島津家久書状案
(寛永八年)八月十一日 / 冊子 227頁
薩摩守から徳川秀忠の不例を知らされ、さらに報告が届けば参府する覚悟で日向に船の手配を命じたと述べる。異変はなく早く快気するものと見込み、薩摩守からの続報を待つとして、老中四名に披露を依頼した島津家久の書状案。
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(寛永八年)八月十一日 / 冊子 227頁
薩摩守から徳川秀忠の不例を知らされ、さらに報告が届けば参府する覚悟で日向に船の手配を命じたと述べる。異変はなく早く快気するものと見込み、薩摩守からの続報を待つとして、老中四名に披露を依頼した島津家久の書状案。
(慶長五年)十一月廿二日 / 冊子 618頁
立花尚政が、島津方から重ねて二人の使者が来たため、その口上を黒田如水・加藤清正へ伝え、返答は使者に託したと報告する。井伊兵部へ使者を上せた旨も両者へ伝え、先勢が退いて上洛した情勢を踏まえ、図書頭らを上洛させ、黒田・加藤からも井伊へ申し上げる形がよいと提案する。
(慶長五年)十一月廿二日 / 冊子 618頁
立花尚政が島津忠長に対し、重ねて派遣された二人の使者の口上を黒田如水・加藤清正へ伝え、井伊兵部にも使者を通じて申し入れたため、先勢は退いて一同上洛したと報告する。忠長も上洛し、黒田・加藤から井伊へ申し上げてもらうのがよいと勧め、黒田の書状を持つ飛脚を水俣へ陸路で送り返すよう依頼する。
(慶長八年)四月廿九日 / 冊子 889頁
立花尚政宗茂が忠恒の無事な帰国を重ねて祝い、自身の処遇がなお決着せず迷惑している近況を伝える。忠恒から音信として銀子一枚を贈られたことに礼を述べ、先に忠恒の帰国祝いを飛脚で送ったこと、来秋の再上洛を待つことも記した。
(寛永九年)正月十四日 / 冊子 257頁
永井尚政が、相国から鷹の獲物の鶴が進上され家久が満足しているとの書状を拝見したこと、相国の病状には変化がないこと、詳しくは平田鹿野助が説明すると伝えた書状。
(寛永十一年)閏七月十六日 / 冊子 442頁
永井尚政ら三名が、領知朱印の頂戴に伴い、領内各郷村の石高合計を詳しく注記し、完成次第提出するよう命じた連署奉書。
(寛永三年)十二月五日 / 冊子 26頁
土井利勝・井上正就・永井尚政が連署し、将軍の鷹で捕らえた鶴を島津家久へ贈ることを知らせる。詳しいことは留守居の伊勢兵部少輔が伝えるとする。
寛永三年十二月五日 / 冊子 26頁
土井利勝・井上正就・永井尚政が、鶴と書状箱を江戸から薩摩国まで急いで確実に送り届けるよう、宿駅の関係者へ命じた達書。
年月日未詳 / 冊子 72頁
徳川家光が鷹狩で獲た鶴を島津家久へ贈ったことを記す。森川出羽守重俊・青山大蔵少輔幸成・永井信濃守尚政・土井大炊頭利勝らが命を受け、十一月十一日に連署奉書と宿次を整え、江戸から薩摩まで遅滞なく届けた。
年月日未詳 / 冊子 170~171頁
寛永七年九月十日、将軍家光が十四日に西丸で島津家久へ茶を賜う意向を示し、森川宗俊・青山幸成・永井尚政・土井利勝の連署奉書によって登城を命じたことを記す。
(寛永七年)九月十三日 / 冊子 171頁
翌十四日に西丸で将軍から茶を賜うため、心得て登城するよう命じた森川宗俊・青山幸成・永井尚政・土井利勝の連署書状。
(寛永十二年)二月朔日 / 冊子 471頁
内藤忠重・安藤重長が、前年京都で島津家久が御朱印を頂戴し、領国高を記した帳簿を提出した件について、帳簿を受領して上申したので安心するよう伝えた連署書状。永井尚政は不在のため加判していない。
(慶長五年)十一月廿二日 / 冊子 619頁
