北郷忠虎譜
年月日未詳 / 冊子 424頁
天正十六年十二月、島津義久(龍伯)が北郷忠虎へ誓状を与えたことを記す北郷忠虎譜の記事。 正文が存在すると明記され、北郷氏との主従関係を誓約文書によって再確認した事実を伝える。
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年月日未詳 / 冊子 424頁
天正十六年十二月、島津義久(龍伯)が北郷忠虎へ誓状を与えたことを記す北郷忠虎譜の記事。 正文が存在すると明記され、北郷氏との主従関係を誓約文書によって再確認した事実を伝える。
天正16年12月12日 / 冊子 424頁
島津義久(龍伯)が北郷忠虎へ与えた起請文で、本文はNo.549と同文であるため省略されている。 北郷時久と忠虎に同内容の誓約を課した重出資料で、家中の謀叛防止、違背者の通報、関白への奉公などの条項はNo.549本文によって確認できる。
(天正十八年)十二月十八日 / 冊子 552頁
北郷忠虎から音信として紅糸十斤が届き、遠路の志を喜んだ豊臣秀吉朱印状案。詳しくは石田三成から伝えるとする。
天正15年10月21日 / 冊子 360~361頁
豊臣秀吉が北郷讃岐守へ、佐々成政の不届きな肥後統治を受けて一揆鎮圧を命じた朱印状。反乱者を討ち、国人の妻子を人質として大坂へ送り、城・鉄砲・玉薬・兵粮を接収し、検地と百姓の再配置を行うよう細かく規定する。伊集院忠棟を派遣するため義弘の下知に従い、毛利・秋月・高橋ら九州諸勢と協力するよう求めた。
天正六年八月三日 / 冊子 546頁
天正六年、大友氏が日向へ侵入しようとした際、北郷忠虎が島津義久へ誓紙を提出し、同年八月三日に義久から盟約の返書を与えられたことを記す。
天正六年十一月十三日 / 冊子 559頁
天正六年十一月十三日、島津義久が北郷忠虎へ誓状を与えたことを記し、次号の起請文を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 695頁
天正九年八月の肥後水俣攻めで、北郷忠虎が島津軍に従い、島津義虎らとともに陣を構えたことを記す譜中記事。
天正十一年十月九日 / 冊子 763頁
天正十一年十月九日、北郷忠虎が島津義久の命で肥後竹宮口に在番し、城氏と相談して軍勢を率い村里へ放火し、勝利を得たことを記す譜中記事。
天正十二年四月 / 冊子 893頁
天正十二年四月、北郷忠虎が吉利忠澄・伊集院久治とともに肥後の敵勢を討ち、首級六十余を得た。
年月日未詳 / 冊子 74頁
天正十三年閏八月、薩摩・大隅・日向の軍勢が肥後へ進発し、堅志田城を攻めた際の北郷忠虎の戦功を記す。忠虎は敵中へ斬り込み、首級二つを挙げたとされ、短文ながら肥後攻略における北郷氏の働きを顕彰する譜記事である。
年月日未詳 / 冊子 184頁
北郷忠虎譜の記事。天正十四年六月十八日、島津義久が筑紫勢の攻略を企てて大軍を鹿児島から出し、七月二日に肥後八代へ入り、諸将が筑紫へ直進したことを簡潔に記す。忠虎が参加した筑紫進攻の発動と行軍を示す記事であり、鷹取城・岩屋城での個別の戦功までは本文に記されていない。
年月日未詳 / 冊子 197頁
北郷忠虎は七月十四日の岩屋城攻めで、高橋紹運が守る城を四方から包囲する陣の一角を担った。二十七日の総攻撃では、石・木・鉄砲で抵抗する城兵に対し、忠虎も岸壁近くまで進んで攻城に加わった経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 237頁
十月十日、北郷忠虎が府内から豊前境へ至る方面の軍に加わり、南郡へ攻め入った経過を記す。鳥嶽城攻略では先陣の兵が城内へ登り、忠虎方も指揮して敵を討ち取ったが、家臣の津曲玄蕃兼詮と前原弥七郎国実が戦死した。高崎城の記事ではなく、豊後侵攻中の鳥嶽城攻めと北郷家臣の犠牲を伝える戦功・戦死記事である。
年月日未詳 / 冊子 278頁
北郷忠虎が豊後府内で太守の兵と合流した後、中国・四国から来援する豊臣方の大軍を迎えた記事。豊臣軍の兵船が西海へ達し、府内の守備が崩れて日向方面へ退く局面を簡潔に伝える。
