庄内平治記
永禄九年三月廿二日・四月廿日 / 冊子 145頁
永禄九年三月二十二日に伊東勢が目井へ陣を置いたことを記す。四月二十日、飫肥宮之浦の兵が海上で伊東勢と戦い、敵二十九人を討ち九人を生け捕り、合わせて六十三人を討ち果たし、船五艘を奪った。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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永禄九年三月廿二日・四月廿日 / 冊子 145頁
永禄九年三月二十二日に伊東勢が目井へ陣を置いたことを記す。四月二十日、飫肥宮之浦の兵が海上で伊東勢と戦い、敵二十九人を討ち九人を生け捕り、合わせて六十三人を討ち果たし、船五艘を奪った。
(永禄十一年)四月七日 / 冊子 197頁
島津貴久が飫肥へ遣わした使者の帰着を伝え、志布志を放棄すべきではないと述べた書状。北郷氏へ末吉を渡すなら志布志の番も北郷氏から受け取り、飫肥・酒谷の番は島津方が受け取るよう談合したとする。現地人衆は反対しており、大事であるため相談すべく一、二日中の来訪を待つ。
七月九日 / 冊子 264頁
島津久豊が、返済・貸借と料足の不足について事情を述べ、飫肥殿方の者への対応を頼み、十貫を貸し与えてほしいことなどを樺山殿へ求めた書状。
延徳二年三月廿六日 / 冊子 549頁
延徳二年三月二十六日に福島で行われた犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記録した一覧。
延徳二年四月朔日 / 冊子 550頁
延徳二年四月朔日に福島で行われた犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者と成績を疋数で示した一覧。
延徳二年四月六日 / 冊子 550頁
延徳二年四月六日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を記録した一覧。
延徳二年四月十八日 / 冊子 551頁
延徳二年四月十八日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記した一覧。
延徳三年二月廿日 / 冊子 557頁
延徳三年二月二十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を記録した一覧。
延徳三年三月三日 / 冊子 557頁
延徳三年三月三日の犬追物手組について、島津次郎三郎以下の参加者と各人の疋数を記録した一覧。
永享五年二月廿四日 / 冊子 116~117頁/原整理番号 441
伊集院為久が飫肥殿・野辺殿に、大隅国深川院のうち二口町を除いた残余を料所として宛行い、先例に任せて知行するよう命じた宛行状。永享五年二月廿四日付。
年月日未詳 / 冊子 59頁
永禄元年三月の恒吉宮ヶ原合戦で肝付勢が飫肥・庄内両軍四百余人を討ったこと、島津方の櫛間出兵、九月の島津義益の元服と犬追物を記す。
年月日未詳 / 冊子 346頁
伊東氏内部の変動と合戦を編年的に記し、伊東祐充の死去、福永伊豆守父子の切腹、北郷・北原・肝付・飫肥・新納勢との三俣・高城合戦、伊東武州の生害とその子の謀叛、義祐の日知屋退去、荒武氏らの離反、綾城・守永城の動向を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 67頁
永禄元年冬、島津方と肝付氏が戦った経緯を記す。清ヶ島で肝付方の有力者が多数討たれた後、兼続が少人数で踏みとどまり敵を退けたこと、伊東方が新山・南郷方面から櫛間を攻めた状況を述べる。
年月日未詳 / 冊子 128頁
永禄七年正月二十日に伊東勢が鬼ケ城へ陣取り、三月十四日に酒谷へ進攻して翌夜退いたことを記す。十六日には伊東兵が本城向原の作物を荒らしたため、城兵が迎撃して敵六人を討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 365~366頁
