伊集院抱節・比志島国貞連署証状
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、兵船の渡海が困難ななか自力で参陣した高城左京亮の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
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慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、兵船の渡海が困難ななか自力で参陣した高城左京亮の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
(慶長四年)五月廿一日 / 冊子 385頁
本村半右衛門尉が高城左京亮に、高四十石の指出として、慶長元年十一月廿日に主従二人で出立し、慶長三年二月に御供から帰朝した経歴を記す。その間、所から六か月分の御盛を受け、残る十八か月分は自ら堪忍したと申告する。
元和七年八月廿五日 / 冊子 768頁
島津久元ら四名が大根占・小根占・川内・高城・出水・清敷の担当者へ、熊嶽勤について家中各所では毎年二度ずつ家衆を回しているのに当地では勤めがなかったため、今後は同様に勤めるよう下々へ申し渡すことを命じた連署書下。
七月十六日 / 冊子 253頁
島津氏久が、高城郡内の重豊領分の半分について知行に相違がないことを認め、詳細は延尉方と相談するよう命じた安堵状。
応永廿二年四月十一日 / 冊子 292頁
高城氏所蔵文書として、応永二十二年四月十一日の年紀と重継の花押を掲げる証状。本文内容は掲載されず、具体的な証明対象は確認できない。
大永三年五月日 / 冊子 642頁
高城重興が山口九郎右衛門尉に、先の文書に関する用件と肥前守への伝達を頼み、返事を求めた書状。
元徳四年三月十日 / 冊子 600~601頁
薩摩国高城郡本万徳名内の田薗・屋敷・原野を項目別に列挙し、弁済使兼供の給分と年貢負担を定めた契状。本万徳名、柏木井、松木、藏町、野本、世戸口など各所の面積を示し、毎年三月中に年貢米・銭を納め、未納なら所務を停止すると定める。
年月日未詳 / 冊子 60頁
今川了俊が島津親忠・忠房、渋谷重門らに峰城攻撃を命じた戦役を記す。島津・渋谷勢と高城・東郷勢の交戦、定山公方の築城と籠城、相良氏らの救援・進退を追い、城の争奪を通じて九州探題方と在地諸氏の軍事関係が変化した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
島津国史の記事として、応永八年三月以降、島津久哲が田代清久らを市来へ派遣して城攻め・救援を行い、渋谷氏諸族や鶴田・高城などをめぐる戦闘が続いた経過を記す。多数の合戦・人名を含むため、主要な派兵と攻城の流れに限定した。
年月日未詳 / 冊子 254~255頁
応永十八年、久世忠朝が渋谷方と結んで蜂起し、三千余騎が碇山周辺へ進出したため、市来・伊集院方が河川・舟・柵を用いて防戦した経過を記す。のち忠朝方の進退、京都への赦免申請、高城への帰還、久豊方との和睦交渉に及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 261~263頁
応永十九年、比志島久範に旧領油須木村を領させた記事を起点に、比志島範平以来の系譜と所領を考証する。続いて伊東氏の侵攻に対する鹿屋城・高城・穆佐方面の攻防を記し、肝付・佐多・高城・山田諸氏ら島津方武将の戦功を列挙する。戦後の恩賞と所領確認までを収録する国史記事。
年月日未詳 / 冊子 138~139頁
天正十四年正月、新納忠元が家臣を率いて大口を発し、豊後方の野尻城・高城などへ攻め込んだ戦功を記す「忠元勲功記」。城兵を討ち、城主・人質を確保して諸城を押さえ、入田氏側の人質との交換や服属処理まで進めた。諸隊の配置、城攻め、降参者の扱い、戦後の知行・褒賞を連続して述べ、新納忠元の豊後侵攻における軍事・占領実務を詳しく伝える。
年月日未詳 / 冊子 315頁
四月六日、羽柴秀長が二十万騎と記される軍勢を率い、高城・財部間の五十一か所へ陣を構えた。義久・義弘は都於郡で援兵を整え、十七日の根白坂合戦で島津忠隣らが進撃したが、忠隣以下三百余人が戦死した。高城攻防の損害と忠隣の最期を記す譜記事である。
