重豪が富之進の急婿養子の申入れを承知した旨を奥平方へ伝える
天明六年七月二十八日 / 冊子 869~870頁/原整理番号 2404/整理ID 2404
奥平大膳大夫が病気のため万一に備え、妾腹の女子へ重豪の二男島津富之進を急婿養子として迎えたいと申し入れた件について、重豪側は酒井縫殿頭からの申入れを承知し、その意向に任せるので奥平方へ伝えるとする。朱注は七月二十五日に酒井を通じて受け、二十八日に相良壱岐守を介してこの口上書を奥平方へ遣わしたと記す。幕府への願書とその許可とは区別される。
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天明六年七月二十八日 / 冊子 869~870頁/原整理番号 2404/整理ID 2404
奥平大膳大夫が病気のため万一に備え、妾腹の女子へ重豪の二男島津富之進を急婿養子として迎えたいと申し入れた件について、重豪側は酒井縫殿頭からの申入れを承知し、その意向に任せるので奥平方へ伝えるとする。朱注は七月二十五日に酒井を通じて受け、二十八日に相良壱岐守を介してこの口上書を奥平方へ遣わしたと記す。幕府への願書とその許可とは区別される。
文化11年正月廿三日(朱年注) / 冊子 436頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1358
重豪公御譜中・正文在文庫。要之丞殿(家斉男注)が右衛門督殿(田安斉匡注)の婿養子となるよう仰せ出されたことへの祝儀として、鯛1折を献上した件を披露したところ一段御仕合であったと知らせる。文化11年朱注、正月廿三日、忠裕判、松平榮翁宛。口裏の青山下野守忠裕と在口裏朱注を区別する。婿養子決定の具体日や婚礼済は補わず、要之丞の後年名へ置換しない。目録は青山忠裕書状で、入力の「害状」を修正する。
文化11年正月廿三日(朱年注) / 冊子 436頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1359
全上。要之丞殿が右衛門督殿の婿養子となるよう仰せ出されたことへの祝儀として鯛1折を献上した件を披露したところ一段御仕合であったと知らせる。文化11年朱注、正月廿三日、乘保判。次の下段に続く松平榮翁宛、口裏の松平能登守乘保・在口裏朱注まで連結する。前書1358の家斉男・田安斉匡という人物注は本書の独立注ではないため、原呼称で採録する。養子決定への祝儀と書状発給日を分け、婚礼完了とはしない。
享保二年四月十八日 / 冊子 312~313頁/整理ID 810
桂織部久祐の二男桂権九郎勝之が、幕府の許可を得て三枝丹波守の婿養子となったことを記す記事。四月十八日付。
安永元年辰十二月十九日 / 冊子 349頁/原整理番号 976の11/整理ID 976-11
浄岸院の親類について確認したい事柄を記し、付札の回答を朱書で残した覚書。寿光院は清閑寺前大納言の兄弟と聞くが、妹であったかを問い、付札には妹とある。冷泉侍従宰相と藤波三位については、浄岸院の兄弟のうち冷泉家・藤波家へ嫁いだ方々との続柄を尋ね、両人の「御懐様方」が浄岸院にとって姉か妹かを問う。付札は、実方の妹久姫が冷泉家へ嫁ぎ、当冷泉侍従宰相・藤波三位・留姫の三人が生まれたこと、冷泉家の次男が藤波家へ婿養子に入ったことを示す。勘解由小路権大夫を「御又娚」とする記載に対しても、浄岸院の兄弟の孫に当たるのか、誰の家の孫なのかを問い、付札には勘解由小路家へ嫁いだのは姪の留姫とある。末尾に辰十二月十九日、児玉早之丞の署名。御前へ差し上げたところ、御守殿年寄へ問い合わせがあり、付札で返答されたので朱書で記録したと付記する。
文化14年6月29日(出生)/天保3年・6年(養子・入邸・改名等) / 冊子 507頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1549
