鹿児島、伊敷、四郎ヶ坂等之説
目録年月日記載なし / 冊子 119~123頁/原整理番号 3
「鹿児島、伊敷、四郎ヶ坂等之説」。鹿児島と鹿児島神食、伊敷・四郎ヶ坂の地名や旧跡を、古系図、社説、旧記から考証する。荒田・神食、伊敷郷と島津荘の記載を比べ、鹿島の語源や鹿皮を朝廷へ貢じた伝承も検討する。末尾は伊敷の上下村・上伊敷村の位置と、伊敷村名主家の由緒に及ぶ。
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目録年月日記載なし / 冊子 119~123頁/原整理番号 3
「鹿児島、伊敷、四郎ヶ坂等之説」。鹿児島と鹿児島神食、伊敷・四郎ヶ坂の地名や旧跡を、古系図、社説、旧記から考証する。荒田・神食、伊敷郷と島津荘の記載を比べ、鹿島の語源や鹿皮を朝廷へ貢じた伝承も検討する。末尾は伊敷の上下村・上伊敷村の位置と、伊敷村名主家の由緒に及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 685頁
元和五年正月、島津家久が使節を遣わし、旧例どおり年頭の賀寿を申し上げて幣物を献じたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 686頁
徳川秀忠の上洛命令を受け、島津家久が十五歳の次男又八郎忠平を伴い、元和五年二月上旬に鹿児島を発って京都へ向かい、島津久元・町田久幸が随行したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 686頁
島津久元が元和五年二月に薩摩を発って島津家久の上洛に随行し、翌元和六年十月に帰国したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 692頁
島津忠朗が元和五年二月二十一日、質人として父家久に従い、六月朔日に二条城で徳川秀忠へ拝謁し、その後江戸へ赴いたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 692頁
元和五年三月二十四日夕、島津家久と又八郎忠平が穏やかな海を渡って大坂へ着岸し、翌日、家久が伊勢貞昌へ書状を送り、事情を詳しく伝えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 696頁
元和五年五月三日、八条智仁親王が島津家久を邸へ招いて和歌会を催し、公卿と家久ら十四人のほか連歌師里村昌琢が列席し、菓子・酒肴等が供されたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 701頁
元和五年五月二十六日、徳川秀忠が伏見城へ入った際、島津家久が山科まで出迎え、その行為が秀忠の耳に達して厚意を受け、のち旅館へ戻ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 701頁
元和五年六月朔日、島津家久が伏見城へ登り、幣物を献じて徳川秀忠に拝謁し、当年の慶賀と秀忠の上着を祝い、その後宿所へ戻ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 706頁
元和五年七月二十一日寅刻に没した島津義弘が、春秋の隔てなく埋葬地となることや、死後も仏法の導きに従う心境を詠んだ辞世和歌二首。
年月日未詳 / 冊子 712頁
元和五年八月、徳川秀忠が江戸から京都へ赴いて参内した際、細川忠興が供奉したことを記す島津忠興譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 714頁
島津義弘の出自、文武の徳、諸戦での軍功、豊臣・徳川政権下での働き、元和五年七月二十一日の死去、享年八十五、妙円寺への葬送と法名をまとめた編纂伝記記事・偈頌。
年月日未詳 / 冊子 718頁
「光久公御譜中」の系譜に、光久・忠朗・久直と並ぶ女子について、元和五年十月二十日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、寛永十一年八月十八日に十六歳で早世したと記す。島津光久本人の出生記事ではない。