文禄4年6月28日 / 冊子 892頁
米良勝右衛門尉が、高城左京亮・新納狩野介の承知事項や、高麗で久保が借り上げた銀子の処理、上地田数、延命寺分、太平寺への付分などを石高別に列挙した差出。 総石高を三百二十九石二斗七升一合、そのうち上地分を七十四石七斗九升三合と算出する。朝鮮出兵時の貸借を在地の土地・寺社領勘定へ組み込んだ経過が分かる史料である。
(慶長四年)九月十一日 / 冊子 434~435頁
新納為舟忠元が秋月長州に、二日間の戦況を報告する。都城から一里ほど手前まで兵を進めると敵が出て激しい鉄砲戦となり、その後、野々美谷・高城・志和池の兵が合流した。敵の三重の備えを破って二、三十人を討ち取り、味方は六、七人が戦死したと述べ、秋月の参陣時期に相談したいとする。
年月日不詳 / 冊子 116頁
渋谷氏が鹿児島へ参仕した際の座配を書き立てた文書。忠隆公の御代における主居・客居の配置を示し、入来院・伊地知・高城・祁答院・東郷・樺山・北郷など各家の席次を図示する。
正和三年十月三日 / 冊子 443頁
薩摩国高城郡内吉枝名同車内并在廳職に関し、藤原親郷が勘渡した文書目録。師高・高重・領家・関東の譲状案、御教書案、下文案、施行正文、六波羅御教書、守護所請文、宣案、在廳職証文など多数を年代順に列挙し、封裏・巻内文書も含めて勘渡した。
年月日未詳 / 冊子 725頁
暦応二年八月以降、高城をめぐる重久篤兼らの攻防を記す系譜記事。重久・江田式部少輔らが高城で連日戦い、城を落とされながら奪回を図り、九月五日に再び攻めた経過を記す。
承応三年五月二十三日 / 冊子 242~243頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0506
町田久則が、橋口七左衛門・長友主水・前田蔵人三人の禄高・屋敷を列記する。三人は新納加賀の大口地頭所で諏方采女が数年預かっていたが、今回大村地頭所へ召し移すので支配するよう、高奉行の高城喜左衛門・有馬治右衛門へ命じる。末に五月二十三日町田久則印、筑前・図書の印がある。
天正二年七月廿日 / 冊子 342頁
天正二年七月二十日に催された『賦何船連歌』の連衆交名で、義久をはじめ僧俗の参加者と役・句数を列挙する。発句『ふく風やこ与ろの秋のま莱右』を掲げる。
享保七年五月 / 冊子 536頁/整理ID 1384
松平大隅守の家督後初めての御暇帰国に際し、先例により京都で松平伊賀守へ立ち寄る件を伝える。水野和泉守らとの相談、差図の取次ぎにも触れる。
年月日未詳 / 冊子 341頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0734
光久公譜中の記事。明暦三年、江戸城修復に用いる材木の目録を高城経営が執政へ願い、同年七月朔日の奉書で認められたとする。そのため翌年に杉戸・大坂(板カの刊本注)・樟板・松挽物を進献したと記す。
年次・月日不記(島津忠隆の代) / 冊子 582~583頁/原整理番号 93
島津忠隆の代に渋谷氏が鹿児島へ参上した際の座配を示す記録。『主居』には忠隆と入来院又五郎重朝・伊地知周坊入道・祁答院又次郎、『中居』には東郷弥次郎と椛山藝州入道長久を配し、続く『上下』には高城秋月・伊地知縫殿助などの名を記す。人物名を単純に一直線の序列として並べたものではなく、主居・中居など席の区分と各区分内の配置を記した点が特徴。年月日・差出人・宛先は本文にない。
建久九年三月日 / 冊子 93頁
城新郡司豊津友安が、八幡新田宮の燈油料田九段・十代を奉免した譲状。高城郡谷口の田地を掲げ、本領主時吉の灯油料田として寄進された由緒と、随国免の扱い、永年の奉免を確認する。
年月日未詳 / 冊子 101頁
薩摩国高城郡国分寺の寺地、天満宮・村上天皇勅願など、創建と寺領の由緒を記す。
元徳三年七月十三日 / 冊子 591頁
武光氏日妙が三郎重兼へ、薩摩国高城郡吉枝名惣領、同郡本方徳名内田薗、国富里郷の権二郎名惣領、清水寺別当職・免田薗山野、国太田庄南郷の在庁職などを譲る。重代相伝として子息重兼へ永代譲与し、兄弟・後代の違乱を禁じる。
