殉国名藪
年月日未詳 / 冊子 26頁
『殉国名藪』が、貞治元年四月十六日に香登孫六政平が高江牟礼城で戦死したことを記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 26頁
『殉国名藪』が、貞治元年四月十六日に香登孫六政平が高江牟礼城で戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 510頁
文明十六年の田野・飫肥・三俣方面における伊東方と新納・島津方の戦闘を日付順にまとめた殉死者記事。入佐孫六、伊東祐国、新納忠続、西牟田三河守、佐多忠山らの出陣・戦死を戦場と対応させ、連続する合戦で生じた人的損害を記録する。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺の士卒と桑波田孫六らをめぐる勝久方との対立を背景に、日新方が武略によって南郷城を奪取し、地名を永吉と改めた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺に現れた桑波田孫六を先約どおり鹿児島へ迎え、翌十九日に羽狩のため山へ登る留守を機に南郷城を平定したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 721頁
天文二年八月十四日、忠将が南郷城を守るなか、桑畑孫六・末弘伯耆守ら三百余騎が来攻したため、忠良方と討ち合って敵兵を退散させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 95頁
永禄四年七月十二日の廻陣で島津忠将が戦死した際、肝付兼明の兄孫六・仲右衛門が竹原山で戦死し、掃部助は忠将を討ち取ったのち同月十七日に坂で切腹したことを記す指出。
永正十二年二月七日 / 冊子 606頁
No.1856と同日の犬追物について、別の初日二番の射手と射数を列記した手組。
永正十三年五月廿八日 / 冊子 610頁
永正十三年五月二十八日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
永正十四年九月十六日 / 冊子 615頁
永正十四年九月十六日の犬追物について、二日二番の射手と射数を列記した手組。
年月日未詳 / 冊子 714~715頁
天文二年、南郷で伊東勢と戦った島津忠朝方の攻防を記す国史記事。桑波田孫六・波田式部少輔らの働きと戦死、翌年の高城攻略、勝久方との対立、梶山・勝岡・山之口の攻略を諸記録・系図から集成する。南郷戦から庄内方面の城郭制圧へ至る戦線を追う。
(寛永15年)正月5日 / 冊子 562頁/原整理番号 575
鹿児島賦所が中郷衆中へ出した手形。島原加勢の人数三十八人を定め、鉄砲・弓・鑓、飯米、水船を用意し、指定どおり差し出すよう命じる。寛永十五年正月五日付。
五月十五日 / 冊子 11~13頁/原整理番号 6
桑幡孫六が、養父桑幡久右衛門の家の由来と奉公歴を記した覚書。久右衛門の父牛屎刑部太夫が求摩で戦死し、二歳の久右衛門を連れた母が島津惟新を頼って平松の松平隠岐守家に仕えたこと、成長後の久右衛門が駿河・江戸への供奉、国焼の茶入進上、銀子二枚の拝領を経験したことを述べる。牛屎を本姓、桑幡を小名字とする由緒と、文治三年から建武四年までの所蔵文書八通も列挙する。
年月日未詳 / 冊子 750頁
天文五年九月から十一月、伊集院忠朗を大将とする軍勢が大田原の柵や橋をめぐって夜襲・放火を行い、敵兵を討ち取った戦闘を記す。
建武三年六月日 / 冊子 668頁
薩摩国牛屎院の篠原孫六国道が、肝付兼重以下の凶徒追討で五月六日から六月十日まで加世田城に馳向し、日夜合戦・軍忠を尽くしたことを述べ、注進・披露と恩賞を求めた軍忠状。
建武五年七月日 / 冊子 713~714頁
本田次郎左衛門尉久兼が八幡城攻めで軍忠を尽くした軍忠状。六月廿七日に楯籠へ向かい、九日に洞塔下で合戦、城郭を押し寄せて自南手から攻撃し、小笠原孫六・愛甲九郎らと同所で戦ったことを述べ、見知と証判を求める。
