長崎六郎右衛門書状
慶長三年十月十八日 / 冊子 265~266頁
長崎六郎右衛門が慶長三年十月十八日付で安楽大炊助らへ出した書状。泗川城へ唐人二十万ほどが攻め寄せたが、島津勢が城から突撃して四方へ追い崩し、晋州まで広範囲に討ち取った前代未聞の勝利を詳報する。寺沢正成らの到着、唐人側からの和平書状と質人提出の予定にも触れ、兵士や小者が得た銀子などの戦利品、自身の主従が略取しなかったこと、辻助兵の死去なども伝える。
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慶長三年十月十八日 / 冊子 265~266頁
長崎六郎右衛門が慶長三年十月十八日付で安楽大炊助らへ出した書状。泗川城へ唐人二十万ほどが攻め寄せたが、島津勢が城から突撃して四方へ追い崩し、晋州まで広範囲に討ち取った前代未聞の勝利を詳報する。寺沢正成らの到着、唐人側からの和平書状と質人提出の予定にも触れ、兵士や小者が得た銀子などの戦利品、自身の主従が略取しなかったこと、辻助兵の死去なども伝える。
慶長十二年四月朔日 / 冊子 110頁
慶長十二年四月一日、新納忠元が与えた加増坪付。複数の田地について所在地、面積、分米と旧担当者を列記し、新納利兵衛尉に宛てる。
文安元年十月十四日 / 冊子 408~409頁
伊東祐堯が一味の衆と、政情が変化しても互いの大事を自分の大事として助け、武力対立や島津氏兄弟の和睦時にも協議し、密かな交渉や相互の城への忍び入りを禁じ、讒言があれば包み隠さず確認し、子孫まで水魚の交わりを守ると神々に誓った契状。
寛永十八年八月廿七日 / 冊子 161~162頁
川上因幡守久国が島津家重臣へ、幕府による島津家系図の調査・書写の経過を報告した口上覚。太田備中守へ系図を提出したところ、古文書は家の重宝であるため写本を差し出すよう命じられ、林道春らが北条時政・大江広元の筆跡や島津忠久の系譜を検討したこと、近代部分を詳しく追記する必要があることを伝える。黒田六郎右衛門を筆者として清書を急がせ、図書殿・川上上野介らと相談して完成させるよう求めている。
天保2年5月3日以降(本文) / 冊子 879~880頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2465
重豪公御譜中の記事。天保二年五月三日、島津筑後守忠徹の使者検本六郎右衛門成武が薩府へ来て登城し、太守斉興へ鯛一箱と樽代三百疋を献じ、重豪の従三位昇進を祝った。続いて九日以降、島津但馬久風、二階堂伊豆行典、島津丹波久長、川上久馬久芳、島津東市郎久元、川田信濃佐模らを南林寺・福昌寺・花尾山権現社・郡山一之宮・不斷光院・浄光明寺・日新寺・南泉院などへ派遣し、歴代当主・寺社へ銀や青銭を奉献した。従四位上から従三位への昇進を敬い、六月から琉球国にも太刀・馬代銀・香・布・酒など多数の品を贈った経過と品目・数量を列挙する。
天保2年5月3日以降(本文) / 冊子 880頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2466
斉興公御譜中の記事。天保二年夏五月三日、島津筑後守忠徹の使者検本六郎右衛門成武が薩府へ来て登城し、斉興に鯛一箱と樽代三百疋を献じた。これは斉興の祖父に当たる重豪が従三位へ昇進したことを祝うためである。No.2465の重豪公御譜中記事と同じ来府・献上を斉興側の御譜から簡潔に記した記事として区別する。
寛文8年4月2日、元禄5年12月17日、元禄8年8月25日、元禄10年閏2月5日、元禄12年閏9月8日ほか系譜内年代 / 冊子 368~370頁/原整理番号 188-1
蒲地五郎左衛門を祖として、伊作市之瀬での戦死と墓所から、伊賀(後号甫心)以下の子孫・婚姻・養子・早世・没年・法名・葬地を系線で記す。伊賀は十三歳から八十三歳まで日新・島津義久に奉仕し、義久出家時に甫心の名を賜り大隅国安妙軒に葬られたとする。帯刀長を国分観音寺、貞隆を福昌寺内花舞軒、貞直らを浄光明寺内江月院等に葬ったこと、貞次が青山主殿の養子となり青山六郎右衛門頼元と記されること、貞隆に実子がなく野田喜兵衛宗綱の二男を養子としたこと、女子の伊作・末吉・曽於郡・出水衆中家への縁組や国分『御上様』への奉仕を収める。