元徳三年七月十三日 / 冊子 591頁
No.1580と同文であるため本文を省略した武光日妙譲状。元徳三年七月十三日付で、三郎重兼への高城郡吉枝名ほか所領・所職の譲与を示す。
元徳三年八月廿一日 / 冊子 592頁
沙弥きやうにんが、薩摩国高城郡吉枝名内の亡父きゃうゑんから譲られた田地を銭十五貫文で売却した仮名書きの売券。売買対象と代銭を明記し、買主の知行を保証する。
年月日未詳 / 冊子 680頁
肝付兼重が石井山城・高城を拠点に島津方と戦い、清敷・祢寝氏らの攻撃を受けつつ城郭を防いだ経過を記す肝付兼重伝。兼重の出自、攻防の日付、加勢した一族・被官、後醍醐天皇方としての活動を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 722~723頁
暦応二年七月以降の肝付兼重・畠山直顕・祢寝清種らの動向を記す伝記記事。直顕が清種らを復領させ、十三日に肝付氏を攻めたこと、兼重が高城へ籠って兵を集め、越前・豊後・日向の情勢と連動して城攻めを続けたこと、松浦来居三俣や江田氏との系譜関係を記す。
暦応二年九月五日 / 冊子 725頁
重久掾藤原篤兼が高城攻めで軍忠を尽くした軍忠状。前年十二月以来肝付八郎兼重を攻め、七月廿七日に落城した際も連日戦い、早期の攻略へ進んだとして証判を求める。
貞和五年八月十二日 / 冊子 789頁
平重射が薩摩国高城郡内の田地五段を新田八幡宮御宝前へ寄進する。慈悲万行の名構、朝家無双の霊神と讃え、金輪聖主の宝祚延長と国土泰平を祈願した寄進状。
七月十六日 / 冊子 886頁
島津氏久が、高城郡内重富半分について申談に相違がないことを確認し、今後の扱いを定めた安堵状。所領について補任・安堵・裁許または執行を命じ、判断の根拠と現地で守るべき条件を示す。島津氏久ほかが高城郡ほかに対し、補任・安堵・裁許・執行の対象と効力を具体的に示す。
天正十二年六月二十四日~二十八日 / 冊子 899~900頁
六月二十四日から二十八日にかけ、宇都氏・赤星氏・五島宇久氏・合志氏から島津軍の帰陣や高来勝利を祝う使書と太刀・馬・巻物・衣類が届いた。また日向高城で大友勢が滅亡して七回忌に当たるため、同地で大施餓鬼を営むよう担当者へ命じた。
七月朔日 / 冊子 469頁/原整理番号 599
長崎への外国船来航で多数の加子が必要なため、賦付の書物を持参する加子追立衆に従って早急に加子を立て、一刻も早く久見崎御船手へ送るよう命じる。遅延には後日厳しい処分があるとし、各所で判を据えて鹿児島へ返送させる。
八月十二日 / 冊子 491頁/原整理番号 624-2
鎌田政慶が、召し置いた人数の名書には主取の名と派遣先を記し、この状を確認後に順次回送するよう命じる。郡山以下十三か所の御曖衆中を回覧先とし、十四日未刻に大口へ次渡したとの追記がある。
寛永十四年正月廿七日 / 冊子 632頁
庄内高城の東霧島六所権現宝殿一宇を造立した棟札。大檀主を島津家久・光久とし、地頭三原次郎左衛門重貞、奉行伊集院備前守久望、坐主性秀法印、大工武元兵右衛門尉清方を記す。
慶安元年四月~慶安二年四月二十六日 / 冊子 151頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0271
北郷久加が慶安元年四月に島津久通の代わりとして江戸へ赴き、翌年に帰国の暇を賜った際、異国方・宗門関係を命ぜられた。慶安二年四月二十六日には高岡から川内・高城の地頭職へ転じた記事。
承久年間 / 冊子 176頁/原整理番号 56
高城氏の系図。初代重貞は落合六郎を称して高城を号し、承久の乱に宇治川で戦死したと記す。二代重秀(太郎二郎)から、三代重郷(河内守)、四代重藤(太郎)、五代重雄(小太郎・下総守)、六代義重(六郎太郎)、七代重豊(越後守)、八代重令(越後守)へ続ける。後半は九代重継(小太郎・下総守)、実弟との注を伴う十代重珍(三河守)、十一代重頼(彦太郎・越後守)、十二代重政(又太郎・周防守)、十三代重前(弥六郎・長門守)、十四代重鐘(六郎・周防守)を掲げる。さらに重治(異本は武蔵守)―重説(六郎太郎・左京亮)の系線を示し、『書入諸家系図』では重治を脱して重説を重鐘の子とする旨を注記する。末尾に後代の重貞(喜太郎・主馬允)―重善(小平次〔ママ〕・喜右衛門)の系線を載せる。
