毛利友重高政書状
文禄3年10月9日 / 冊子 817~818頁
毛利友重高政は前日に義弘へ面会できたことを喜び、長年の厚意に礼を述べる。島津方奉行衆が以前処置した請取書を受け取り、交換分を船頭に持たせて返送したことを報告する。 さらに借用していた大切な船を無事に返却し、深く感謝する。朝鮮在陣中の諸大名間で行われた船の貸借、証文交換、返還手続を具体的に示す実務書状。
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文禄3年10月9日 / 冊子 817~818頁
毛利友重高政は前日に義弘へ面会できたことを喜び、長年の厚意に礼を述べる。島津方奉行衆が以前処置した請取書を受け取り、交換分を船頭に持たせて返送したことを報告する。 さらに借用していた大切な船を無事に返却し、深く感謝する。朝鮮在陣中の諸大名間で行われた船の貸借、証文交換、返還手続を具体的に示す実務書状。
(寛永十一年)二月十三日 / 冊子 410頁
入来院領内の御用作・買地納・浮所納・夫銀・諸産物・諸役の収納と担当者を列記した覚書。御用作百俵と銀子の調達、高二十一石の浮所の納、百姓への種子十二俵の貸与、夫銀を十人表の約束で定めること、茶・柿・麻・芋・蜜柑・漆等を浮徳納として代銀で鹿児島へ送ることを定める。さらに鉄砲衆の役、山役五貫文、鍛冶衆の炭、馬、松材木・唐船帆柱・竹の他国商売と御手形、栗・木の子・鮎・切梅の担当を示す。本文には日付・署名がなく、寛永十一年二月十三日および「入来院重高覚書」は索引上の整理情報である。
(寛永十一年)七月十一日 / 冊子 435頁
入来院重高が、支配未決着のため使者を下し、公儀への多額の出銀に伴う領内配当、借銀増加と諸士知行の上地を遅滞なく調えるよう家臣へ命じた書状。
五月廿七日 / 冊子 146頁
入来院重高が入来院尾張守・東郷吉兵衛に、江戸から赤子を殺す行為を禁じる命令が下されたことを伝えた書状。分国全体で同様に徹底し、家中の歴々から百姓以下、男女・子供を問わずよく申し付けるよう命じ、詳細は口上で伝えるとする。
十一月十八日 / 冊子 148頁
入来院重高が下村左衛門尉に、船の建造について大口・高尾野両所と相談するよう求めた書状。自身の帰宅後に木材・軍役人数などを具体的に決めるとし、年内は日数がないため無理に進めず、改めて指示すると伝える。
五月五日 / 冊子 149~150頁
入来院重高が宮里治部左衛門尉に、志岐小左衛門尉の身上について、兵部少輔の取り成しにより薩州様・式部様から扶持を与える話がまとまったと知らせた書状。正式な仰せがあるまで重高の知行所に滞在させ、扶持が出るまでは現地で世話をするよう依頼し、追って使者を下すと伝える。
(寛永十一年)二月十二日 / 冊子 409頁
配当高に応じた門・屋敷の割当、配当目録の受取り、神文、返地への移住、荒地防止、奉公・未進者の処置など、入来院領の配当と統治手順を定めた覚書。本文末尾の日付は寛永十一年二月十三日で、索引の二月十二日とは相違する。
年月日未詳 / 冊子 435頁
入来院重高が桜田邸へ上り、東郷三右衛門を入来へ帰して家老重倍ら三名へ手書を与えたことを記す某譜の記事。
四月一日 / 冊子 112頁
入来院家の世継ぎに弥一郎重高を望む意向を良縁と評価し、藤二郎妹との縁組話が平松方へ未通達であるうちに、船本に滞在する少将へ内意を伝えて了承を得るよう急がせた書状。
年月日未詳 / 冊子 97~100頁
寛永六年六月二十二日、島津家久らが催した懐旧連歌。涼しさ、露、月、雪、松、旅、別れ、無常、四季の景物などを詠み継ぎ、各句に作者名を付して長い連歌一巻を構成する。
年月日未詳 / 冊子 419~421頁
秋近い池、風、夕日、鳥、旅衣、月、野分、志賀の花、舟、恋、萩、蹴鞠の場など四季と旅恋を広く詠み継いだ別本の『賦朝何連歌』。
年月日未詳 / 冊子 421頁
修行、恨み、待恋、竹垣、梅、谷水、鴫、秋風、月、庵、蚊遣火、別れなどを題材に連衆が詠み継いだ『賦初何連歌』。