近秘野抄、見出しは斉宣公御子。定穀にヨシの傍記があり、初名久博、勝之進、千松、刑部大輔、隠岐守を掲げる。文化十四年丁丑六月二十九日江戸生、母は島津樺嵐久迅の養女、実は橘川次郎兵衛時吉の女と記す。天保三年壬辰正月に久博と名づけ、七月二十日に松平隠岐守定通の婿養子となり、八月二十八日愛宕下邸へ入る。十月に千松、十二月に刑部大輔へ改め、天保六年乙未八月に隠岐守へ改めたと記す。1548の斉興系図と本件斉宣見出し、母の養父名久尹/久迅の表記差を残し、本文の出生年月日・婿養子・入邸・各改称を別段階として採録する。
天正5年、天正13年、文禄元年、慶長5年3月28日、慶長11年、寛永4年8月14日、寛永14年3月5日、寛永17年10月7日、明暦2年10月5日、寛文7年11月28日、延宝6年、延宝8年、天和元年、享保11年正月11日、延享2年7月11日、元文4年4月24日、元文6年3月12日、寛保元年7月20日、寛保3年6月7日、明和8年6月27日 / 冊子 30~34頁/原整理番号 10
田布施士・篠原諸左衛門政盛家の庶流にあたる鎌田政香家の略系図。鎌田氏四代清重の二男・篠原清時から十代、篠原政明の二男に発する一流とし、政実は嗣子のない鎌田家へ婿養子として入り、実は上井薫兼の五男で上井覚兼の弟だったと記す。政徳・兼安以下の出生・没年、鬼塚・鎌田・曽木・義岡・伊集院諸家との養子縁組、婚姻をたどり、馬越・清水・小林、田布施・串木野、郡山・平松・中郷・坊津・清敷・帖佐などの地頭職、御使役・近習役を列記する。政親は島津綱貴・光久に近侍し、政興は島津吉貴から名・詞花集・伽羅三種と二重十文字紋を拝領して大御目付役を務め、寛保三年の隠居時に政恒が家督を継いだ。
延応元年8月11日、明和3年仲冬、寛永11年3月、天和元年11月12日、慶安元年閏正月24日、元禄2年、宝永6年7月13日、正徳元年10月9日、享保20年閏3月21日・23日、宝暦9年閏7月29日、宝暦7年4月12日、安永2年9月9日、安永7年正月11日・9月11日、天明2年正月11日、天明6年5月13日、天明7年5月27日 / 冊子 34~38頁/原整理番号 11
宮之原主膳通直家の略系図。『宮之原家譜』などを引き、畠山重忠の四男重俊、その子重弘が延応元年八月十一日に日州飫肥の宮之原へ下着し、地名を家号として諸県郡北郷を領したという由緒を掲げる。一方、重氏以前は系譜が欠け、古譜・文献にも確証がないため、伝承する「重」の一字を根拠に重氏を始祖としたとの考証を、明和三年に司譜官・息長清純が記す。重尚は福山氏からの養子で島津綱久の近習を務め、剣鱗紋を拝領した。重陳を経て江田国重の三男・重行(通貫)が婿養子となり、近習・船奉行・使番・御用人・山川地頭・組頭・勘定奉行を歴任する。通興は奥御小姓、郡奉行、高奉行、使番、江戸留守居、近習、側御用人、寺社奉行を務め、野田・大根占・頴娃の地頭となった。通直は目付・使番・御用人・寺社奉行・大御目付を経て、市来・伊作・高岡地頭、御勝手方家老・表家老に進み、天明七年に隠居した。
永禄四年七月十二日、寛永十五年、宝永元年三月三日~宝永五年閏正月十六日(主要記事) / 冊子 498~501頁/原整理番号 22-2
酒匂氏左衛門尉家の系譜・軍歴・伝来什物の家例を記す。新左衛門尉から治部少輔へ続き、日州目白坂で戦死した人物を置く。源左衛門尉は鎌田尾張守政年とも称し、島津義久に仕え、伊集院忠朗・島津忠将の移動に従った後、永禄四年七月十二日の竹原山合戦で忠将とともに戦死し、配下三十余人も討死した。景宗は義久から正嫡と認められ、肝属郡串良など八町を知行したが、肝属一郡が伊集院幸侃へ与えられると子らは蒲生、のち出水へ移った。景政を猶子、景明を婿養子とする家督継承、後裔の婚姻・早世・地頭職も載せる。酒匂家伝来の観音像と『天之御母衣』は、家督者が千日潔斎・七か月別火を行って一度拝し、太刀・樽肴を献じて藩主へ披露する家例であった。景明・景義の代に中断したが、景安が旧例復興を訴え、宝永元年三月三日に儀礼を再興し、宝永五年閏正月十六日には忠久伝来什物を収めた筥蔵の小番を代々務めるよう命じられた。