年月日未詳 / 冊子 398頁
天正十六年六月十四日、都城を発って上洛した北郷忠虎が大坂城で秀吉に拝謁し、義弘・細川幽斎・筑紫広門らとともに湯漬の饗応を受けた。 秀吉は東山に造営中の大仏殿へ巨大な柱二本を献上するよう命じ、忠虎に帰国を許した。九州大名・国衆が上方政権の造営事業へ動員されたことを示す記事。
年月日未詳 / 冊子 459頁
北郷忠虎が大仏殿建立用の巨大な杉を領内で探し出して献上し、翌年正月に上洛した経過を記す譜の記事。 忠虎は年頭の進物として太刀一腰・馬代銀子三枚を贈り、大規模建築への資材供出と秀吉への年始奉公を続けた。
年月日未詳 / 冊子 484頁
天正十八年秋、帰国した北郷忠虎が鷹一連を豊臣秀吉へ献上し、その返礼として朱印状を与えられたことを記す譜の記事。北郷氏の家譜に、上方への献上と秀吉からの栄典を一続きの奉公として記録している。
年月日未詳 / 冊子 484頁
北郷忠虎が紅糸三十斤を豊臣秀吉へ献上し、秀吉から朱印状を与えられたことを記す譜の記事。輸入品である紅糸が大名から天下人への進物に用いられた具体例で、続くNo.704がその返礼文書に当たる。
年月日未詳 / 冊子 533~534頁
豊臣秀吉の命で島津義弘・久保父子が朝鮮へ渡ったため、北郷忠虎も家臣を島津軍に付け、自ら再渡海して従軍した経緯を記す。のちに大明軍が攻めた泗川新城の戦いでは強敵一人を討ち取り、忠虎の具体的戦功を伝える。
年月日未詳 / 冊子 791頁
文禄三年七月二日、北郷忠虎が都城を出発して再び朝鮮へ渡り、島津義弘に従ったと記す。これ以前の戦闘で忠虎の家臣には多数の戦死者が出ていた。 大きな人的損害を抱えながら再渡海した北郷勢の動向を短く伝える家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 803頁
秀吉の上使が薩摩・大隅・日向を検地し、北郷忠虎領では田中吉政らが都城・安永・高城・末吉・財部など十五か所、計六万九千二百余石を調査したと記す。 同年冬、忠虎は巨済城で寒気と軍務の疲労から病を得て、十二月十四日に三十九歳で死去した。鶴田貞明が殉死したことも記し、検地による領地確定と朝鮮陣中での最期を一続きに伝える家譜記事。
天正六年八月三日 / 冊子 546頁
島津義久が北郷忠虎へ、世上が動揺する時にも親類のよしみにより逆党を捨て、無二の忠勤を尽くすとの誓いを神妙と認める。大友氏が各方面で謀略を巡らす中、今後いよいよ変わらず一味すると誓い、新田八幡・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を掲げた。
天正六年十一月十三日 / 冊子 559頁
島津義久が北郷忠虎へ、永代にわたり無二の奉公をし、風説があれば即座に互いに知らせ、親類の長年のよしみがあっても逆党には同心しないとの誓紙を神妙と認める。今後も疎遠なく一味すると誓い、新田八幡・諏訪・稲荷・天満天神などの神罰を掲げた起請文。本文年紀は天正六年十一月十三日と読める。
天正十一年十一月十八日~二十日 / 冊子 800頁
島津義久の病気を重病と恐れた相良忠房が、一万句連歌の興行を立願し、天正十一年十一月十八日に成就した記事。深水宗方が八代の上井覚兼に頼み、懐紙の発句を作らせた。同二十日には北郷忠虎から、内空閑下野守を島津旗下へ誘ったとの報告があり、島津方は途中で再度真偽を確認するよう答えた。
年月日未詳 / 冊子 174~175頁
筑前岩屋城合戦に参加した島津方の諸将・部隊を、所属・役職・戦死や負傷の注記とともに列挙した従軍者交名。島津忠長、伊集院忠棟、新納忠元、上井覚兼、北郷忠虎らの配下まで記し、鉄砲・弓などの攻城部隊や各家の動員状況も追える。岩屋城攻めの軍勢編成だけでなく、誰が戦死・負傷したかを具体的に復元できる名簿史料である。
年月日未詳 / 冊子 185~186頁