延元3年2月5日(1338) / 冊子 455~456頁/原整理番号 14-11
指宿彦次郎入道成栄が、前年二月十七日に薩州御大将・三条侍従が下向した際、綸旨に従って最前に馳せ参じ、以後数十度の合戦に参加した軍忠を申告する延元三年二月五日付軍忠状。島津上総入道道鑑一族、大隅五郎兵衛尉子息孫六・頴娃三郎らに言及し、成栄の子息次郎をはじめ一族・親類・若党数人が戦死したこと、市来院後巻では代官高野中務丞朝久が激戦の末に分取を遂げたことを述べ、絶え間ない軍忠の後証となる一見状の交付を求める。
建武五年七月日 / 冊子 10頁/原整理番号 186
本田久兼が八幡城方面での軍忠を申告した文書。六月二十七日から八幡城へ向かい、七月九日に敵が城郭を構えて籠る所へ南手から攻め入り、分捕を遂げたことを小笠原孫六・愛甲九郎が見知したとして、一見状を求める。建武五年七月付。
元徳二年三月十一日 / 冊子 575頁
山田野孫六入道覚心の申状により、肥後国天草嶋内山田の所領について、御教書どおり早く沙汰を実施するよう命じた規矩高政の施行状。
天明三年正月十一日~天明四年三月十五日(記事中の経過) / 冊子 737~738頁/原整理番号 2080/整理ID 2080
前年癸卯の正月十一日に南林寺で火災が起き、客殿まで焼けた。来訪中の蒲生郷士大脇孫六と住持泰禅は島津貴久(大中公)の影像を持ち出し、火災後は福昌寺に移した。その年七月二十六日に南林寺の再建工事を始め、翌春三月十日に落成した。十五日に影像を福昌寺から南林寺へ戻し、重豪は島津又六郎久良を、虎寿丸は大島休左衛門久章を大中公廟への参拝に遣わした。
(寛永9年)12月14日 / 冊子 36~37頁/原整理番号 39
山田七郎右衛門尉ら三名が川因幡守へ、本丸・二之丸の間を埋める普請、堀や出入口、五つの口の守備配置と昼夜の巡回を報告する。紀之国様・尾張様の不和や兵具用意の風聞、江戸飛脚、伊東殿の帰宅、秋月殿の福島到着予定も伝える。八郎ヶ野番衆の海老原源助から孫六へ状況を伝え、急変時に連絡する段取りを記す。
年月日未詳 / 冊子 125頁/原整理番号 466の1
武蔵国榛沢郡野辺郷内地頭職の相続分について、以前の事績を繁雑として省き、当要に必要な系統だけを抜記した系図。野辺次郎左衛門入道成願・野辺次郎入道阿念から、野辺孫六郎左衛門尉久盛、野辺孫七盛忠、愛寿丸(当時の野辺孫太郎泰盛)へ至る相続系統を示す。
永正十二年五月廿九日 / 冊子 137頁/原整理番号 60
永正十二年五月二十九日の犬追物手組。島津太郎左衛門尉・島津助六・税所左衛門尉・桑波田孫六・加治木刑部少輔らの射手を列記し、検見を加治木筑前守、喚次を伊地知四郎左衛門尉とする。
永正十三年 / 冊子 138~139頁/原整理番号 65
永正十三年と記す犬追物手組。島津殿・廻兵部少輔・本田三河守・桑波田孫六・税所左衛門尉らの射手を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を加治木筑前守とする。本文に月日は示されず、犬数もない。
永正十六年八月十日 / 冊子 140頁/原整理番号 70
永正十六年八月十日の犬追物手組。島津殿・廻兵部少輔・本田三河守・桑波田孫六・平田五郎左衛門尉らの射手を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)・島津左衛門尉、喚次を加治木筑前守とする。射手別犬数は記さない。
巻一/冊子 5~6頁
勝久方へ転じた知覧・川辺の兵や桑波田孫六らに対し、忠良が宴の隙を突いて南郷城を奪い、永吉と改めたことから始まる。勝久が忠良討伐を企てると園田五郎兵衛尉が密告し、貴久は永吉城へ入り、忠良も田布施から急行して守った。帰参した山田式部少輔は過去の背反を後世への戒めとするため伊作で処刑され、漢高祖が丁公を斬った故事によって正当化される。後半では、勝久が末弘伯耆守ら佞臣を重用して政治を乱したため、川上大和守ら旧臣十六人が諫書を出し、末弘を谷山皇徳寺で討つ。勝久は首謀者の川上を殺すが、実久も勝久に背き鹿児島を焼き、勝久は帖佐・祁答院・北原などを経て豊後へ出奔したとする。
