千百六十八人を掲げる。
二月十五日 / 冊子 140頁/原整理番号 235-2
川上久国・三原重庸が諸外城へ、薩州様が今日着くとの有馬からの報を受け、猪鹿を捕って二十日・二十一日までに届けるよう命じた廻状。猪は雄猪を差し上げ、ほかに各地で得られる肴もできる限り調達するよう求める。
正徳六年三月八日 / 冊子 258~259頁/整理ID 650
三月八日、堀丹波守正勝が松平薩摩守へ、健勝の知らせを喜ぶ。先日の品川辺出火が芝屋敷付近と聞き、早速調べるよう命じた件について、屋敷側からの伝達を受けた礼状の趣旨を承知したと返答する。老女衆にも伝え、近習に披露を頼む。
年月日未詳 / 冊子 150~151頁
島津守久が父伊久の居城川辺城を攻めようとして平山に布陣した父子争いを記す。今川貞兼らが関わる中、島津元久は同族内戦への加担を拒み、守久方へ退陣を促した。元久が仲介によって衝突を避け、島津家内部の秩序を保とうとした経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 151頁
島津元久譜として、伊久方の勢力が衰え川辺も孤立するなか、伊集院勢が警固の兵を襲撃し、伊久が川辺を離れて元久を頼り薩摩郡へ退いたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 152頁
島津伊久と嫡子守久の不和から、守久が父の居城川辺を攻めるため平山に布陣した事件を記す。島津元久は父子どちらにも加担せず、守久へ軍を退くよう命じた。家督・所領をめぐる親子対立が武力衝突寸前となり、元久の介入で回避された経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 152頁
島津元久譜の記事で、No.510と同文のため本文を省略すると注記される。伊久・守久父子の川辺での対陣と、元久が加担を拒んだ事件を扱う。
年月日未詳 / 冊子 368~369頁
島津忠国のため菱刈三河守元隆が川辺で戦死したこと、川田三郎太郎義清が肥後津奈木の戦いで宗徒数十人とともに戦死したことを記し、いずれも年月不詳として考証を付す記事。
永享八年八月十日 / 冊子 376頁
島津好久が種子嶋殿へ、薩摩国川辺郡内七島のうち伊集院知行分の二島を祈所として宛行い、先例どおり領知するよう命じた宛行状。
永正十年正月吉日 / 冊子 602頁
加治木久恒が川辺宝福寺関係の熊峯へ、屋敷や田代などを寄進した寄進状。
年月日未詳 / 冊子 665頁
大田氏二代昌久の官途・号と、島津忠昌への川辺の居城献上、南郷・田布施への移住、大永六年十一月に島津忠兼から帖佐地頭職を与えられた経歴を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺の士卒と桑波田孫六らをめぐる勝久方との対立を背景に、日新方が武略によって南郷城を奪取し、地名を永吉と改めた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺に現れた桑波田孫六を先約どおり鹿児島へ迎え、翌十九日に羽狩のため山へ登る留守を機に南郷城を平定したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 774頁
天文八年三月二十八日、日新公が川辺古殿へ赴き、高城主鎌田加賀守の降服を受け入れたこと、四月朔日に本城へ戻って新納伊勢守に凱歌を教えたことを記す。
文禄2年4月6日 / 冊子 681頁
薩摩国川辺内の川口・城下・木場平・松木河原・野間口・四反田などにある田畠を、地名・旧給人・面積ごとに列挙した領知目録。 島津義久が袖判を加え、鎌田政近・町田久倍が連署して一乗院の領知を確認したもので、川辺地域の土地構成を具体的に追える。
文禄五年十二月廿三日 / 冊子 63頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺郡崎村・高橋村・谷山平川村などの土地を、村別の石高を示して充行った領知目録。
慶長三年九月十九日 / 冊子 238~239頁
『島津義弘譜』が、島津忠恒配下の寺山久兼が望津の守備中、明・朝鮮軍の兵力を偵察し、猛暑時に兵を川辺へ伏せて敵の人馬が水に入るところを鉄砲で一斉射撃し、多数を倒したと記す記事。さらに山谷に火を放って大軍が潜むように見せるなど奇策を重ねたため、董一元は九月十九日に晋州へ進出しても島津義弘の武勇と城の堅固さを恐れ、攻撃を控えたとする。