正徳三年十二月 / 冊子 124頁/整理ID 297
松平薩摩守が、鹿児島城下の長屋を近年の火災で焼失してから右隅の長屋を役座として使ってきた事情を述べる。火用心のためその長屋を取り除き、屋敷に隣接する場所を新たな役座にしたいと願い出る。
年月日未詳 / 冊子 733~736頁/原整理番号 772
正月十七日を中心に米津へ到着した各郷の軍勢を、人躰・卒者・小者・夫丸・玉薬持夫に分けて記す。都之城八十人と小者夫丸七十一人、吉松三十人と夫丸四十二人、栗野七十人と夫丸三十一人、国分八十五人と卒者夫丸百三十四人などを載せ、人物別の負担人数も列記する。後半には十八日条へ分載する旨を注し、十七日到着の大姶良・頴娃・飯野・高原・小林・清水・蒲生・高山などの士と従者を続ける。
寛永13年9月 / 冊子 80~81頁/原整理番号 17-8
寛永十三年九月の鹿児島衆中屋敷帳から、松崎采女正について『下屋鋪四せ』『下々屋敷四せ廿三分』と記す抄録。続いて松崎貞悦の慶安五年以降の奉公歴を掲げる。慶安五年に上洛を命じられて三月六日に鹿児島を立ち、四月二十五日に江戸へ着いた。承応二年には琉球からの将軍継目祝使である国頭王子に関わり、島津光久に召し連れられて日光参詣へ供奉した。万治二年には進上用の腰物を選ぶため、堀尾正宗・貞宗・左文字・兼光・則光などを江戸へ持参した。寛文三年とみられる光久の上洛には道中跡払いとして供奉し、大坂・江戸の御番割に入った。六月には国許への急用使として江戸から鹿児島へ往復し、九月に再び江戸へ参着した。同年十二月には島津綱久から将軍への寒中伺候使者となり、酒井雅楽頭や老中阿部豊後守・稲葉美濃守・久世大和守を訪ね、江戸城で七島鰹節を進上した。その後も寛文四年の下向供奉、同五年の秋月佐渡家来欠落事件に関する使者、延宝二年の大坂町奉行石丸石見守への使者を務めた。
慶長五年、慶長七年、寛永十四年~延宝七年(後続系譜記事) / 冊子 487~489頁/原整理番号 20-1
慶長五年・七年の諏訪大明神祭会について、御頭屋・御頭人、左右の居頭、初献・二献・三献、相伴、御幣、敷皮などの勤役者を列挙した書上。高城・寺山・国分・新納・平田・加治木・本田・猿渡らの人名と、嫡子・二男・内衆などの続柄や立場を具体的に記す。後半は平田氏の後続系図で、伊東肥後守祐辰女を妻とした人物の没年・葬地に続き、内田才右衛門正重の嫡子・宗宣が宗敏の婿となって家を継いだことを記す。宗宣は寛永十四年の肥前有馬におけるキリシタン一揆で軍使を務め、翌年二月二十八日の原城攻めでは自ら枝書右衛門を召し取り、分捕りの証状を得たとし、その後の宗模・宗貞・宗明・宗喜らについて妻の出自、出生・没年、幼名・通称を延宝年間まで載せる。
文安元年10月12日 / 冊子 441~442頁/原整理番号 74
世情が変転しても共に相談する衆中の大綱を守り、私心なく申談を遂げることを約す。文安元年十月十二日付で伊東祐堯が判を据え、椛山殿へ宛てる。p53の追記は、同趣の守護を敬う申談と旧記の引用を続ける。
(元禄九年)十月晦日 / 冊子 321~323頁/原整理番号 169
児玉四郎右衛門が常盤谷での御能を記した覚書。綱貴の任官祝いに前年も江戸で能が催され、今回は寛陽院と親しい者たちへ見物が許された。自身の病状を踏まえて参上し、料理・酒・茶の振る舞いと席の進行、御前での拝見、能・狂言の番組を記録する。島津万山老・町田・伊集院らの観客、川上将監や山田政國、碇山次右衛門などの名簿、能の役者組も列挙している。
年月日未詳 / 冊子 171頁/原整理番号 50
橘諸兄の末流とする東山藤崎氏の系図。小四郎公紀は従五位下美濃守で藤崎を号し、鎌倉合戦では宮方として新田陣に加わり、初めて薩州へ下って向島および諸所を領したとする。公辰(美濃守・橘次)―公明(備前・小四郎)―公兼(肥前守・平六兵衛)の系線、公範(豊前守・小四郎)―公行(善六左衛門・但馬守・小四郎)―公昌(助右衛門・吉次)の系線、公朝(六郎右衛門)―公常(善六左衛門)の系線を掲げ、公朝の母を島津左近将監忠富の娘と記す。子孫は六太夫。