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HP-1316巻10:191~192公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

島津忠倍

異名・検索語:島津忠倍/島津河内守忠倍/忠直/菊寿丸/又五郎/島津忠長/島津忠将/鹿籠/伏見/朝鮮/南原城/庄内合戦/水俣合戦/東郷/天正六年/慶長十四年/大円覚翁庵主/阿久根為兵衛/山元弾右衛門/有川慶助

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

DESCRIPTION

本文内容説明

島津河内守忠倍(初名忠直、菊寿丸・又五郎)は忠長の嫡子で、母は右馬頭忠将の娘。天正六年二月朔日、鹿籠に生まれた。父忠長とともに京都・伏見へ往来し、朝鮮出征では南原城攻めで敵首を取った。庄内の陣でも軍功を挙げる。水俣合戦では、矢ごとに「島津又五郎忠倍、生年二十四」と書き付け、多数を敵へ射たという。慶長十一年、父が鹿児島へ移った際、忠倍は東郷に住んだ。同十四年五月十八日没、三十二歳。法名は大円覚翁庵主。阿久根為兵衛・山元弾右衛門・有川慶助の三人が殉死したと記す。

系譜・人物関係

父忠長の嫡子、母は右馬頭忠将の娘。初名忠直、菊寿丸・又五郎の見出し注を確認。父の京伏見往来と鹿児島移住に関係する記事を本人の行動と区別。次項久元は独立人物として除外し、久元条の役職や軍功を転用しない。

奉公・役職

父忠長と京・伏見に往来。慶長八年の御家御安定御祝言に同公とあり、祝言への供奉記事として保持するが、具体的な相手や役割を推定しない。慶長十一年、忠長が鹿児島へ移った際に東郷に居住した。

軍役・事績

朝鮮南原城攻めで敵首を取り、庄内御陣で軍功。水俣合戦では矢ごとに島津又五郎忠倍・生年二十四と書き付けて多数射た。旧説明の矢札を付けたという物理的形状は本文の書付から確定できないため、書き付けたとする。水俣記事の慶長五年は括弧と朱注を伴い、生年・二十四歳との整合課題を残す。

生没・法名等

天正六年二月朔日、鹿籠生。慶長十四年五月十八日没、三十二歳。本文法名は大円覚翁庵主。法名に関する墓銘の細字注は異表記を含むため分けて保持。殉死者は阿久根為兵衛・山元弾右衛門・有川慶助の三人と記す。直前の東郷居住から没地・埋葬地を推定しない。

統合人物ID
HP-1316
原人物ID群
10-191-01
氏・分類
島津
掲載巻頁
巻10:191~192
主題・活動
系譜・奉公・役職・軍役・生没
人物関係要約
父忠長の嫡子、母は右馬頭忠将の娘。初名忠直、菊寿丸・又五郎の見出し注を確認。父の京伏見往来と鹿児島移住に関係する記事を本人の行動と区別。次項久元は独立人物として除外し、久元条の役職や軍功を転用しない。
検索キーワード
島津忠倍/島津河内守忠倍/忠直/菊寿丸/又五郎/島津忠長/島津忠将/鹿籠/伏見/朝鮮/南原城/庄内合戦/水俣合戦/東郷/天正六年/慶長十四年/大円覚翁庵主/阿久根為兵衛/山元弾右衛門/有川慶助
公開区分
公開可
精読・確認状況
従来記録:精読済(今回の再精読は未実施)
公開判定根拠
従来判定を継承。新基準による個別再判定は未実施。
説明作成区分
AI用PDF全頁精読
本文境界判定
修復後AI用PDF全2頁を再読。冊子191頁下段の忠倍見出しから192頁上段冒頭の没年・法名・殉死者まで。第1頁の本人別名注を収め直し、第2頁左端の隣接文字片を除いた確認用・AI用2PDFへ差替え。次項久元を含まない。旧2PDFをバックアップ保存。新規採番なし。
判読保留
水俣記事の慶長五年という朱注付き年次は、天正六年生と矢に記す二十四歳との整合が取れないため公開文では年次を省く。矢札とは断定しない。法名の墓銘異表記・殉死者名の朱注は追加校合対象。東郷居住は確認したが没地とは断定しない。確認した経歴・事績・没年月日・享年に基づき公開可。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』