慶長四年三月七日 / 冊子 356頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺宮下村二百八十七石余と柏原内中別府村四百十二石余、合計七百石を宛行う。このうち五百石は加増、二百石は先年の配当時に知行不足のため上地した分の返地とする。
慶長五年八月廿四日 / 冊子 569頁
島津忠長・平田増宗・鎌田政近・比志島国貞が連署し、財部神社に関わる玉泉寺へ、薩州川辺の門前屋敷・田畠など計二段二畝、二石二斗を新知として宛行う目録。地目・面積・石高を列記し、慶長五年八月二十四日付で交付する。
慶長七年六月三日 / 冊子 818頁
島津忠長・鎌田政近・比志島国貞・樺山久高が連署し、薩摩国川辺郡田部田村・鹿籠村内の諸地、合計百四十三石余を加増として宛行った目録。
四月朔日 / 冊子 150頁
高野山蓮金院の快深・応秀が、蓮金院使僧の巡回先として薩摩藩領内の諸外城を列記した連署覚書。向島・垂水・鹿屋・新城・高隈・牛根・始良・大根占・田代・谷山・指宿・頴娃・川辺・坊津・加世田などを含む二十八外城と関係地を掲げ、在郷の衆中へ周知する対象を示している。
寛永廿一年四月二日 / 冊子 329頁
北郷久加ら四名が、川辺の山之寺客殿が破損したため再建勧進を行うことを許可し、領内の貴賤を問わず志に応じて寄進するよう命じた連署書下。
寛永廿一年四月二日 / 冊子 329頁
川上久国ら四名が、川辺山之内の山之寺客殿の破損に伴う造営勧進を許可し、領内の貴賤を問わず志に応じて寄進するよう命じた連署書下。No.391と同趣旨の再建勧進許可である。
元禄十四年十二月二十五日 / 冊子 336頁/整理ID 1113
長崎奉行の丹羽長守・大嶋義也が島津綱貴へ、福州からの唐船一艘が今月八日夜に川辺郡久志浦へ漂着し、番船を付け、破損した船具を修補して日和次第で警固付き送致するとの十二日付報告を承知した連署書状。従前どおり早々に長崎へ差し遣わすよう求める。
宝永六年己丑十一月十四日 / 冊子 879–880頁/整理ID 2881
島津久輝ら六名が神明別当抱真院へ、神明宮建立に伴う社領三十石を、川辺郡小野村・日置郡田布施池邊村・姶良郡帖佐松津村から寄進する旨を記す。No.2880の吉貴花押付き寄進状と異なり、具体的な村名と石高を列記する。
寛文二年十一月 / 冊子 449頁
上意により川辺山関係の支配を永く拝領させることを、原左衛門・町田監物の印判をもって認めた寛文二年十一月の島津光久朱印状。
年月日未詳 / 冊子 560~562頁
島津忠国の娘を母とする延久を大田氏元祖とし、川辺郡山田に居住したこと、昌久が川辺城を薩摩守重久へ献じて南郷・田布施へ移ったことなどを記した大田氏系図抄。
文安3年、天文23年、弘治3年4月19日、永禄2年6月16日、永禄9年10月26日、天正6年11月12日、文禄元年7月18日、慶長5年9月15日、慶長13年9月29日 / 冊子 13~17頁/原整理番号 4
本田氏十代家督・重恒(又二郎、信濃守、法名義翁)を祖とする系図。兄元親から家督を譲られ、島津忠国に仕えて家老となったが、国親の讒訴で家督を奪われ、文安三年の上洛中に清水城を攻略され、のち曽於郡で国親に殺された経緯を記す。後裔について、隅州菱刈院・穂北・伊集院・湯之尾等の地頭職、親貞の養子相続と関ヶ原後の新納旅庵との周旋、高城・蒲生・滝ヶ水・牛根・三之山・関ヶ原での戦死、朝鮮出兵・川辺地頭、婚姻・養子による諸家への分岐を収める。
年月日未詳 / 冊子 105~111頁/原整理番号 21-1
冒頭に大原・平野・住吉三社を御姓神として本地仏と祖先下向以来の守護祈願を掲げ、兼経以下の肝付・萩原諸流を展開する神名書上兼系図。中世部では兼元の応永十七年島津元久上洛供奉・足利義持拝謁・河内守任官・加治木陣没、萩原城・萩原館・萩原庄主、高崇寺・帝釈寺などを記す。近世部では兼隆・兼義の川辺から加世田への移住と島津忠良への奉公、島津義弘の飯野移住への供奉・七十三石拝領、兼通の飯野から出水・軸谷外城への移住と物主役、禁制宗旨を理由とする宝暦五年の出水から高山への移住を述べる。末尾は高山新留村・下之門・宮下村の居住を経て、甚五左衛門が寛政十年十一月十三日に三十四歳で高山を出奔し、家系が断絶したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 146~147頁/原整理番号 31
