山田聖栄自記
年月日未詳 / 冊子 118頁
山田聖栄自記として、碇山金吾が島津上総介の名代、新納将監が島津元久の名代となり、二人とも肥後白川合戦で将軍方に属して討死したと伝える記事。
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年月日未詳 / 冊子 118頁
山田聖栄自記として、碇山金吾が島津上総介の名代、新納将監が島津元久の名代となり、二人とも肥後白川合戦で将軍方に属して討死したと伝える記事。
「大永五年」二月八日 / 冊子 651頁
祁答院嵐浦が島津忠朝に、以前の命令への対応、北原久兼・金吾らとの連絡、鹿児島周辺の情勢について報告した書状。
「大永六年」九月四日 / 冊子 662頁
島津勝久が北郷信濃守に、たびたび味方してくれることへの謝意を述べ、金吾・祐脩との結束を今後も保つよう求め、詳細を知覧の使者に託した書状。
「大永六年」十一月七日 / 冊子 666頁
島津忠兼が肝付兼演に、金吾との合意、伊集院での参会と鹿児島への同行、虎寿丸を呼び寄せたことを伝え、境目の番を堅固にするよう頼んだ書状。
(大永六年)九月四日 / 冊子 667頁
本文ではNo.2041と同文のため省略された島津勝久書状。北郷信濃守に金吾・祐脩らとの協力を求め、忠節を頼み入れた内容である。
(元亀二年)正月十一日 / 冊子 242頁
島津義久が島津義虎へ年始の吉兆と多幸を祝った書状。豊州・北郷・新納・典厩・金吾らへの年頭書状と書式を区別したとの注記を伴い、祝儀として五明一本を贈り、後日さらに諸慶を申し加えるとする。
十月廿四日 / 冊子 17頁
法印頼金が、使僧を遣わし、判物と福寿院への取り成しに謝意を述べた書状。一瓢様の意向で平原之門と十穀園之門を替えて与えられたため、後日の証文として十穀園五十貫の員数を記し、金吾様の判を添えて交付してほしいと頼む。
二月廿一日 / 冊子 339頁
島津忠朝が島津忠良へ、新春を賀し、前年以来南方が平穏で、島津実久と渋谷氏が和融したとの風聞を喜ぶ書状。弓矢の覚悟と勝利・落着に触れ、詳細は金吾から伝えるとして忠良側の動静を尋ねる。
正月十一日 / 冊子 410頁
島津義久が薩摩守殿へ、改年の吉兆を祝い、豊州・北郷殿・新納殿・典厩・金吾・薩州らに関する返礼文言の扱いを示し、年賀の祝儀として五明二本を贈った書状案。薩摩守殿の人物同定は保留する。
九月十六日 / 冊子 82頁
以前預かった馬をしばらく借りるつもりだったが、櫛間の祭礼へ代参させるよう求められたため同地へ送るよう依頼し、引手は金吾に頼んだと伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 729頁
北郷忠親が伊東祐修・金吾と談合した時期の書状を収める譜。島津勝久が今回の戦で北郷方が心を添えたことを喜び、金吾・祐修と無二に申し合わせて遺恨のないよう親密に協議することを求める。
九月四日 / 冊子 729頁
今回の合戦で北郷方が常に島津方へ心を添えたことを祝し、金吾・伊東祐修と無二に申し合わせ、遺恨が残らないよう引き続き親密に調整することを求めた島津勝久書状。
年月日未詳 / 冊子 83~84頁/原整理番号 14
『上井覚兼日記』天正三年正月の記事を抜く。元日の社参と老中の三献、椀飯、十一日の酒席の献酬と座次を記すほか、同日の初談合で神社仏閣の修造、軍事、下大隅への移衆、菱刈、法度など五項目を地頭衆へ伝え、翌日に返答を受けたことを記す。十六日の寄合の席次やその後の出仕も載せる。
年月日未詳 / 冊子 87~91頁/原整理番号 17
本田公親が年男として記した、天正八年正月元日から十五日までの島津義久の年始儀礼の記録。御対面や出仕の順序、寺社参詣、三献・進物などの日々の作法を記し、元日の伊地知家、七日の平田家、十五日の本田家による椀飯進上を伝える。十一日には吉書と具足着始の儀を記す。末尾に本田大炊太夫公親の署名がある。
年月日未詳 / 冊子 514~517頁/原整理番号 327-1
佐多久英の覚書。豊臣秀吉の朝鮮出兵に際する島津家の軍役、龍伯・惟新らの動き、出兵の準備や褒賞に関する経緯を述べる。
大永6年11月7日、同年某月28日 / 冊子 340~341頁/原整理番号 130-27
樺山玄佐の自記から、大永六年の島津忠兼・本田氏関係と河上氏系譜記事を抄出した記録。十一月七日、金吾様に同行した忠兼が鹿児島へ帰陣し、本田因幡守兼親と父三河守親安の無二の奉公により本田氏へ曽於郡を与えたが、ほどなく河上次郎左衛門の姉に関わる事情から召し返したため、本田氏が恨んで出仕を止め、新納殿を頼ったと記す。さらに新納殿が本田氏へ内通した時、大永六年某月二十八日に宮内の社頭が天火かによって全焼したとする。付随記事は、市来氏へ嫁いだ女子の年代矛盾、僧一人、源左衛門の坂元氏養子、厚地吉内左衛門家長の曾祖父が家林から厚地名字を許された由来を記す。
二月廿八日 / 冊子 348~349頁/原整理番号 382-3
