仁礼頼景書状
九月十四日 / 冊子 59~60頁
仁礼頼景が川上勘解由に、双方の家族・在所の近況を伝えた書状。満吉が宮原長次郎のもとで謡を稽古していること、薩州様の帰国見込み、江戸滞在中の費用に備えて親父から借銀する相談などを報告する。
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九月十四日 / 冊子 59~60頁
仁礼頼景が川上勘解由に、双方の家族・在所の近況を伝えた書状。満吉が宮原長次郎のもとで謡を稽古していること、薩州様の帰国見込み、江戸滞在中の費用に備えて親父から借銀する相談などを報告する。
九月十八日 / 冊子 60頁
仁礼頼景が、江戸到着後の拝謁・饗応と今後の行程を報告した書状。八月二十四日に江戸へ着き、翌日御前に出て振舞を受け、九月十一日に京都へ向かったことを述べ、勝利して帰国する願いと、若衆に舞・兵法を励ませるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 131頁
北郷久加が鷹府亭に島津家久・姫君と供奉の貴族を招いて饗応し、馬・青銅・時服などを拝領する一方、太刀・馬代・青銅を献じたこと、仁礼頼景が又次郎から佐渡へ改号したことを記す譜記事。
二月十日 / 冊子 153頁
鎌田政統らが本田蔵人に、上使下向に伴う石原での宿泊施設と振舞いの準備を指示した連署書状。宿は仮設程度に軽く造り、数百人の供衆には五、六か所で簡素な食事を供し、普請では前方衆の大工を使わず加治木の使衆と相談して整えるよう命じる。
年月日不記(天正十九年・寛永十四年などは系図内の生没・事績年) / 冊子 639~642頁/原整理番号 115
桂氏五世太郎兵衛忠詮の三男・忠増(初名忠益)から始まる彦太夫家系図で、子女の生没・婚姻と官職を記す。忠増は仁礼蔵人頼景の三男・忠守(初名頼張)を養子に迎えたが、のちに実子忠保が生まれ、頼景が忠守の帰家を求めた。忠増は二男家として残すことを申し出て田を分け、忠守の家を立てたとする。忠守は明暦三年に境目の紙屋で地頭職に補され、加久藤・横川でも地頭を務め、京都蔵奉行・町奉行・琉球奉行・御用人などの勤めを重ねた。寛文九年の病中には綱久が山次右衛門久包を通じて安否を尋ねたこと、後代の勝政による太刀献上や勝房らの系線も載せる。
二月五日 / 冊子 79頁/原整理番号 126
川上久国・三原重庸が仁礼頼景・伊地知重賢・大野久武・伊地知重順へ、去る四日付の有馬書状が今朝届き、松平伊豆守信綱から島津久元へ薩州様の有馬行きは不要と伝えられたと知らせる。その地の兵を出発させるかは、当地の兵少老と相談するよう求める。
二月四日 / 冊子 66頁/原整理番号 103
川上久国・三原重庸が仁礼蔵人頼景へ、有馬表では肥後・肥前衆の仕寄が城の塀際から五間・十間ほどまで迫ったが、城攻めの沙汰はないと知らせる。薩州様の着船後の報知と、この文箱を細島へ早く送ることを求める。