年月日未詳 / 冊子 121~124頁/原整理番号 457
『高城名勝志方留』から、高城麓の寺社・城跡・墓碑・伝承を抜萃した記録。桃花山多楽院は前代十二坊・寺領八町余を有したが天正年中の兵乱で焼失し、当時は寺高二十三石とする。信興寺末寺永学寺の寺跡、古城と水引、高城三社権現・鐘守堂・天満天神宮の由緒、石塔・仏像・社殿の寸法や銘、湯田村の大石飛来伝説と天神図などを収める。
目録年月日記載なし / 冊子 419頁/原整理番号 13
『日向記』から、今川播磨守の下向・在国、穆佐高城を開いての帰国、島津氏の山東出陣と清武城攻撃を引く。続いて「氏久」は元久の誤記と指摘し、伊東方の記録や穆佐三百町・池尻・白糸・細江の地名を照合する。
巻二/冊子 26~29頁
天正六年、大友義統・義鎮父子が豊後・肥後・筑前などの大軍を率いて日向へ侵攻し、高城を包囲した戦いを記す。高城では山田有信を中心とする島津方の守兵が、兵糧や水の不足に耐えて防戦した。義久は諸軍を集め、家久らを前面に出して大友軍と対峙する。十一月の決戦では、島津軍が釣り野伏などの機動的な戦法で敵を誘い崩し、耳川方面へ敗走させた。大友方は多数の将兵を失い、河川や山道で潰走したとされる。戦後、義久は敵陣跡で凱歌を挙げ、敵方に従った日向の住民についても一律に殺すのではなく、罪を問いつつ謝罪・服属を受け入れた。大友氏の大軍を退けた高城・耳川の戦いを、島津氏の九州進出を決定づける勝利として描く記事である。
慶長五年、慶長七年、寛永十四年~延宝七年(後続系譜記事) / 冊子 487~489頁/原整理番号 20-1
慶長五年・七年の諏訪大明神祭会について、御頭屋・御頭人、左右の居頭、初献・二献・三献、相伴、御幣、敷皮などの勤役者を列挙した書上。高城・寺山・国分・新納・平田・加治木・本田・猿渡らの人名と、嫡子・二男・内衆などの続柄や立場を具体的に記す。後半は平田氏の後続系図で、伊東肥後守祐辰女を妻とした人物の没年・葬地に続き、内田才右衛門正重の嫡子・宗宣が宗敏の婿となって家を継いだことを記す。宗宣は寛永十四年の肥前有馬におけるキリシタン一揆で軍使を務め、翌年二月二十八日の原城攻めでは自ら枝書右衛門を召し取り、分捕りの証状を得たとし、その後の宗模・宗貞・宗明・宗喜らについて妻の出自、出生・没年、幼名・通称を延宝年間まで載せる。
文禄四年六月廿八日 / 冊子 32頁/原整理番号 246
米良勝右衛門尉が、高麗での見次・引渡し、久保による銀子借上げ、上地・寺領などの石高を列挙した差出。惣都合三百三十九石二斗七升一合、うち上地七十四石七斗九升三合と集計する。文禄四年六月廿八日付。
年月日未詳 / 冊子 310頁/原整理番号 11
渋谷氏の略系図。重国から渋谷庄司への系統を示し、渋谷庄司が相州酒匂川を領したこと、忠久の時代に当たることを付記する。
年月日未詳 / 冊子 46~58頁/原整理番号 14
鮫島日向入道の自記を核に、島津家・支族・家臣の婚姻、系譜、所領、居城、合戦、寺社寄進を世代ごとに検討する長篇考証。異本・系図・棟札・古文書を突き合わせ、多数の人物比定と年月訂正を行う。
〔貞和二年〕五月十八日 / 冊子 767頁
南方凶徒が暗夜に東福寺城を襲う計画であるとの伊集院助三郎・市来入道方の報告を受け、一族を寄せ合わせて軍勢を整え、敵の集結時には直ちに馳せ参じるよう比志島彦一へ命じた島津道鑑書状。
享保七年七月四日 / 冊子 549~550頁/整理ID 1420
島津久武・伊集院久矩が、在府大名の登城名代や家老からの伝達、米の上納を金子に替える可否などを検討し、幕府方針の運用について申し述べる。
二月十五日 / 冊子 140頁/原整理番号 235-2
川上久国・三原重庸が諸外城へ、薩州様が今日着くとの有馬からの報を受け、猪鹿を捕って二十日・二十一日までに届けるよう命じた廻状。猪は雄猪を差し上げ、ほかに各地で得られる肴もできる限り調達するよう求める。
二月十五日 / 冊子 141頁/原整理番号 238
川上久国・三原重庸が沿道諸地域へ、薩州様が今明日中に阿久根へ着き川内筋を通って鹿児島へ向かう予定なので、自有馬を整えて道橋を補修し、夜道に備えて各所で松明を用意するよう命じた。