前半は明暦元年六月二十八日付の鍋島六左衛門勝宗書状。原城最後の合戦における村尾氏の高名と右股の鑓疵を称え、綱久初入国祝儀の使者として訪れた際、古傷による病悩のため対面できなかったことを一世の遺恨として再会を期す。後半は鑓・刀・鉄砲・首取・切捨などの軍功者を列記し、『右者、有馬ニ而書之、二月廿八日』と結ぶ覚。
年月日未詳 / 冊子 269~270頁/原整理番号 48
山田聖栄の自記から、氏久が税所方と球麻の相良を敵にして戦い、大隅を患った経過を記す。姫城を落として本田親治・氏親父子を守護代に置き、清水・湯峰でも戦い、氏親らと税所の子が討死し、氏頼は深手を負ったとする。続いて味方の少勢で求麻・和泉・山北の軍勢と戦う場面、碇山金吾の太刀振舞い、師久の名代として出陣した碇山金吾元久と新納将監が肥後白川で討死したことを伝える。
文書日付:九月十五日 補記(正文と別層):(応永二年) / 冊子 252頁/原整理番号 三一一/整理ID TMP-P02-NENE1-D0311
清綱が、「御自筆之御書」の案文二通と、金吾方からの書状案文一通を送る。 探題上洛後の九州の錯乱や京都の裁決、菊池武朝等の動静を伝える。 京都の上使僧と三ヶ国の御給・御承領、山東で伊東下野太郎が御方に参じた後の連書誓文と大将の起用を報じる。 自身の処遇にも触れ、年内に「此方格田之僧」の便があれば改めて申し入れると記す。
8月13日報告;去8日砲戦、9・11・12日聞取等への言及 / 冊子 374~376頁/原整理番号 538/整理ID 538
長州下関の外国船との砲戦について、八月十三日に蘭田と署する見聞報告。去る八日の朝五ツ時頃、外国蒸気船四艘が彦島付近へ来て砲台へ撃ちかけ、三十発程を受ける間に陸上の砲は撃てず、船が南風泊へ移り兵を上陸させたこと、砲・火薬等の奪取や人家十八軒程の焼払いを伝える。その後小倉領田之浦の船へ赴き、宍戸刑馬・杉尾徳助らが、和議の使者、毛利出雲の書簡と印形のない書面の取扱い、国主側との協議、砲台取払い・町家焼払いの代金など交渉条件を説明したと記す。砲戦の死傷は五日・六日合計二百三十六人との話、砲台居付の大砲は二十三丁を取り揚げたとの小倉藩士の説明も収める。見聞・聞取り・相手の説明と観察者の判断を分け、砲戦日・死傷の範囲や艦船数を統合して確定値にはしない。八月十三日現在は船がなお停泊し長州の評議待ちだとする。
5月7日(天正15年の目録推定) / 冊子 579~580頁/原整理番号 88
義珍が本田下野守へ、関白への差出をめぐる急な交渉を『一大事』と捉え、福智三河守・石田らを介した調整と十分な祈願を促す。忠棟が日州から船出したとの知らせを受け、その後の所在を尋ねる。入来院は重要な場所として典厩を籠めて固め、真幸は日州・菱刈をつなぐ通路で京衆が通るため強く応対し、祁答院には伊集院肥前守を入れて守備を相談するよう求める。飯野は城が弱く、敵が埋草などで取り寄せれば直ちに対応する必要があるため、諸方面の談合を急がせる。日州安堵が実現すれば宮崎を霧島へ寄進し、高原についても同様に祈願することを勧め、追書では高原の吉田若狭守退去の風聞と庄内への使者派遣に触れ、味方関係を確かめ油断しないよう戒める。5月7日付で、天正15年は目録上の推定年次。
建武四年十一月日 / 冊子 14頁/原整理番号 192
延時又三郎入道法仏が薩摩国市来院城郭合戦の軍忠を申告した目安。重病のため、七月二十八日の攻城には舎弟彦五郎忠能を代官として遣わし、八月三日まで野頸の手で戦わせた。九月十七日以降も水手・大手・後巻で戦功を重ね、軍奉行らの見知を得たとして承判を求める。建武四年十一月付。
年月日未詳 / 冊子 269頁/原整理番号 47
本田重親の家譜から、氏久が咲隈で税所氏と湯之領を争った後、姫木城石原口を攻める敵に応戦した記事を収める。氏久は四十騎ほどで危急にあったが、重親は子孫十三人と一族を率いて奮戦し、敵の強兵を討ったという。氏久が子の又三郎を安全に逃がそうとすると、重親は氏久への忠節を命じ、父子別離を悲しむ主従がともに泣いたと伝える。
応永十七年六月 / 冊子 472~475頁/原整理番号 269
進上物の注文。諸大名・寺社や役人などへの太刀・馬・弓矢・刀装具・酒肴等の贈答品を、相手方ごとに品目と数量を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 528頁
天正二十年正月十二日の大地震、三月十八日の再度の大地震と細河殿の死、七月十八日の淹水で金吾が死去したことを記す。朝鮮出兵期に相次いだ地震・洪水と人的被害を簡潔に伝える災害記録。
6月16日(正文年不記) / 冊子 263頁/原整理番号 366の1/整理ID 366-1
頭書に三郎から大原卿へ進めた御書写とする内用書状。相手の口上と、今日示された高家衆の御達書付を拝見して礼を述べ、昨夜考えて存慮があったため、別紙のとおり先刻脇坂へ書状を差し送ったので参考にしてほしいとして高覧に供する。毎度乱書の推覧を頼むと結ぶ。六月十六日、嶋津三郎、左金五様、極御内用の表示。原宛先字は高倍率で確認し左金吾等へ置換しない。別紙は次条の脇坂宛内々意見書の写として収める。