霧島社造立趣意書
永正十六年九月廿日 / 冊子 622頁
山川郷に霧島御社一宇を造立する趣意と息災延命の祈願を記し、大檀那伴兼憲・大工助兵衛尉元吉らの名を列記した文書。
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永正十六年九月廿日 / 冊子 622頁
山川郷に霧島御社一宇を造立する趣意と息災延命の祈願を記し、大檀那伴兼憲・大工助兵衛尉元吉らの名を列記した文書。
年月日未詳 / 冊子 410頁
池田貞安が庄内出陣時の戦功を回想する。帖佐・蒲生勢が山田新城を攻めた際、六左衛門は退却命令に対し、味方を捨てれば周辺の敵城から攻撃され全滅すると再三諫めた。中将様がその主張を採用して旗差・道具衆・軍勢を一斉に登らせ、新城と続いて本城を攻め落とし、惟新が伏見で報告を聞いて有川助兵衛から感状に相当する内談の書状が寄せられたという。
(慶長五年)九月廿一日 / 冊子 583~584頁
伊勢貞成が大井七右衛門尉・酒匂式部少輔へ、奥様の下向に伴う御番衆として富隈の人数を留め置いたことを伝える。佐方の船手には水主を欠く船が多く世間体にも関わるため、両人に他の人数と同様の手配を頼み、有川助兵衛尉の手元にある二百石の米から百五十石分を渡すよう指示する。
年月日未詳 / 冊子 665-666頁
島津義弘(惟新)の指示で船中の者を夫人方の御座船へ移した。豊後国森江の口では有川助兵衛の船が番船に囲まれ、別船が救援に戻って鉄砲戦となったが、多勢に抗しきれず有川助兵衛・伊集院左京らが討死し、船二艘も焼かれた。他の船は細島へ向かい、義弘一行はほどなく上陸した。
(慶長七年)十一月十二日 / 冊子 864-865頁
島津義久が忠恒へ、福島正則の使者弓削助兵衛と面談し、年内上洛と談合の意向を聞いて満足したと報じる。鹿児島城の普請を留守居衆へ重ねて命じるよう求め、来年の金神の方角や国元の諸事についても照会・指示した。
元和八年八月九日 / 冊子 769頁
有川助兵衛尉が御座主へ、十六歳の男子に関する祈念を依頼し、御馬方大明神へ馬一疋と指刀一つを奉進するとした願文。
(文禄2年)3月13日 / 冊子 678頁
しばらく音信がなかったことを詫び、当地に異変はないと島津義弘へ伝える。前日に「かせんはしま」方面へ物見を出したが唐人は確認されず、ひとまず安心してよいと報告する。 義弘から馬大豆十石の援助を受けたことに深く感謝し、必要があれば「ふさんかい」方面でも用務を引き受けると申し出た、偵察報告と兵站支援への礼状。
年月日未詳 / 冊子 664-665頁
松岡勝兵衛は、伏見籠城時の恩や関ヶ原で子まで伴ってもらった恩を理由に、島津義弘(惟新)がどこへ向かっても供奉すると述べた。家族は七反帆の船を用意し、大坂の番所を通過して泥雨の中を船着場へ急いだ。馬を買い取り、豪雨で諸船が浮いた機を得て出船した。
年月日未詳 / 冊子 121頁
『島津常久譜』から、宇多与右衛門尉が上京して安宅三河守へ訴状を提出したため、五代右京亮らを招いて糾明した経過を記す。関係者の申状・答書を京都へ送り、太守兄弟から与えられた書状もあわせて記録したとする。
年月日未詳 / 冊子 161頁
『殉国名藪』の記事。寛永十八年八月十五日、富山助兵衛が島津右衛門尉彰久室の死に後を追って殉死したことを記す。彰久室は島津義久の二女で、新城君と称したとの傍注がある。
安永八年冬十二月(本文冬十二月・目録年記) / 冊子 589~590頁/原整理番号 1658/整理ID 1658
重豪公御譜中の記事。出水郡出水郷の郷士肱黒助兵衛の僕は平八といい、畳刺を業としていた。助兵衛の家が甚だ貧しかったため、平八はその業をやめて力耕し、手厚く助兵衛を養ったという。助兵衛はその志に感じ、二、三年の歳入を与えようとしたが、平八は固く辞して受けなかった。そこで冬十二月に廩米十五苞を与えて褒賞したと記す。本文に独立の命令書署名や宛名はなく、忠僕の奉仕と謝礼辞退を称えて米の褒賞を述べる御譜記事である。