本文末尾:元徳元年十二月五日 / 冊子 661頁/原整理番号 〇二四/整理ID TMP-OF-P04-D024
天草余三入道蓮種の子息馬次郎入道淨種と山田野孫六入道覺心による、肥後国天草嶋内山田野・鷺崎(鷲崎候補保留)以下の地頭職の相論を扱う。 覺心に裁許された旨を記し、豊福彦五郎入道とともに現地へ赴き、下知状を守って覺心へ沙汰付けるよう、上津浦次郎太郎入道に伝える。
本文末尾:元徳元年十二月廿五日 / 冊子 662頁/原整理番号 〇二五/整理ID TMP-OF-P04-D025
山田野孫六入道覺心が、肥後国天草嶋内山田野・鷺崎(鷲崎候補保留)以下の所々について重ねて申し立てたことを記す。 下知状を守り、速やかに覺心へ打ち渡すよう、上津浦次郎太郎入道に伝える。
年月日未詳 / 冊子 2~5頁/原整理番号 1
秦始皇帝に発する大秦氏の由来と、弓月王の渡来説を経て建部氏・桑幡氏へ連なる系譜を記す。大秦元平が康和二年に貢節の功で薩摩国牛屎郡司職に補され、子孫が牛屎院郡司・弁済使職を相承して桑幡氏へ続くとする一方、伊地知季安は平維盛・平清盛の後裔とする諸家系図の年代矛盾を考証している。
永正十二年二月七日 / 冊子 135頁/原整理番号 55
永正十二年二月七日の犬追物手組。島津又六郎十九疋、税所左衛門尉十七疋、石井中務少輔九疋などの配当を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を大寺駿河守とする。
巻一/冊子 3~4頁
島津忠昌の子忠治・忠隆・忠兼(のち勝久)へと家督が移った経緯を述べ、忠兼の失政と実久との対立を背景に、島津忠良へ国政再建が託された事情を記す。忠兼は忠良に南郷を与え、さらに忠良の嫡男虎寿丸を養子に迎えるよう求めた。忠良は再三辞退したが命を拒みきれず、虎寿丸を鹿児島へ伴う。大永六年、忠兼が虎寿丸へ家督を譲り、虎寿丸は又三郎貴久と称した。記事は、島津氏の系譜、忠兼と忠良の盟約、貴久への禅譲を一連の家督再編として描き、国人がこれを三州安定の端緒として歓迎したと結ぶ。
巻一/冊子 6~7頁
天文五年、忠良父子が伊集院攻略を進め、伊集院大和守を将として大田原の塁を襲い、神殿・石谷・竹山などの拠点を相次いで服属させた。雨中の進軍時に火光のような瑞兆が現れ、稲荷大明神の加護と解釈されたことも記す。実久勢は鹿児島・谷山から川辺方面へ退き、忠良は実久と会見して、伊集院・鹿児島・谷山と加世田・川辺の交換による和睦を提案したが、実久は応じず、祁答院らと再び謀略を構えた。天文七年、忠良父子は蜘蛛の瑞を得て加世田へ出陣し、本城を急攻して落とし、新城も激戦の末に攻略した。富松左京亮・大山宮内少輔・阿多飛騨守ら実久方の戦死者と、市来備前守ら忠良方の戦死者を列挙し、忠良の祖父久逸が戦死した地で宿怨を晴らした戦いとして位置づける。
年月日未詳 / 冊子 661頁
肝付兼重方の軍勢と足利尊氏方の戦いを記す伝。牛屎彦太郎兼隆が兵を率いて加世田城を攻め、公師兵を入れて肝付勢を隔て、条原孫六・大隅助三郎・冨光九郎らを派遣して加世田城・姫木城等を攻略した経過と、軍勢催促・恩賞を述べる。
年月日未詳 / 冊子 663~664頁
肝付兼重方と尊氏・島津方の建武三年五月以降の戦闘を記す伝。加世田城・姫木城・岩戸原・石城等で、島津貞久、条原孫六国道、莫祢次郎太郎政長、伊集院・平田・祢寝・石河内氏らが攻城・救援・追撃を重ね、被疵・戦死・城郭奪取に至った経過を日付順に述べる。
正平七年閏二月十日 / 冊子 817頁
ひのかわ後家尼が、向島上山名の所領や山寺・田畠を上山の孫六五郎方へ譲る。自身の存命中は知行を保ち、没後に相続させること、兄弟・親族の介入、扶養、所領の処分を仮名書きで定めた譲状。
(貞享四年)七月廿八日 / 冊子 793頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2086
伊地知八右衛門重興が是枝治部右衛門・新納仲左衛門へ、五月十六日付状を受けた礼を述べ、虎徳誕生の祝儀について葉瑞孫六が江戸に登り、使者の役目が首尾よく済んだことを喜ぶ。内匠の御子方と又八も堅固である旨を喜び、自身は現在大坂にいると伝える。