山田某外二名の連署書状。飫肥城で前年九月末から進められた本丸・曲輪・堀などの普請を内偵し、本丸と一之丸の間を埋めて一体化したこと、新たな堀・出入口・兵具準備・夫役動員を報告する。江戸からの飛脚往来や領内の警戒状況、犬追物を古法どおり行うとの情報も併記する。
慶応4年辰正月24日、使者差立ての記録 / 冊子 478頁/原整理番号 647/整理ID 647
この藩から布告文を持たせ使者を送った大名衆の名書を掲げる。熊本・久留米・柳川・福岡・佐賀、飫肥・高鍋・延岡・中津・小倉・岡・杵築・臼杵・府内・森・日出・佐伯、島原・唐津・平戸・五島・大村の配布先を、原の領主称号と使者の組ごとに列記する。慶応四年辰正月二十四日に使者を差し立てたと記し、続く布告文は略すと明示する。使者派遣の記録と布告内容の省略を区別し、訪問・受領の完了や省略された布告の文言を補わない。
年月日なし / 冊子 864~865頁/原整理番号 1084の3/整理ID 1084-3
薩摩・大隅・日向・琉球の各地域について、鹿児島県・都城県・延岡県・飫肥県等へ引き継ぐ石高を列記する。新県再編に伴い、別紙の方針に従って旧県事務を継続し、管轄郡への委細伝達、地頭・郡役人その他の職務遂行を命じる。
永享五年二月廿四日 / 冊子 125頁/原整理番号 464
伊集院為久宛行状。本文は『諸家系図文書』四四一号文書と同一のため省略され、この写しには宛書等がない。参照先No.441は、伊集院為久が飫肥殿・野辺殿に、大隅国深川院のうち二口町を除く残余を料所として宛行い、先例に任せて知行させたもの。永享五年二月廿四日付。
康永三年十月三日 / 冊子 732頁
一乗院政所が島津庄日向方飫肥北郷の弁済使代官職に藤原鶴一丸を補任した下文。年貢以下の収納、私相伝所職の保持、押領停止、給主の処置、恒例臨時の課役、違背時の罰則などを定め、庄家に承知・執行を命じる。
康永三年十月三日 / 冊子 758頁
一乗院政所が藤原鶴一丸を島津庄日向方飫肥北郷の弁済使代官職に補任した下文。給主の処置、年貢抑留の禁止、所務、恒例・臨時課役、違背時の弁済などを定め、庄家へ承知・執行を命じる。
〔貞和二年〕八月六日 / 冊子 759頁
一乗院僧琳乗が、島津庄日向方飫肥北郷の弁済使代官・収納使職を藤原鶴壹丸へ宛て行い、毎年の年貢弁進、残分の処理、代官得分と職務継承を定めた宛行状。
康永三年十月八日 / 冊子 759頁
一乗院僧琳乗が、飫肥北郷弁済使代官の所務をめぐり、門跡領での押領・狼籍、年貢収納の妨害について関係者を召し出し、厳密な沙汰を行うよう求めた申状。
年月日未詳 / 冊子 331頁
薩隅往還の要害である薩川に奈良氏を置き、飫肥・田代・清武方面への便宜と加江田の藩屏・警固を担わせたことを記す。
延宝三年八月廿日 / 冊子 663~664頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1667
正保元年以降の庄内・飫肥間の論山について、双方の絵図の相違、証人・古来の由緒、江戸評定所への出訴、現地検分要求、諸郡境との比較、書付提出までの経緯を記した日帳写。
宝暦十年八月十八日 / 冊子 785頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2408
重豪が八月十八日、中山王へ、前年に船が逆風で日向国飫肥領へ漂着した際、無事に帰帆させたことについて返答する。その謝礼として安谷屋親方が遣わされ、別録記載の品を贈られたことを受け、過分な心遣いであると述べる。
目録年月日記載なし / 冊子 429頁/原整理番号 44
その後、飫肥近くの川地と呼ばれる所で奈良方の柵を取ったことを記し、田代との取合いと使者をめぐる記事に続く。
巻一/冊子 9~11頁