『島津世録記』の記事。天正十四年六月十八日に筑紫討伐を決し、七月二日に肥後八代へ軍勢を集結した経過を記す。島津忠長・伊集院忠棟・新納忠元・北郷忠虎ら諸隊の編成と進路を列挙し、鷹取城や筑紫広門の降伏、岩屋城での高橋紹運との激戦、双方の討死者へと展開する。大軍の構成から各城攻略までを一続きに示す戦役記事である。
天正15年7月17日 / 冊子 351頁
重頼・野村良綱が上井覚兼へ、秀吉の下向後、大隅国が島津義弘へ与えられたため、末吉・財部も大隅の内として義弘から改めて給付されると伝えた連署状。その安堵の保証として北郷忠虎を人質に上洛させ、公役として在京させるよう関白の朱印が出たこと、上井村は当地で保護することを知らせる。
年月日未詳 / 冊子 459頁
本文はNo.635と同文のため省略された島津義久譜の記事。No.635は北郷忠虎が大仏殿用の巨杉を献上し、上洛して太刀・馬代銀子を年始に贈った経過を記す。 大仏造営への材木供出と秀吉への年賀奉公が、別の譜にも重ねて収録されたことを示す。
年月日未詳 / 冊子 459頁
豊臣秀吉が、年頭の祝儀として北郷忠虎から太刀一腰と馬代銀子三枚が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 No.635の記事に記された上洛・年始献上を、秀吉側から確認できる対応文書である。
(天正18年)6月20日 / 冊子 473頁
本文はNo.143と同文のため省略されている。No.143は筑前岩屋城合戦に参加した島津方の諸将・部隊を、所属・役職・戦死・負傷の注記とともに列挙した従軍者交名である。 島津忠長・伊集院忠棟・新納忠元・上井覚兼・北郷忠虎らの配下まで記し、岩屋城攻めの軍勢編成と人的損害を復元できる名簿史料の重出である。
(天正18年)11月8日 / 冊子 484頁
豊臣秀吉が北郷忠虎から鷹一連が届いたことを喜び、遠路からの厚意をねぎらった朱印状。詳しい返答は石田木工頭から伝えるとしており、No.701の鷹献上に対する秀吉の直接の返礼である。
年月日未詳 / 冊子 543頁
文禄元年三月、北郷忠虎が朝鮮へ軍を率いて渡海した際、北郷久武もこれに従ったことを記す。久武が北郷勢の一員として海外遠征に参加した事実を示す短い家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 864~865頁
文禄四年中に戦死・病死した島津方の家臣を、日付と所属を添えて列挙する。北郷忠虎の臣・鶴田市右衛門尉貞明、松下源二郎、島津義弘の臣・山本勘左衛門親臣や鬼塚三蔵らの最期を記録する。 個々の戦功記事では見えにくい人的損耗をまとめた名簿で、朝鮮出兵期の島津家臣団の犠牲を追える重要史料。
文禄4年7月5日 / 冊子 899頁
北郷忠虎の実子が幼少のため、宗次郎こと北郷三久を名代として諸職を勤めさせ、長千代丸が十七歳になるまで家督を補佐するよう認める。 若年相続人を保護しつつ家の継続を保証した、竜伯・義弘連署の家督証状。
年月日未詳 / 冊子 731頁
北郷忠虎以下の系図。外城を称した女子の比志島義智への婚姻、三久の生年と母方、五年間京都で人質となり肝属院小原村二千石を賜った久村、十七歳で人質上洛後に没した忠頼らを記す。
年月日未詳 / 冊子 107頁
北郷氏が約三十年間にわたり伊東氏と戦った軍功への賞として、永禄五年五月に末吉三百五十町が北郷時久へ与えられた。土持摂津助を地頭とし、のち忠虎を末吉へ移し、梅北も飫肥後援のため時久に付属させた。
天正元年正月六日 / 冊子 297~298頁
天正元年正月六日、肝付氏の大軍が末吉へ侵入すると、北郷時久は二子相久・忠虎と兵を率いて住吉原で迎撃した。三将が自ら指揮して肝付軍を崩し、肝付修理亮・左兵衛尉、伊集院三河入道竹友、安楽因幡入道以下多数を討ち取った。敵の切捨人数は不明で、北郷方も川崎主税・田原大蔵信秀を失った。
天正元年正月六日 / 冊子 297~299頁
天正元年正月六日の住吉原合戦を詳述する。北郷時久は相久・忠虎と手勢を率いて不意に肝付軍を攻め、知覧久親ら各地の援軍とともに松山城戸口まで追撃し、伊集院竹友以下百五十一の首級を得た。味方も河野主税・田原信秀らを失った。この日が北郷家の僧礼日に当たり、急報のため簡略な酒礼を行ったことが龍峯寺門徒の正月六日の先例になったと伝える。