黒田如水が、立花左近の申し入れにより派遣された二人の使者の口上を了承したと伝える。当初、加藤主計頭が軍事行動を起こす予定だったが、井伊直政・山口勘兵衛を通じて釈明することになったため行動を止め、同道して上洛するとし、上方での取りなしに疎意なく尽力すると保証する。
(寛永五年)十一月十一日 / 冊子 72頁
土井利勝ら四名が島津家久に、将軍の鷹が捕らえた鶴一羽を送ると通知し、詳しくは留守居から伝えるとする連署書状。
十一月十一日 / 冊子 72頁
No.186と同内容の連署書状。本文では重複のため一通を省略すると注記されている。
寛永五年十一月十一日 / 冊子 72頁
江戸から薩摩国まで鶴一羽を羽根などが損なわれないよう、急いで届けることを宿継担当者へ命じた四名連署の達書。
(寛永七年)三月廿七日 / 冊子 136~137頁
土井利勝ら四名が、翌日に西丸で催される御能を見物するよう上意があったため、早々に登城するよう島津家久へ通知した連署書状。
(寛永八年)八月三日 / 冊子 223~224頁
徳川秀忠が春と同様の病状を呈したが、灸などで快方に向かっていると伝える。見舞いのため家久が江戸へ参府することは固く無用との秀忠の意向を、酒井忠世ら四名が連署して知らせた書状。
(寛永六年)二月廿九日 / 冊子 83~85頁
徳川家光の病状と登城・見舞いの扱い、年始・歳暮使者、献上品、在府家臣への指示をまとめた覚書。将軍への拝謁、使節の帰国、鷹・茶道具・植木などの献上と受取、国元への連絡を条項ごとに記す。
年月日未詳 / 冊子 273頁
六月朔日、在府の諸大名が登営し、加藤忠広の子・豊後守の不臣謀略と父子に対する糾問結果が告げられたことを記す。子は死一等を減じて金森出雲守に預けられ飛騨国へ配謫され、父忠広は肥後国を没収され、羽州庄内で酒井宮内大輔に預けられて一万石を賜った。さらに家久に薩摩・肥後国境の妨行を禁ずる命令が下ったとする家久譜の記事。
永禄元年3月19日、文禄元年、慶長5年1月12日、元和元年5月、明暦3年9月17日、元禄7年、天保7年7月ほか / 冊子 278~280頁/原整理番号 109
都城臣上原甚左衛門家について、上原宮内左衛門の父・長門守以来の北郷氏への奉公と近世の子孫をたどる系図。父祖は豊州家に仕えて飫肥へ移り、北郷忠親が豊州家を継いだ後に北郷氏へ臣従したと伝え、宮内左衛門は永禄元年三月十九日、北郷時久に従って肝付氏と恒吉宮ヶ浜で戦い死亡し、法名を長阿弥陀とする。宮内左衛門の戦死後、時久の許可で養子となった野崎丹後左衛門入道正金の嫡子は、天正年間に旧地回復の使者として二十八人を率いて飫肥へ赴き、文禄元年には北郷忠虎に従って朝鮮へ出陣した。さらに慶長五年茶園尾陣で没した齊次郎、元和元年に北郷忠能に従い大坂へ出陣した尚保、尚貞・尚盛・尚明・尚時・尚純・尚次・尚侍・尚政・尚常らの出生・没年、法名、婚姻・養子関係を収め、末尾に元禄七年の再撰書出から抄出した略系を天保七年七月に伊地知季安が記したと明記する。
巻八/冊子 114~117頁
寛永八年、家久の大隅守任官と嫡子忠元の元服・光久改名、将軍による旧領安堵を記す。秀忠は家久を大隅守に任じ、忠元に松平氏と「光」の偏諱を与えて松平薩摩守光久とし、侍従・従四位下に叙した。弟たちも式部大輔・玄蕃頭に任じられ、父子兄弟は秀忠・家光から国綱・左文字・長光などの刀剣を拝領する。これに対する謝礼として、家久・光久・弟たちが将軍家・大御所および酒井・土井・永井・内藤ら幕閣へ贈った太刀・小袖・銀の明細を列記する。秀忠死去後の寛永十一年、島津家は薩摩・大隅・日向諸県郡・琉球諸島を合わせ七十三万二千余石とする領地目録を提出し、家光は旧朱印を改め、薩摩・大隅・諸県郡六十万五千石余と琉球十二万三千七百石の領有を認める朱印状を与えた。光久への代替わり準備と、幕府公認の島津領域・石高を示す記事である。