清水城主本田紀伊守親康が累代の恩を忘れ、主命や身分秩序を軽視して驕奢・殺戮を重ねたため、家臣が離反し、姫城・清水をめぐる戦いに至ったことを記す。親康は又次郎を無断で左京大夫と称させ、伊地知又八郎・本田又九郎らを殺し、本田刑部少輔は姫城に拠って清水への道を断った。大永七年、本田党と新納近江守が八幡神社を焼いた旧事も挙げられ、貴久は国中へ勧進を命じ、忠良も田を寄進して再建した。天文十七年、北原・渋谷方の侵攻に対し、伊集院大和守忠明が海路で宮内へ入り、小浜・廻城・敷根・上井などを攻略する。清水・姫城の本田勢も降伏し、親康父子は庄内へ退いた。後半では日向飫肥城の島津豊後守を救うため忠明が三百余騎で出陣し、伊東勢の陣を破って二百余人を討ち、翌夜に敵を撤退させたとする。内乱鎮圧、神社再興、飫肥救援を本田氏の不義と忠明の功績を対照させて記す。
巻二/冊子 15~18頁
島津忠国の弟季久の子忠廉が文明十八年から日向飫肥に居住した由緒と、永禄三年の将軍上使伊勢備後守による島津・伊東間和平交渉を詳録する。上使は飫肥を公領として和睦させようとするが、樺山善久ら島津方は、飫肥が頼朝以来の島津領であり伊東領ではないと反論し、伊東が飫肥へ手を出さないことや大友氏との協調を条件として確認する。続いて貴久は忠廉の孫忠廣の継子として忠平(のち義弘)を飫肥へ送る。忠平は一年後に薩摩へ戻り、その隙に伊東勢が飫肥を囲むと救援を望むが、貴久・義久に止められ、養父忠廣との関係に苦悩する。後半では肝付兼続が貴久への礼を欠き、廻城を奪って伊地知重興・禰寝重長と結び反乱したため、島津軍が竹原山・廻城で戦う。忠将は制止を聞かず敵中へ突入して戦死し、町田忠林ら七十余人も討死した。肝付方は敗れて恒吉へ退く。忠平は忠廣の勧めで薩摩へ帰り、忠廣は北郷八代系の忠親を養子とする。忠親はいったん飫肥城を伊東氏へ渡すが、同年九月に策を用いて再入城した。和平外交、忠平の養子関係、肝付反乱、忠将戦死、飫肥家継承を結ぶ記事である。
延宝三年十一月廿二日 / 冊子 665~666頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1671
日向国那珂郡北河内村と諸県郡梶山村の山境争論について、山形と絵図により糺明し、わにの塚・城ヶ尾・牛ノ峠から南方の塚までの境を記して、絵図の墨筋と加印判を双方に下し、将来の違失を禁じる裏書の留め。
応永17年6月 / 冊子 52頁/原整理番号 49の9
島津殿(冒頭原注は島津元久)の上洛について、応永十七年六月三日の参府、十一日の参会、二十九日に御屋形へ御成の際の引物と、御所の目に懸かった供衆を記す。御一家二名、國方六名、御内方二名に分け、北郷中務少輔・樺山安藝守・加治木能登守ら各人の御太刀一・鳥目百貫を列挙する。軍行ではないが供衆の例として略抄した記事。
系図全体は無年次(天正7年の飫肥移住・同14年7月27日の戦死を記載) / 冊子 598~599頁/原整理番号 102
加世田士前田茂右衛門家の系図。祖先の前田兵部左衛門尉兼政が加世田に住み、天正七年に日州飫肥へ召し移され、同十四年七月二十七日に飫肥で戦死したと伝える。家伝では三代前まで肝付を称したが、家が盛んでなかったため前田を名乗ったといい、兼政の弟兼定は谷山へ移り、弟兼長は加世田に住んだと分けて記す。後続の兼昌・兼逸・兼通・兼明・兼治らの系線には、日向から母と姉妹が加世田へ移った話、幼くして知行を受けた記事、宮原・若松・河野・相徳武などへの女子の婚姻と早世も添える。
年月日未詳 / 冊子 266頁
野辺盛仁らの当知行分を国・郡・院ごとに列挙した所領目録。日向国櫛間院一円、飫肥院酒谷之城・南郷、大隅国加江田郷、深川院内二十町、隅田上半分、限屋河内などを掲げ、親類越中入道分との相違を問題とする。
貞和二年九月廿二日 / 冊子 770頁
沙弥道阿らが、飫肥北郷山西弁済使職の宛行を前提として、互いに身命を捨て無二の軍忠を尽くし、公私に助け合い、敵鎮静後は年貢を怠らず納めることを日本国中の神祇冥道に誓った契約状。
年月日未詳 / 冊子 777頁
四国・中国の海賊船三十余艘が日向国飫肥南郷内目井浦から肝付郡内浦崎へ入り、凶徒に加勢する恐れがあるとの報を受け、野辺孫七盛忠が追伐のため急行した経過を記す重久家蔵文書の記事。
貞和三年五月廿七日 / 冊子 777頁