二月廿八日 / 冊子 331~332頁/原整理番号 373
宮原又左衛門尉・税所助兵衛尉が、高尾野衆のうち「失衆」とされた一向宗の牧田主馬允・山口納右衛門尉・前田少兵衛尉・細山田内蔵助・児玉七右衛門尉について、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉へ提出した注文。牧田は有馬の春之城への城乗りで首一つを射取りながら、失衆のため仁礼左近へ内証で見せて切り捨てたとし、他の四名は詰めていたが仕合を知らず、軍功をしなかったと記す。二月二十八日付。編者注は『旧記雑録後編五』二一五三号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 122~123頁/原整理番号 24
床波佐次右衛門を起点に、嘉左衛門以下の床波氏諸流を配した系図。佐次右衛門は元禄三年生・安永四年五月没、嘉左衛門は享保元年生で、助兵衛を養子とし、女子は久木田覚助に嫁いだことを記す。兵次郎は次右衛門へ、与助は武右衛門へ、正助は勘介から、権左衛門は佐次右衛門へ、権助は清右衛門へ改名した。仁兵衛が兄次右衛門の後嗣となった例、養子・婚姻・母方、男女の子女を系線で示し、元禄・享保から宝暦・明和・安永・天明・寛政・享和・文化・文政期までの出生・没年を列記する。
天正14年(1586)~慶長4年(1599)頃の記事 / 冊子 421~422頁/原整理番号 9
家嫡太郎左衛門尉重豊の二男・伊地知河内守を祖とし、越前守・刑部少輔以下へ分かれる系図。重位は朝鮮で戦死し、石原助兵衛の長子を実子として系統へ迎えたこと、重清は朝鮮役で功を立て蒲生で戦死したこと、重徳は日新公に仕えて蒲生で戦死したことを記す。重増は比志島河内守の二男を実子とし天正十四年に豊後で戦死、重鑑は朝鮮役で功を立て庄内役では兵具奉行を務めて戦死するなど、石原・比志島両家との養子関係と、豊後・朝鮮・蒲生・庄内での軍歴を各支流に付記する。
11月27日 / 冊子 425~426頁/原整理番号 396の4
十一月二十七日、串木野から立てた水手五十五人を列記し、三原源右衛門・永山覚右衛門へ受取りを命ずる。助兵衛尉・吉兵衛・惣右衛門から作左衛門・孫市までの五十五記載が本文の合計と一致する。助七・太郎作・次兵衛尉など同名が重複する箇所も名簿上の別記として保持し、推定で統合しない。
年月日未詳 / 冊子 564~565頁/原整理番号 580
加久藤社家黒木氏が、神舞勤仕と家督・蔵役をめぐる家の由緒を申し立てる家状。祖先夫婦への飯米支給、親族間の争論、石原助兵衛や平田大休への訴え、祖父十郎左衛門の病死までを述べる。
11月23日 / 冊子 404~405頁/原整理番号 368の2
片浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘(水手計三十二人)と、小浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘について、船主・上乗・主取を列記する。さらに小松原三人・小湊三人の加子六人をそちらの船に早く乗せ、残る十一人は片浦から送ると伝える。十一月二十三日、小湊庄屋佐藤大炊左衛門宛。六人は商買船に雇われ小浦へ来ているが、船は他国船なので加子だけを小湊船へ乗せると付記する。
11月27日 / 冊子 425頁/原整理番号 396の3
十一月二十七日、市来湊町から立てた源太郎・茂兵衛尉・五右衛門の三人を記し、続いて同日付で彦次郎以下二十四人を列記する。後者は市来湊から立てた浜村の者として、三原源右衛門・永山覚兵衛尉へ受取りを命ずる。二十四人の名簿には久三郎が二度現れるが、別記のまま保持する。三人の先行記載と二十四人の合計を混同しない。
年月日未詳 / 冊子 431~432頁/原整理番号 403