年月日未詳 / 冊子 421~422頁
松と梅、注連、春の野、川水、田面、山月、露、秋の葉、竹林、渡し舟など山野と農村の景を中心に詠み継いだ『賦山何連歌』。
年月日未詳 / 冊子 189~190頁/原整理番号 313-1
『評定所御案文留』所収の二月二十五日付案文。黄門様が去る二十三日に死去したため、葬礼の日取りを来月十日と定め、長野殿・酒匂殿が役者であるので早々に帰宅するよう申し渡し、船を付けて少しも遅延させないよう命じる。差出は三原重庸・伊勢貞昌・川上久国・島津久元、宛所は北郷佐渡守(傍注・久加)・渋谷石見守(傍注・重高)。編者は『旧記雑録後編五』一二三七号文書と同一文書らしいと注記する。
二月廿五日 / 冊子 190頁/原整理番号 313-2
二月二十五日付の島津久元外三名連署書状。黄門様が去る二十三日に死去したため、葬送の日取りを来月十日と定め、長野殿・酒匂殿が役者であるので早々に帰宅するよう申し渡し、早船を付けて少しも遅延させないよう求める。差出は三原重庸・伊勢貞昌・川上久国・島津久元、宛所は北郷佐渡守(傍注・久加)・渋谷石見守(傍注・重高)。313-1とは同文ながら、葬礼/葬送、船/早船、宛名敬称の殿/様などの異同がある。編者は『旧記雑録後編五』一二三七号文書と同一文書らしいと注記する。
二月廿六日 / 冊子 196頁/原整理番号 319-1
二月二十六日付の島津久元外三名連署書状。伊作衆中の中村名字の者が受取人方で番を務めているが、葬礼の役者に入るとの沙汰があったため、早々に帰るよう命じることを求める。葬礼の日取りは来る十日なので、それより前に帰着するよう申し渡せと指示する。
二月廿六日 / 冊子 196~197頁/原整理番号 319-2
二月二十六日付の島津久元外三名連署書状。肥後十右衛門尉・米助右衛門尉が進物蔵の改めを行い、残りが少ないので首尾を整えたいと改め衆が述べていること、三原五郎兵衛尉と父次郎左衛門尉が庄内と当地を往来して苦労し、倅者らにも差し支えがあるため帰還を願っていることを伝える。そのうえで渋谷石見守・北郷佐渡守に早々に戻るよう求める。追而書では、猪俣為右衛門尉が当地の支配の首尾を知っているので、御用のため戻るよう求める。本文には複数の欠字があり、内容を推測補入しない。
年月日未詳 / 冊子 152頁/原整理番号 36
川越太郎重頼の三男重員を起点とし、重輔・重貞以下へ続く讃良氏の系図。重貞は修理亮を称し、河内国讃良郡を領したため讃良を号したと由緒を記す。貞與・重矩・重治、重純・重賢・重年、重寛・重朝・重高などの分流を示し、大膳亮・刑部太輔・土佐守・兵衛などの官途を添える。後半は重喬以下、貞盈・貞喬・貞能・貞敦・貞秀らを掲げ、貞秀について享禄年間の出生、母が和泉讃岐守女であること、島津貴久から宝刀を賜ったことを記す。末尾に貞行・貞資・貞勝・貞増、貞清・貞雄ら近世の子孫と善助・銀八・外記・七兵衛等の通称を載せる。
正月廿九日 / 冊子 36頁/原整理番号 53
正月二十九日、川上久国・三原重庸が北郷佐渡守・渋谷石見守・喜入摂津守・豊後守へ送った連署書状。薩州様が有馬へ直接下向するとの、駿河発・十七日付の書状が今晩届き、早々に着陣する見込みだと報じる。天草の人衆も渡海させるため、野州様へ知らせ、下知に従って順次渡すよう求める。右飛脚に持たせた旨を付記する。本文中の十七日は到来書状の日付であり、本書の年月日は目録どおり正月二十九日とする。
年月日未詳 / 冊子 434頁/原整理番号 545-1
寛永十九年十二月、城下士を初めて十組に分け、各組に組頭二名を置いた由来と、一番から十番までの組頭二十名を列記する。別に家老組一組を設け、島津弾正久慶・島津図書久通を与頭とした。寺社家組・諸役座組なども分け、合計二十六組を置いたと記す。目録年月日は空欄のため、本文の年月をB列へ補入しない。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。