『貴久公御軍記』加世田城合戦記事等抄并猿渡氏考証
天文七年霜月二十八日条ほか / 冊子 263~265頁/原整理番号 24の13
『貴久公御軍記』から天文七年霜月二十八日の加世田城攻撃を抄出し、猿渡筑前守らの戦功を記す。軍記・旧記・寺社記録と村山自伯家の伝承を照合し、猿渡宗阿弥の所領・奉公と、自伯家が宗阿弥流に当たるという系譜を考証する。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
20 件 (全巻)/ 1–20件を表示
ページ 1 / 1
天文七年霜月二十八日条ほか / 冊子 263~265頁/原整理番号 24の13
『貴久公御軍記』から天文七年霜月二十八日の加世田城攻撃を抄出し、猿渡筑前守らの戦功を記す。軍記・旧記・寺社記録と村山自伯家の伝承を照合し、猿渡宗阿弥の所領・奉公と、自伯家が宗阿弥流に当たるという系譜を考証する。
年月日未詳 / 冊子 759頁
天文七年、北郷忠相が財部院を奪還し、大崎城・安楽城などを攻めた戦役を諸譜からまとめる。島津忠朝・忠勝方との攻防、援軍と守兵の配置、各城の陥落を追い、攻城で戦死した家臣を列挙して、北郷方が庄内周辺の支配を拡大した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 760頁
天文七年、新納氏の没落後に四郎兄弟が日新方へ加わり、十二月二十九日の加世田城攻めで大寺越前守・鎌田加賀守・右馬頭忠将が軍功を立てたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 761頁
天文七年秋七月、宗子忠勝が城を失って一族・家臣が離散した際、十三歳の安萬が父祐久に従って田布施へ移り、梅岳君に仕えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 762~763頁
天文七年十二月晦日、日新公が軍勢を招集して加世田攻めを告げ、父子三人と選抜した兵が夜襲を敢行したことを記す。狐火を頼りに城壁へ密進し、激戦の末に新城を陥落させた。
年月日未詳 / 冊子 765頁
天文七年、北郷忠相が梅北城を攻めて掌中に収め、安楽・末吉・志布志方面へ戦線を広げた経過を記す。諸城の陥落、戦死者、豊州や新納忠勝らの移動も記録する。
年月日未詳 / 冊子 765頁
天文七年、十三歳の忠元が籠城中の志布志で領主北郷忠相らと攻防し、城を退くに際して父祖以来の家臣とともに戦った若年時の勲功を記す。
明応9年11月11日(久逸戦死時との注)、天文7年、寛永11年 / 冊子 178頁/原整理番号 58
伊東作太夫家の系図。祐康は井尻を号し源兵衛を称し、祐能は孫右衛門として伊作久逸に仕え、加世田で戦死したと記す。傍注はその時を久逸が戦死した明応九年庚申十一月十一日であろうとする。祐秀は四郎左衛門で間瀬川に戦死。祐貞は伊賀守として日新公に仕え、天文七年戊戌に日州日知屋へ移って地頭となった。別系の祐盛は伊賀守で功があり、祐盈は太郎四郎を称して京都で没した。末尾の祐義は伊左衛門、寛永十一年生まれで母を仁礼蔵人の女とし、養子で実は喜入休右衛門久守の三男、伊東へ改号したと記す。島津光久の江戸下向時に平戸で没した。
天文7年3月 / 冊子 199~201頁/原整理番号 67
巻末目録では『莫根氏系図』、本文見出しでは『莫根系図』とする系図。平良文(村岡五郎・従五位下)から忠朝・孝輔・貞道へ続き、貞道を伊作平三、源頼光四天王の一人と記す。貞言・貞元・季基・為賢、兼輔・兼重・季兼・良忠、成道・兼時、成兼以下の諸系線を展開し、河崎・神崎・山口・浜田・樋脇などの名字・居所、官途・位階・法名を添える。成綱―成友の系では鎌倉の長崎圓浄阿闍梨との関係を記し、成友以下から成行・成長・貞友、貞勝・伊成らへ分岐する。貞勝は兵部少輔で筑後にて討死、成政の子成郡は兵部少輔で隈城にて討死とする。成義は山崎八郎左衛門尉・法名浄圓、成智は豊前守で薩州から百次地頭と所領三十町を給わったと記し、成通・成清へ続く。末尾は丹波守成清が天文七年三月に百次で討死した記事で終わる。
天文7年、天正7年、慶長5年、承応3年、万治2年12月、天和3年7月18日、宝永2年、正徳5年、享保13年7月1日、元文元年10月2日、文化2年ほか / 冊子 293~296頁/原整理番号 114