平清盛―重盛の流れを掲げ、資盛・維盛以下から実盛、国盛、時盛、兼盛、道清らを経て田代氏諸流へ展開する系図。時盛の代に当国へ下り、野上田・百引を知行し、源氏へ改姓して建部を称したとの伝承、兼盛が田代を号したこと、野峯崎・串良院の知行、宝光寺建立、高隈知行などを記す。宗次郎らの官途、島津忠昌・勝久期の加治木・帖佐における戦死と年齢・法名、鹿児島在住、川辺居住、慶長・元和・寛永・延宝期の生没記事を収める。また田代久助が島津元久の代、将軍として博多へ派遣される際に辞退したが、河蘇谷を副将として任ずる旨の御証判を元久から受けた逸話を付記する。
永祚元年、寛弘3年、文治4年、建久6年6月20日、承元4年5月、建暦元年4月28日、承久3年、弘安4年、元亨元年11月22日、建保7年4月10日、貞応元年5月13日、元弘3年7月10日、応永25年8月4日、正中2年、応仁2年10月29日、永享10年、長享元年9月24日、寛正6年3月27日、永正14年2月1日、天福元年10月22日、建長3年8月3日、文保3年6月20日、文和5年8月3日、応安3年、応永17年6月27日、明応4年7月2日、永正10年正月 / 冊子 190~199頁/原整理番号 66
入来家士・東郷善兵衛所蔵の古加治木家系図。藤原鎌足後胤とする忠平から実頼・頼忠へ遡り、一条院寛弘三年に経遠・顕経・経平の三人がそれぞれ肥後国菊池、駿河国池上、大隅国加治木郷へ配流されたとの由緒を記す。加治木へ来た経平は、男子のなかった本領主大蔵良長の後家方に迎えられ、その娘と婚姻し、春日大明神を氏社として奉斎したとする。後裔は親平の代に藤原氏から大蔵氏へ改め、加治木郷・木田村・吉原村・小山田村・満家院郡山村・薩州日置庄などの所領、加治木別府地頭職・大隅国検非違所惣官職、寺院別当職等の譲与・安堵を重ねる。系図は各代の官途・童名・法名・道号、婚姻・養子、分流、討死・病没、知行相伝を詳細に掲げ、帖佐院・鹿児島・肝付郡・牛屎などへの展開も記す。後代には氏平が大蔵氏を改めて藤原氏に復したとし、満久を島津豊後守季久の三男で実平の養子とする。十三代大和守久平は明応四年七月二日に忠昌公に反し、翌年二月の落城後に阿多へ移ったと記し、忠光・久恒らの系線と久恒による川辺宝福寺への田地寄進で終わる。
延久2年1月10日、永保元年8月7日、天文23年9月27日、慶長18年、元和6年、寛永9年、万治2年12月6日、元禄6年ほか / 冊子 290~293頁/原整理番号 113
三原氏の系譜を、藤原鎌足・不比等・房前以下の藤原北家から、道隆・隆家・経輔・政則を経て菊池則隆へつなぎ、菊池氏から分かれた経隆・経俊・経重以下の諸流として示す。経俊は筑後国三原城に居して三原を氏とし、経重は源頼朝から鞍馬と長光の御剣を賜ったのち筑後国三原城へ移住したと記す。後代には伊作・高城・曾於郡・大口・川辺・伊集院・加世田などの地頭歴、日新公・貴久公・義久公への歴仕、加判役・家久公家老への就任、国分移住後の三百石から元和六年四百五十石・寛永九年五百七十六石への石高推移を載せる。重次(一名重尚、平田左房介宗茂の二男)は天文二十三年九月二十七日に岩剣城で戦死し、重宗は朝鮮で病没、重種は朝鮮出陣・大坂役を経て神祖に謁し家久公の家老となったとする。婚姻・養子・法名・没年のほか、慶長十八年の知行高、万治二年の御勘定奉行記事、元禄六年生まれの重次までを収める。
永正3年(平山村観音銘の傍注) / 冊子 339~340頁/原整理番号 130-24
川上忠塞家の系譜・姻戚・地頭歴を記した家譜抄。永正三年の平山村観音銘に当村地頭の河上掃部助栄久・同又八郎義久が見えることを掲げ、川上信濃守の女子七人が川上・町田・喜入・石谷・市来各家などへ嫁いだ関係、町田伊賀守の孫にあたる町田出羽守存松斎や河上山城守・舟伴入道との続柄を詳記する。また川上信濃守が串木野・川辺・市来の順に地頭を務め、男子馬之允、帖佐宗善寺の僧、又左衛門、又六(のち将監)へ系統が続いたとし、十一代家林の法名を道舜と記す。『家わけ三』町田文書一六六号と同文と注記する。
4月11日 / 冊子 376~377頁/原整理番号 188-14