寛永十四年五月日 / 冊子 657頁
元和五年十二月二十六日に大橋へ人身売買を禁ずる制札を立てたことを前提に、それ以前の売買に関する争いは裁定せず、以後の争いは命令どおり処理する旨を定めた覚書。
(元和五年)正月廿五日 / 冊子 685頁
島津家久が中山王へ、新年の慶賀を述べ、ささやかな方物を数々進献し、今後も長く吉祥が続くことを願った書状。
(元和五年) / 冊子 686頁
島津義弘が中山王へ、春の賀詞に答え、天下泰平を喜び、家久の使者による嗣王選定は国家長久の計であるとして、才能ある親族を選び、忠孝・仁義・国政・信仰を重んじて国を治めるよう長文で戒めた書状。
元和五年二月七日 / 冊子 687~691頁
前書を欠くため誓約の具体的内容は不明だが、天照大神以下多数の神仏を勧請し、違反すれば重い神罰を受けると誓い、肥後盛次ら二百二十二名が連署した大規模な起請文。
元和五年二月十五日 / 冊子 691頁
島津家久が、飯隈山地蔵院に薩摩・大隅・日向諸県郡の年行事職を認め、聖護院門跡の許可書を受けた以上は毎年大峯修行を怠らず、島津家の祈念に誠を尽くすよう命じた書下。
(元和五年)二月十九日 / 冊子 691頁
本多正純・土井利勝が家久へ、将軍還御時に諸大名が暇を得る場合でも家久は当年江戸に下って越年すること、近日中の出立、在府衆への訴状、姫君の件などについて回答し、詳しくは伊勢貞昌へ伝えるとした連署状。
(元和五年)三月廿五日 / 冊子 692頁
島津家久が伊勢貞昌へ、三月二十四日に大坂へ無事着船したことを報告し、愛宕祈念への謝意、秀忠が四月二十日頃に上洛するとの情報、江戸での用件を本多正純・土井利勝へ取り成すことなどを頼んだ書状。
(元和五年)四月七日 / 冊子 692頁
飛鳥井雅胤が家久の上洛を喜び、早く参上したいが禁裏の能の用務が続くため、まず使者を遣わしたこと、仕舞の稽古を整え、近日中に参上すると伝えた書状。
(元和五年)四月十五日 / 冊子 693頁
難波兼勝が家久へ、禁中の能を小幡長門守に申し付けて進上するよう求め、家久が理性院へ赴いたことを喜び、院主も満足するだろうと伝えた書状。
(元和五年)四月廿二日 / 冊子 693~694頁
島津久元・伊勢貞昌が、島々で旅人や無主の者が集まり私的支配が生じることを防ぐため、奉行の常置、住民・耕地・船・家畜等の調査、指定者の移転、明細帳の提出など島嶼統治の措置を伝えた連署状。
(元和五年)四月廿三日 / 冊子 694頁
島津義弘が家久へ、島々には奉行や管理者を常置し、住民・土地・田畠・山野・船・家畜・産物を詳しく調査して明細帳を作り、無許可の移住者や犯罪者を取り締まり、年貢・役務を定めるよう助言した書状。
(元和五年)五月朔日 / 冊子 695頁
興意入道親王が、前日の礼と書状を喜び、贈られた品を大切にすると述べ、後日あらためて面談して詳しく話すと伝えた書状。
(元和五年)五月二日 / 冊子 695頁
板倉勝重が家久の使者を受けたことに礼を述べ、自身の体調不良を詫び、福島正則の件と江戸への報告・対応について伝えた書状。
(元和五年)五月六日 / 冊子 698頁
興意入道親王が、八条親王邸の歌会への列席を喜び、会席での詠歌と遊興を聞いたことを述べ、芭蕉布五端を贈って今後も懇意にするよう伝えた書状。
元和五年五月十七日 / 冊子 698~699頁
後醍院宗重が、相良氏との戦い、岩屋城・耳川・高麗など各地の合戦での先陣・太刀打ち・負傷・討取り等、自身と一族の軍忠を列挙し、証明を求めた長文の覚書。
(元和五年)五月六日 / 冊子 699~700頁
島津久元・町田久幸が、徳川秀忠の上洛出立予定、禁裏での催事や関係者の動向など、京都周辺の情勢を家久へ報告した連署状。
(元和五年)五月七日 / 冊子 699~700頁
伊勢貞知が家久へ、家中で用いる房号や左衛門・右衛門などの官途名について照会を受け、留守居衆への取次ぎを含めて回答した書状。
(元和五年)五月十五日 / 冊子 700頁