系図全体は無年次(寛永17年・正保4年・延宝6年・元禄7年などの出生記事を記載) / 冊子 602~603頁/原整理番号 105
前田右近・大炊之助・太郎四郎以下をつなぐ前田七郎右衛門家の系図。兼門の条は、寛永年間に自宅から火を出して証書などを焼失したため、右近より前の祖先は分からないと明記する。兼次が宮里壹岐正親義方に召し出された際の養子関係や、兼治が佐藤諸左衛門信實の婿養子となったことを記し、兼浮・兼貞らの出生年月日、官途、居住・婚姻先を続ける。女子の佐藤・河野・谷山吉井・堀之内・松下・鎌田・入佐家との関係や、養子を兄弟とする記述もあり、証拠文書の喪失と継承の事情が系図自体に刻まれている。
年月日未詳 / 冊子 169~171頁/原整理番号 513
串木野の肝付源六左衛門家系図。上世の出所は不明とし、僧元院・善行院・大仙坊・連光院を掲げる。大仙坊は本名を飛騨といい脇に居住、平左衛門は内之浦に居住したと記す。大仙坊に男子がなかったため休六を婿養子とし、以後、兼明(三左衛門)・兼次(五郎兵衛)から円次・仲七・三吉らへ至る母方・婚姻を列記する。
年月日未詳 / 冊子 171~172頁/原整理番号 515
内之浦の肝付五左衛門家系図。樋脇士・肝付善行院の三男平左衛門は元来清敷衆中で、約五十年前、平田豊前が内之浦地頭であった時に内之浦へ召し移されたという。兼寛に男子がなかったため白坂五左衛門篤盈の次男を婿養子とし、兼通(五左衛門)と名乗らせ、万次郎へ続く系譜を記す。
文明二年 / 冊子 470~471頁/原整理番号 71の3
島津忠国から立久らへ続く一流の系譜を書き抜いたもの。文明二年の聖栄自筆系図に見える系統を掲げ、末尾に丈之助が平上総介を婿養子として迎えた由緒を注記する。
永禄十二年三月十三日 / 冊子 213~214頁
島津義虎の二男忠隣に関する系譜記事。永禄十二年三月に出水屋地で生まれ、男子のなかった島津歳久の嫡女と婚姻し、歳久家を継承したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 145~146頁/原整理番号 489
宮之城の肝付七右衛門家の系図。肝付兼賢(初め兼延)以下、兼種・兼明・兼孝らの分岐を示し、兼明が永禄四年七月十二日に戦死して法名を寛心浄円居士としたこと、兼孝が同日忠節のため切腹したことを記す。後段は島津紹益への付人、加藤左衛門家への婿入り・跡目相続、婚姻・養子関係を経て兼郷・孫三郎へ至る。
年月日未詳 / 冊子 564~566頁
島津国久三男忠綱を祖とする大野氏系図。忠宗に男子がなく樺山久高を婿養子としたが、文禄元年に忠宗が誅されたため離縁となった経緯を記す。忠宗の娘妙春は上方生活の経験を買われ人質に供奉し、帰国後に家を再興して三原重鏡の二男久行を養子に迎えた。
年月日未詳 / 冊子 161頁/原整理番号 284-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が新納二郎四郎忠秀・大口地頭宮原壱岐守景之・高尾野地頭仁礼左近将監景頼・須木地頭村尾源左衛門重候を有馬の陣屋で饗応した。季安は、新納忠秀が大口地頭新納加賀守忠清の嫡男で、重政の婿養子・伊地知主膳重頼の実兄であるため饗応したのだろうと考証する。
年月日不記(慶長五年・寛永十四年・寛文十一年などは各代の記事) / 冊子 647~649頁/原整理番号 118
源姓畠山氏の頼国・盛淳から始まる略系図。盛淳は大乗院盛久の弟子として出家し、還俗後は家老職を務めて蒲生の地を賜った。慶長五年の関ヶ原合戦で西軍が敗れ島津義弘が危機に陥ると、盛淳が義弘の身代わりとなって戦死したと記す。子の忠栄は父の戦死時に三歳で、義久の許しにより祖父頼国の家財・田園を継ぎ、琉球奉行・山奉行・物奉行・横目頭を歴任した。後代には肝付家出身の忠朝が忠栄の婿養子として家を継ぎ、島津光久の十五男を後嗣とする別伝も記す。義方が詩文五冊を伝えたことや女子の婚姻、国張らに至る子孫も載せる。