島津貞久が、四国・中国の海賊船三十余艘が飫肥南郷内目井浦から肝付郡内へ来航し、凶徒に加勢する恐れがあるとの報を受けて発した緊急軍令。野辺孫七盛忠を使者として通報したので、時を移さず当陣へ馳せ参じ、海賊勢と合戦するよう重久氏関係者に命じる。
貞和三年八月十八日 / 冊子 780頁
一乗院領鴨津庄日向方飫肥北郷の収納使・弁済使代官職をめぐり、水間栄證法眼父子が武家御教書・畠山直顕奉書を根拠に所務している件について、飯尾左衛門大夫らに証文を探索し、権利の由緒を報告するよう命じた永成奉書。
(貞和三年)八月六日 / 冊子 780-781頁
一乗院大僧正が、春日社祓当門跡領の鴨津庄日向方飫肥北郷における収納使・弁済使職について、琳乗法眼の副状を受け、鶴一丸代久幸の所務を認めて遵行するよう命じた御教書。
(貞和三年)八月七日 / 冊子 781頁
琳乗が、鴨津庄日向方飫肥北郷の収納使・弁済使代官職について、忠政以下の悪党が地下を押領狼藉していると報告し、春日社御供饌料足地から年貢を収納できるよう、厳重に執務を進めることを求めた奉書。
応安五年十二月十一日 / 冊子 63頁
今川了俊が、日向国飫肥郡内北郷を兵粮料所として定め置き、異議があれば改めて沙汰すると土持三川守太郎へ伝えた書下。
年月日未詳 / 冊子 432頁
島津忠国が新納忠続を日向国飫肥へ置いて伊東氏に備えさせ、仁院領を従前どおりとしたことや、季久の帖佐領有・平山城をめぐる動向などを記す『島津国史』の記事。
年月日未詳 / 冊子 453頁
新納忠続が飫肥に居た時、島津立久が光臨し、犬追物を催したこと、その記録を左に掲げることを記す系譜記事。
寛正七年二月晦日 / 冊子 459~460頁
飫肥で行われた犬追物について、島津立久を中心に鴨津氏・伊東氏らを左右の組に分け、各人の騎数を列挙した別の手組。
年月日未詳 / 冊子 504~506頁
文明十六年前後、伊作久逸・新納忠続らが伊東祐国・北郷忠相方と戦った軍記。飫肥・福島・櫛間・高城を転戦し、島津忠廉・伊作祐安ら諸将の出陣、援軍、戦死、敗兵の撤退を追って、日向南部から庄内へ広がった戦線の推移を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 506~507頁
文明十六年、伊東方との戦いで新納忠続・久治、伊作久逸らが飫肥・伊作・北郷方面を転戦した経過を記す。各城の包囲・防戦、兵糧不足、援軍到着、敗走後の再進軍を追い、島津忠廉・北郷敏久らを含む諸勢が日向南部で戦線を維持した状況を示す。
年月日未詳 / 冊子 508~509頁
島津久逸が、飫肥と当地の間に生じた雑説について永徳寺芳蔵主へ問い合わせ、御屋形への請札や年来の名字に関する取りなしを依頼した書状。
「文明十六年」十月十五日 / 冊子 509頁
島津忠昌が村田経安に、伊東方との和睦・仲介を依頼し、飫肥で兵糧を蓄え難い事情や桂らの取次、国人の進状について伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 510頁
文明十六年の田野・飫肥・三俣方面における伊東方と新納・島津方の戦闘を日付順にまとめた殉死者記事。入佐孫六、伊東祐国、新納忠続、西牟田三河守、佐多忠山らの出陣・戦死を戦場と対応させ、連続する合戦で生じた人的損害を記録する。
年月日未詳 / 冊子 513~514頁
師走三日から続いた南郷城攻めを城内外の視点から詳述する。酒谷・和泉・北郷・樺山・伊集院・入来院・片野坂諸勢の布陣、飫肥・庄内へ通じる道の争奪、戦死・退却を記し、夜間の攻防後に敵陣も退いて戦闘が一段落した経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 514頁
義岡伯耆守豊久の出生と経歴を記し、文明十六年十二月廿二日に飫肥城へ押し寄せた敵二千騎余に三百余騎で応戦して戦死したこと、享年六十四と法号を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 514頁
文明十六年十二月廿日、忠豊が郎従三百余人を率いて日向飫肥へ向かい、逆谷籠に陣した敵勢と戦い、忠福らとともに応戦するなか戦死したことを記す譜記事。