『平田宗直船賦帳』所収。市来湊から出す六端帆五艘の舟頭・水手人数を列記し、児玉主計助を上乗一人とする。続いて串木野から出す五枚帆・四枚帆・六端帆など九艘について船頭と人数を列記し、近間内膳正・春田大左衛門を上乗二人として、両船団を出水へ出船させる。末尾の総船数・総舟頭水手数の欄には数値の記入がない。
11月28日 / 冊子 432頁/原整理番号 404
市来湊・串木野で天草行きの船を仕立てた賦帳。本船賦帳からの書抜きとし、船主・船頭・加子を船ごとに列記する。市来湊の船別名簿に続き、串木野で仕立てた大小九艘、加子・舟頭計六十六人をまとめ、そのうち五人は伊作小の原浦、一人は永吉之浦の加子と注記する。末尾に上乗衆の送状がある旨を記す。
(寛永十四年)11月28日 / 冊子 433~434頁/原整理番号 405の6
串木野衆の春田大左衛門主従二人に真米・赤米各一斗を掲げ、奥書は前文書と同じとする。続いて各船の舟頭・加子と飯米を列記し、串木野から天草へ仕立てた大小九艘へ十一月二十八日以後二十日分の海上飯米を渡したと記す。舟頭は一日一升、加子は一人七合五勺で、平田民部少輔の帰宅に伴う次飯米の手配と九艘の送状を添える旨を是枝喜右衛門へ知らせる。
年月日未詳 / 冊子 488~489頁/原整理番号 489
児玉利泰の覚書。二十九日の出来事として、島原城から五、六町の田間を隔てた陣屋にいた左衛門佐と、その家中の永井喜左衛門・永野源七・片野坂堅助・平山助之丞・寺前正兵衛・白坂式部左衛門らを列挙する。その他を含めて五十人余であったと記す。
元禄8年正月8日 / 冊子 525頁/原整理番号 539
三原重庸家臣元立院の覚書。島原陣における討死として、野元源左衛門、伊集院衆の帖佐小兵衛、手負人として永井喜左衛門、片野迫監物、吉佐貫吉兵衛らを挙げ、左衛門佐の手負状況や鉄砲戦の聞書について照会への回答を記す。元禄八年正月八日付で三原諸右衛門へ差し出す。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
(寛永15年)正月23日 / 冊子 775~776頁/原整理番号 845
久賀ら四人が鬼塚の来訪を受け協議し、大人数の兵糧負担を考慮して島原約千人・天草五千人、計六千人とする方針を久国へ報告する。物奉行・船奉行の分担と市来・出水・京泊の輸送手配を示し、山狩ではまだ切支丹を発見していないこと、細川勢の番手との交替を伝える。編者は案文帳の伝来を説明し、末尾に黄門重病の報と万一にも在陣を続ける指示を付記する。
(慶長五年)九月二日 / 冊子 549~550頁
関ヶ原直前の政局について、織田信長以来の忠節と近年の懇意から疎略にできないと述べ、長岡忠興の関東出陣を豊臣秀頼後見の徳川家康への奉公と位置づける。八条宮へ古今伝授の箱・証明状・短冊・源氏抄・二十一代集などを進上したことも伝えた長岡玄旨書状案。
二月廿九日 / 冊子 769~770頁
高尾野衆の失衆を列挙した注文。牧田主馬允・前田少兵衛尉・山口納右衛門尉・細山田内蔵助・児玉七右衛門尉らを挙げ、原城攻撃での射撃・首級処理や働きに関する注記を添え、宮原又左衛門・税所助兵衛が証した。
(延宝三年)後四月廿二日 / 冊子 662~663頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1666
論山の評定に出すため、梶山・庄内側から上方へ赴く証人を二組に分け、論山の由緒を知る者として弥七左衛門・越右衛門・八左衛門・万兵衛・大右衛門・助兵衛・権右衛門らを列挙した書上。
三月十二日 / 冊子 239頁/原整理番号 333-23
二月二十七日の有馬城攻めで、津川四郎右衛門が馬場三郎右衛門の命により本陣から楯板を受け取り本丸坂下へ運び、石垣に付いた人数へ撤下命令を伝えた経過を澤村宇右衛門・淺山修理へ申し出たもの。立石助兵衛と相談して侍衆を下がらせた後、角から城内へ入り、大手口まで見分した。さらに柵木・竹束を請求して鉄砲衆前に柵を設け、その所で夜を明かし、翌朝以後の柵移動と人数打入りの際の本陣復帰を述べる。