上祖不詳で直重の裔族とする三原藤次流の系図。三原藤次は日新公に仕え、天文七年、日新公と島津実久の抗争時に加世田城で戦死し、その後の伊豆守は貴久公の納殿役を務めた。重長は貴久公の御荷内役・御納戸奉行を経て本府へ移り、牛根地頭職と三百石を与えられ、天正七年に家久が佐土原へ移封されると家久の家臣・家老となった。重長の二子は一人が山田城で、藤七が慶長五年に豊久へ従って関ヶ原で戦死したため、垂水の川崎内膳良光の嫡子・重正を後嗣に迎えた。重吉は山奉行となり万治二年に二百九石を知行し、般若院行者堂造営では普請奉行を務め、重時は御納戸奉行・物奉行、重矩(後の経明)は高奉行・御普請奉行寄役・小番を歴任した。後代は重共・経儔・経福・経豊・経載へ続き、児玉家への養子、長崎・入江・児玉各家との婚姻、出生・初見・分家時の四十八石などを記す。
年月日未詳 / 冊子 822頁
時任義高の系譜記事。初名・法号、生年を記し、高原城攻めや大友軍との戦いで軍功を立てたこと、慶長十年に六十八歳で没したことと法名を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 761~762頁
天文七年の末吉・加世田などの合戦で戦死した家臣を列挙する『殉国名藪』記事。山崎民部左衛門成通、城ヶ崎右衛門儀実、井尻祐秀、猿渡信資らについて戦死日と戦場を記し、北郷忠栄の藤野原での戦死にも触れる。複数戦役の死者情報を人物別に検索できる。
年月日未詳 / 冊子 764~765頁
加世田の道仲軒住持・照岳有鑑が天文七年の出陣で日新公に陣僧として供奉し、誠訪大明神へ案内して難を避けさせた由緒を記す。その忠節により天文八年に寺が再興され、山号を誠訪山、寺号を大中庵とした。
年月日未詳 / 冊子 766頁
永正九年に日新公が建立した阿多花瀬村の稲荷社について、天文七年十二月二十九日の加世田出陣時に狐火が進路を照らし、社の加護として所領・棟札・銘書が与えられた由緒を記す。
年月日未詳 / 冊子 766頁
天文七年十二月二十九日の加世田出陣に際し、日新公が高良八幡へ参詣して誓願し、阿多花瀬村立本原で軍勢を集めたこと、落城後に社を移して造営したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 766頁
永正九年建立の阿多花瀬村稲荷社について、天文七年十二月二十九日夜の加世田出陣で狐火が大手口への道を照らし、その加護により勝利したとして社領・棟札を与えた由緒を記す。
年月日未詳 / 冊子 766~767頁
天文七年十二月二十八日、忠良・貴久・忠将の父子三人が雪中に加世田へ出陣し、道中で垂れた蜘蛛の糸を三人そろって見たことや、夜半の鐘声を記す。忠将を大手口の大将として攻め、敵の反撃を受けながら諸将が救援し、新城では未明までの激戦の末に城兵を討ち取って落城させた経過を伝える貴久公記。
年月日未詳 / 冊子 333~334頁/原整理番号 14
忠元が十三歳の天文七年、志布志城の忠勝と飫肥方の北郷忠相が攻め合っていたため、父祐久が同年七月に城を退いたと記す。忠元と弟忠清らは伊作方に召し出され、祐久の叔父漁隠を頼って田布施へ出た。日新は山城守忠光を頼っていた縁で祐久を召し、久しい後には子孫も日新の家老として仕えたという。
年月日未詳 / 冊子 334頁/原整理番号 16
忠元の年譜が、天文七年に忠勝の敗落で家臣が離散し、安萬も父祐久に従って田布施へ移ったと記す。十四年、大中公が伊集院にいた時に入来院重朝が背き、八月七日頃に神殿から兵を出して郡山城を夜襲した。忠元は諸将とともに城へ迫り、先に柵を登って山口某と刀で戦い首を取った。初めての従軍で槍傷を負い、その時は十九歳だったという。
巻一/冊子 6~7頁
天文五年、忠良父子が伊集院攻略を進め、伊集院大和守を将として大田原の塁を襲い、神殿・石谷・竹山などの拠点を相次いで服属させた。雨中の進軍時に火光のような瑞兆が現れ、稲荷大明神の加護と解釈されたことも記す。実久勢は鹿児島・谷山から川辺方面へ退き、忠良は実久と会見して、伊集院・鹿児島・谷山と加世田・川辺の交換による和睦を提案したが、実久は応じず、祁答院らと再び謀略を構えた。天文七年、忠良父子は蜘蛛の瑞を得て加世田へ出陣し、本城を急攻して落とし、新城も激戦の末に攻略した。富松左京亮・大山宮内少輔・阿多飛騨守ら実久方の戦死者と、市来備前守ら忠良方の戦死者を列挙し、忠良の祖父久逸が戦死した地で宿怨を晴らした戦いとして位置づける。