理性院観助が家久へ、久しく面会できないことを詫び、当月の祈念として太元明王の護摩を懇ろに修し、その巻数札を送ったので受け取るよう伝えた書状。
(元和五年)五月廿一日 / 冊子 700頁
島津家久が又五郎へ、遠路からの見舞い使者と帷子五領に謝し、幼少の又八郎忠平の船旅を案じたが、海路が静かで無事上着したことを喜んだ書状。
(元和五年)五月廿一日 / 冊子 700~701頁
島津家久が上井大炊へ、京都滞在中の状況と当面の用向きを伝え、委細は使者・口上に託した書状。
(元和五年)五月廿四日 / 冊子 700~701頁
細川忠利が家久へ、徳川秀忠の上洛が近いこと、悪天候のため出迎えに苦労したこと、自身も途中まで迎えに出たことを述べ、家久の対応を尋ねた書状。
(元和五年)五月廿六日 / 冊子 701頁
日下部宗好ら三名が、虎屋弥九郎の宿所が狭いため近所の妙顕寺へ移し、家久の内衆は従来どおり置くことを認め、帷子五領中の単物二つへの謝意を述べた連署状。
(元和五年)五月廿八日 / 冊子 701頁
良恕入道親王が、調合した薫物と諸白二荷を家久へ贈り、翌月初め頃に池坊で立花を行うので、暇があれば必ず来訪するよう招いた書状。
(元和五年)六月三日 / 冊子 701~703頁
伊勢貞昌が、家久が将軍御前へ召し出された際の懇ろな言葉と、秀忠・本多正純・土井利勝ほかから贈られた太刀・銀子・馬代・帷子等の品目を列挙した覚書。
元和五年六月四日 / 冊子 702~703頁
島津忠朗が寺田将監・酒井雅楽助・山口駿河入道・石川太郎兵衛尉・牧野豊前守・御幸八幡などへ贈る銀子・太刀・馬代・帷子等の品目と数量を列記した進物目録。
(元和五年)六月五日 / 冊子 703~704頁
本田親政・高崎能乗が京都から、家久の将軍への御目見得が済んだこと、八郎の礼儀が賞賛されたこと、贈答品の処置や銀子の不足などを喜入・比志島・三原へ報じた連署状。
元和五年七月三日 / 冊子 704~705頁
国役と借銀の負担に対応するため、諸士・寺社の知行上地、百石以上は四分一・百石未満は三分一の上地、屋形内の女房衆や衣裳の削減、出物・蔵入・物価・米取引・違反者処罰などを定め、将来の知行返還にも言及した掟書案。
元和五年七月三日 / 冊子 706頁
公務費用の不足により、諸士・寺社の知行から二分半を上地させ、国役を支え、衣食などの無益な出費を禁ずる趣旨を簡潔に示した掟書。
元和五年八月廿四日 / 冊子 709頁
伊勢貞豊が、松齢自貞庵主(島津義弘)の仏道への帰依と遺徳を偲び、涙・秋・月・鐘などを詠み込んだ追悼和歌。
(元和五年)七月廿七日 / 冊子 711頁
大橋親正が、島津義弘死去の報に接した驚きと哀悼を述べ、島津家久の心痛を気遣い、追善供養と家中への慰問を依頼した書状。
(元和五年)八月四日 / 冊子 712~713頁
上井里兼・相良頼豊が、京都での家久の将軍拝謁と饗応、帰国許可、家久の姪の縁組、献上材木船や銀子の処置、京都での諸折衝などを国元へ詳報した連署状。
(元和五年)八月廿二日 / 冊子 713頁
細川忠利が島津義弘への弔意を使者を通じて伝え、帰国した島津家久の悲嘆を慰め、詳細は伊勢貞豊へ申し入れたと述べた書状。
(元和五年)八月廿三日 / 冊子 713頁
新納久治が暇乞いに際する厚遇に謝し、今後も変わらぬ縁を願い、島津家久への取り次ぎを伊勢貞豊方へ依頼した書状。
(元和五年)八月廿七日 / 冊子 715頁
細川忠興が島津義弘の死を悼み、弔使の志水雅楽助を遣わして香典銀五十枚と法華経一部を贈り、島津家久への取り次ぎを伊勢貞豊に求めた書状。
(元和五年)八月廿九日 / 冊子 715頁
徳川秀忠が島津義弘の死去に弔意を示し、島津家久へ花房元則を遣わして詳しく伝えさせる旨を記した御内書。
(元和五年)九月朔日 / 冊子 715~716頁
花房元則が島津家久方からの書状を受け、翌日の出立、高松領内などを経る旅程、面会と連絡の手配について町田図書へ伝えた書状。
(元和五年)九月五日 / 冊子 716頁
山崎正次が、薩摩領海で目撃されたオランダ船について照会を受け、八月二十八日に一艘が入津したため船の由来を尋ねたことを島津家久へ報じた書状。