四月十一日、町田源左衛門久政が蒲地伊賀入道へ、移衆全員を公役に出すとの来札を了承し、ただちに申し渡すと回答した返書。当地から伊集院方面へ公役に出る者が多いため、当時伊作にいる公役人数を別紙に書き付けて持たせ、すでに解役された者は大野将右衛門来訪時に詳しく付け立てて渡したと伝える。追而書では、川辺の新城にいる山田藤内左衛門には蒲地側から事情を説明するよう求め、門前屋敷について比紀州の同意がないのではないかと懸念し、旧墨付を改めて見せる必要はないとの見方を示す。争論を長引かせず、存松が下した屋敷だとして申し遣わすよう助言し、当地で尋ねられても同趣旨で答えると約す。
年月日不記(慶長三年・天文元年などは各人の生没・事績年) / 冊子 630~639頁/原整理番号 114
平姓加世田氏の長大な系図で、桓武天皇五代の平良文を祖とし、村岡・鎌倉などの系線から薩州へ続くとする家伝、各代の婚姻・養子・官途・法名を載せる。景通を源頼光朝臣の四天王の一人とし、信道らを代々川辺の城主と記す。益盛には十三歳で肥後の首級を得たこと、高城での働きと知行加増の記事があり、忠吉には平治元年の追罰による琉黄島への流罪を記す。後代では家長が慶長三年に朝鮮国の番船で戦死し、子がなかったため景昌が跡を継いだとする。末尾の別紙には加世田新兵衛尉の朝鮮国での戦死、弟次兵衛の別家創設、折田清七郎三男を養子に迎えたことを記し、嫡流と分家の継承を補う。
天正二年十月十七日条ほか / 冊子 265~266頁/原整理番号 24の14
『上井覚兼日記』天正二年十月十七日条から、高江・川辺間の地頭移動案と有田氏の所領事情を抄出する。猿渡越中の出生・父猿渡藤三郎の戦死、加世田の村給付と地頭就任を関連記録で照合し、越中が加世田に居住した由緒を考証する。
年月日未詳 / 冊子 281頁/原整理番号 82
元久譜が、伊久と娘婿守久の不和、守久が川辺城を攻め、元久の加勢を得られなかった伊久が薩摩へ退いた経過を記す。伊久は高祖忠久以来伝わる小十文字太刀と鑓を元久に譲ろうとし、元久は伊久に実子がいるとして辞退したが、伊久は国と民の安定を理由に重ねて受領を求めた。元久が受諾すると双方の親類が受渡役となり、川辺両城の田間を役料に充てた。守久に伝来宝器を譲らず元久に譲った伊久の遠慮と、三州の権柄を元久が握ることを論評する。
年月日未詳 / 冊子 281~282頁/原整理番号 83
元久譜が、伊久の味方が減り川辺も孤弱となる中、坊津・泊津方面の反乱を警戒し、兵を出して守らせたと記す。伊集院が援助に来ないため兵士が勇を失い、村民も被害を受けた。伊久は在宅できず川辺を去って元久のもとへ赴き、薩摩郡へ退いたという。
年月日未詳 / 冊子 303頁/原整理番号 140
久豊譜が、久世と伊作勝久の和睦協議、久世の鹿児島訪問、川辺城の囲いを解かなければ死を覚悟するという申し入れを記す。本田伊賀守らと、居城を離れて命を保つことと公の恥辱との兼ね合いを論じ、幼い大太郎を守ることも相談したが、久世は川辺にとどまった。本文は応永二十三年五月十三日、久世が千手堂坊で三十一歳にして自害し、侍中太郎・本田伊賀守・小田原弾正ら十一人も殉死したとする。久世は当家の嫡流であり、その後の謀叛への関与は久豊の本意ではなかったとも述べ、剃髪して存忠と称したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 390頁/原整理番号 114
忠元が使衆として麑府にいた天正二年八月の記事。鹿籠と川辺の争論が収まらなかったため、十四日に上井覚兼らを遣わし、忠元と鎌田尾州のもとで裁決させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 390~393頁/原整理番号 115
天正二年八月以後の出仕・交渉・接待を記す日記の抄録。川辺で盗人孫左衛門をめぐって起きた鹿籠との争論を忠元・鎌田らと相談し、中書の内議を使者の忠元から聞く。隈城の四十町、山田三十町、天辰・田崎を交換する所領調整や、弓箭の談合、江月斎・和泉の使者への対応を続けて記す。頴娃や唐口の座席と接待、諸役と参加者、雑説をめぐる義虎や中書への報告も記録する。天草の使僧の太刀・厚板物・馬代などの進献、和泉・天草の和平交渉と所領の一部譲渡、使僧の返事についても述べる。
年月日未詳 / 冊子 152頁
島津元久譜の記事で、No.511と同文のため本文を省略すると注記される。伊久方の衰退、伊集院勢による警固兵襲撃、伊久の薩摩郡退去を扱う。