天正六年十月中旬 / 冊子 553頁
大友父子が高城を包囲すると、北郷時久は子の相久・忠虎に数千兵を率いさせ先鋒として鬼山を経て宮崎城へ進ませた。城内の内通者が伊東勘解由左衛門に敵兵を招き入れる計画を知らせたため、都於郡の河原田道場へ走ってこれを捕らえ、北郷久盛が奮戦して大敵を退け城を守った。
天正六年十一月十二日 / 冊子 558頁
十一月十二日、大友軍が島津義久の陣へ大軍で決戦を挑むと、北郷時久の子相久・忠虎が進んで戦った。北郷久盛は抜群の戦死を遂げ、村田経重・山中宗左衛門らも戦死したが、ついに大友軍を破り耳川まで追撃した。義久が深く賞し、京都へ伝わると飛鳥井雅継が書状を送った。
天正十一年九月二十日 / 冊子 754頁
天正十一年九月二十日、隈本城主の城氏が八代へ使者を送り、健軍地頭を人質として隈本へ置く代わりに領土を侵さないよう求めた記事。島津方は三船で一戦することを条件とし、合志氏の僧による和睦願いにも、阿蘇家と断交して実証を示すよう回答した。
天正十二年九月十二日 / 冊子 928頁
北郷一雲時久が本田親貞へ、宝之河内の番衆交替と肥後出陣の負担が北郷家に偏ることに不満を述べた。忠虎は遠国出張に備えて兵具を整え、菱刈で待機するが、他家の番衆が見えず、宝之河内の警備・普請も不十分であるとして善処を求めた。
年月日未詳 / 冊子 237~238頁
北郷三久は祖兄の忠虎と十月十日に庄内を発ち、肥後で島津義弘の軍に加わって豊後南郡へ進攻した。鳥嶽城攻めでは北郷勢が先陣を務め、兄弟が城内の屋上へ登って軍を指揮し、敵兵を討ち取った戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 339頁
島津義久が娘を人質として差し出し鹿児島へ帰った後も、北郷一雲・忠虎らが都城・安永・末吉・財部の砦を守って秀吉の命令に従わなかった経過を記す。秀吉は出頭しなければ征伐すると迫り、本知安堵の代わりに別の人質と在京奉公を要求した。北郷三久らの上洛と、北郷氏が服属条件を受け入れる過程を伝える。
年月日未詳 / 冊子 339~340頁
島津義久が泰平寺で秀吉に降伏した一方、北郷一雲・忠虎らが荘内でなお服属しなかったため、北郷三久が交渉と上洛を担った経過を記す。北郷側は追加の人質を出し、三久は上方で奉公した後、筑前箱崎で秀吉に拝謁して道服を賜り、約束どおり日向三俣院千町の朱印を受けた。北郷氏の抵抗から服属・知行安堵までを示す。
年月日未詳 / 冊子 360頁
佐々成政の苛政に反発して肥後国人一揆が起こり、秀吉が北郷一雲時久・忠虎父子へ鎮圧の朱印状を与えた経過を記す。肥後が鎮静した翌天正16年2月11日にも父子へ朱印が下され、帰陣を認められた。北郷氏が豊臣方の軍事動員に応じたことを示す譜記事。
天正16年2月3日 / 冊子 377~378頁
家中に変事が起きても北郷時久・忠虎との盟約を守り、内外の者の逆心に同調しないと誓う。讒言や風聞は必ず真偽を確認し、伊東領近辺との私的交渉、鹿児島・飯野への無断往来を禁じ、子孫まで盟約を守ると神仏へ誓約した起請文。
(天正16年)2月11日 / 冊子 378頁
北郷勢が肥後国境に在陣する労苦をねぎらい、肥後が静謐になれば帰陣するよう命じる。詳しい指示は石田三成から伝えるとしており、肥後国人一揆後の北郷氏の軍事動員と撤収を命じた朱印状。
年月日未詳 / 冊子 423~424頁
北郷時久(一雲)が、秋月・高橋・伊東の諸氏とは私的な盟約を結ばず、島津義久(龍伯)へ忠節を尽くすことを誓った記事。 同月、時久への書状と忠虎への誓状が発給された経緯も記し、豊臣政権下で北郷氏を島津方へ再統合する過程を伝える。
(天正18年)12月18日 / 冊子 484頁
豊臣秀吉が音信として贈られた紅糸三十斤の到着を喜び、遠路からの志をねぎらった朱印状。詳しい返答を石田治部少輔(三成)に委ね、No.703の献上へ応えた文書である。