HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
仁礼頼景
異名・検索語:仁礼頼景/仁礼蔵人頼景/蔵人/信濃守/小吉/舎人/景親/頼尊
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
未確定事項:法号中央字は要に見えるが確定を留保。葬寺名は本広院を基底とするように見え、懐・宮らしい並記もあるため配列と正規寺名を留保。/高隈は本文高限に隈の異注を含む整理形。高隈の外城建立注や地頭任命の細かい係り受けは留保。/主君中納言の実名を外部知識だけで補わない。虎狩屏風の扇紋陣羽織・振袖の騎馬人物は頼景ナルベシという史料内の推定。/仁礼改姓に関する小名・宮原左近との相論の細字は留保。頼充・頼宣ら子孫の役職と忠頼(HP-2136)の剣術・寛永十八年没・日新寺墓を本人へ転記しない。
DESCRIPTION
本文内容説明
仁礼頼景は別府隼人頼延の子で、天正八年生。蔵人・信濃守などを称し、初名景親、また頼尊。父が根白坂で戦死した後、叔父宅で育ったと伝える。若年から中納言に仕え、文禄二年に京都から朝鮮へ渡り、慶長三年の泗川軍にも参加した。翌年三月、伏見で伊集院幸侃が手討ちされた際にとどめを刺し、脇指を拝領。五年十一月に百石を加増された。御使役、串木野・高山・高隈・市来の地頭を務め、大坂に出陣。元和六年には御供して江戸で御使を務めた。犬追物を願い出た際に仁礼氏へ改姓し、宮原左近と氏名を争った記事もある。寛永八年に琉球在番、翌夏帰国。正保三年正月十三日、江戸で六十七歳没。福昌寺塔司・得水軒にも石塔があった。虎狩屏風の騎馬人物を頼景とする記述は推定。子孫の与頭・御礼使・日光名代の事績や、別人忠頼の記事とは区別する。
系譜・人物関係
別府隼人頼延の子。祖父民部左衛門頼昌、曽祖父土佐守頼堅、高祖佐渡守頼長。叔父宅で成長との注は伝承。子主計頼充、その子民部左衛門頼宣、その子仲右衛門の付記を本人と区別。
奉公・役職
若年より中納言に仕える。御使役、串木野・高山・高隈・市来地頭、元和六年江戸御供・御使。寛永八年琉球在番、翌夏帰国。
軍役・事績
文禄二年朝鮮渡海、慶長三年泗川軍、四年幸侃手討時とどめ、五年十一月百石加増。慶長十九年・元和元年大坂出陣。犬追物の願いと仁礼改姓、宮原左近との氏名相論。屏風人物比定は推測。
生没・法名等
天正八年生、正保三年正月十三日江戸没、六十七歳。法号・葬寺異記は留保。福昌寺塔司得水軒にも石塔。忠頼の没年墓所は別。
- 統合人物ID
- HP-0850
- 原人物ID群
- 02-033-02
- 氏・分類
- 仁礼
- 掲載巻頁
- 巻2:33
- 主題・活動
- 朝鮮・大坂出陣、御使役、地頭、琉球在番
- 人物関係要約
- 別府隼人頼延の子。祖父民部左衛門頼昌、曽祖父土佐守頼堅、高祖佐渡守頼長。叔父宅で成長との注は伝承。子主計頼充、その子民部左衛門頼宣、その子仲右衛門の付記を本人と区別。
- 検索キーワード
- 仁礼頼景/別府頼延/蔵人/信濃守/小吉/舎人/景親/頼尊/根白坂/朝鮮/泗川/伏見/伊集院幸侃/御使役/串木野/高山/高隈/市来/大坂/琉球在番/江戸/得水軒
- 公開区分
- 注記付き公開可
- 精読・確認状況
- 通常AI各全2頁・原冊33頁・拡大照合済。子孫役職と別人忠頼を区別、法号葬寺異記留保。
- 公開判定根拠
- 出自・軍役・御使・地頭・琉球在番・没地を整理し、法号葬寺異記と画中人物推定を注記して公開する。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁追加精読・原冊照合
- 本文境界判定
- 冊子33頁上段の一仁礼蔵人頼景から下段の子孫仲右衛門まで、通常AI各全2頁で連続。前の新納九右衛門久有と、末尾朱書の別人仁礼佐渡守忠頼を含まない。忠頼は既存HP-2136/02-033-02-02へ分離済み。新規採番・PDF変更なし。
- 判読保留
- 法号中央字は要に見えるが確定を留保。葬寺名は本広院を基底とするように見え、懐・宮らしい並記もあるため配列と正規寺名を留保。/高隈は本文高限に隈の異注を含む整理形。高隈の外城建立注や地頭任命の細かい係り受けは留保。/主君中納言の実名を外部知識だけで補わない。虎狩屏風の扇紋陣羽織・振袖の騎馬人物は頼景ナルベシという史料内の推定。/仁礼改姓に関する小名・宮原左近との相論の細字は留保。頼充・頼宣ら子孫の役職と忠頼(HP-2136)の剣術・寛永十八年没・日新寺墓を本人へ転記しない。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』