島津忠治書状
十二月十三日 / 冊子 587頁
島津忠治が新納近江守へ祝意を述べ、今後の相互の満足を願い、太刀一腰と鹿毛の馬一疋を贈った書状。
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十二月十三日 / 冊子 587頁
島津忠治が新納近江守へ祝意を述べ、今後の相互の満足を願い、太刀一腰と鹿毛の馬一疋を贈った書状。
正月十一日 / 冊子 587頁
島津忠昌が新納近江守に新春の慶賀を述べ、今後も諸事に満足し、同意の条々を祝着する旨を伝えた書状。
十一月廿一日 / 冊子 590頁
島津忠昌が新納近江守に、宝木の贈与を謝し、先に依頼した角・鈴を早々に調達したことへの礼を述べ、対面時に詳しく礼を述べると伝えた書状。
(享禄元年)七月廿三日 / 冊子 694頁
大内義興が新納近江守に、近年の対立を和らげ和睦を整えるよう求め、詳しくは杉興重から伝えるとした書状。
九月廿七日 / 冊子 719頁
他阿弥陀仏が鳴津近江守に、進使僧の処遇への礼を述べ、申掠めの件を承知したこと、伝達のため穴賢と念を押した書状。
「天文二年」十月廿六日 / 冊子 719頁
小笠原光清が鳴津近江守に、滞留中の検見執行の理由を免申したことを伝え、今後も配慮するよう求めた書状。
天文二年八月廿八日 / 冊子 721頁
小笠原光清が鳴津近江守に、検見・連々の願いについて免申したことを伝え、今後も配慮するよう求めた書状。
十月廿六日 / 冊子 721頁
小笠原光清が鳴津近江守に、鵜戸参詣に伴う抑留・逗留の件と使者から聞いた事情を述べ、外聞に関わるため慎重な配慮を求めた書状。年紀は本文注記でも不詳。
年月日不詳 / 冊子 119頁
島津忠弘が新納近江守に年頭の慶賀を述べ、先方で弓箭の事態が不慮に進んだとの風聞を案じた書状。従来の交誼に基づき、便宜を得て書状を送り、表革三枚・七領形一双を進上する。
十月廿二日 / 冊子 305頁
島津忠昌が福島へ赴く途中の参会と道中の奔走に謝意を述べ、菱刈へ遣わした使者の申し分はすでに聞いたと思うが、不明点があれば改めて知らせると新納近江守へ伝えた書状。
「天文二年」十月廿六日 / 冊子 722頁
本文はNo.2198の小笠原光清書状と同文のため省略される。滞留中の検見執行の理由を免申したことを伝え、今後も配慮するよう求めた書状。
12月17日 / 冊子 365頁
歳暮の祝意を重ねて伝え、今後も変わらぬ関係が続くことを願う。恒例の書札を送り、明春の吉祥を祈った島津義久の年末挨拶状。
十二月十七日 / 冊子 13頁
歳暮を祝い、親しい間柄として恒例の書状を送り、翌春には互いの吉事を早々に言祝ぎたいと述べた書状。
九月六日 / 冊子 576頁
下国して対面したいとの願望を述べ、住持不在の海徳寺について、帰洛する光善寺の後任として居住させる人物の調整を求めた他阿弥道仏書状。代々の信心に違わない処置を期待する。
4月27日(目録、年次記載なし) / 冊子 103~104頁/原整理番号 1-1
島津近江守宛の卯四月二十七日付書状を引用する。筆者は、短冊の入手に際して他事への配慮から表立った扱いを避け、近衛家の手跡を色紙に書き付けた事情を伝える。
年月日未詳 / 冊子 241頁
北郷義久譜が、島津元久の上洛時、北郷義久が留守居を厳命され、新納近江守・佐多久道・樺山入道・山田入道らとともに国務へ励んだことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 388頁
伊作島津久逸の出生と伊作家継承を記す系譜記事。久逸は永享十二年に島津忠国の三男として生まれ、母は新納近江守忠臣の娘。伊作家の大安丸が早世したため、忠国の意向で久逸が迎えられ、大安丸の妹を妻として伊作家を継いだ。
年月日未詳 / 冊子 512頁
文明十六年十二月三日、伊作式部大輔方が南郷城へ押し寄せ、城壁を切り崩して攻撃した経過を記す。山田・早崎・堀口諸氏を含む守兵が抵抗し、双方に戦死者が出た。危急を受けた和泉隠岐守が近江守へ急使を送り、援軍を求めた。
慶長十一年十一月晦日 / 冊子 100頁
慶長十一年十一月晦日、犬追物をめぐる佐多又太郎と新納近江守の申分について、いったん和解した両名が手組の際に再び角を立てたため退けた事情を述べ、私意なく後進の模範となるよう北郷忠能に命じた書下。
年月日未詳 / 冊子 100頁
島津家久が催した犬追物で佐多又太郎と新納近江守が手組をめぐり不和となった際、北郷忠能が双方を和解させたため、家久から感状を与えられたことを記す。
四月廿一日 / 冊子 180~181頁
今川了俊が澁谷庶五郎に、島津が牛屎へ馳せ越して合戦したと聞いたため、味方の同心者と相談して忠節を尽くすよう求めた書状。こちらの事態は近日中に落着する見込みと伝え、合戦中の相良近江守前頼への援助をとくに命じる。
四月廿日 / 冊子 181頁
今川了俊が清敷に、豊前合戦で味方が勝ち八山少輔以下を討ち取ったこと、筑前合戦では不慮の事態があったが再出陣して平定は近いことを伝えた書状。相良近江守が合戦中なので、怠りなく早々に加勢し忠節を尽くすよう強く命じる。
八月十九日 / 冊子 783~784頁
野辺方面で合戦があり薩州から急ぎ出兵したとの風聞を聞き、事実なら大切な軍忠で京都の疑念も解けると評価する。出陣して協力すれば望みはかなうとし、相良近江守も出陣すると聞いて喜んだ今川了俊書状。
年月日未詳 / 冊子 510頁
文明十六年十月廿六日、少数の手勢から始まった出陣で新納・北郷・樺山・祢寝・肝付・平田らが合流し、坂上や熊田原などに陣を取った経過を記す文明記記事。
年月日未詳 / 冊子 598頁
島津忠治代の寄合座鉢。本文はNo.1791の前半と同文であるため省略され、享禄二年の場に写し置いた旨が注記される。
永正十三年三月十六日 / 冊子 610頁
永正十三年三月十六日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
天文八年二月廿八日 / 冊子 770頁
新納忠勝が相良殿に、春の慶賀を述べ、弓箭や領地に関する案件を伝えるとともに、使者を送るので秘密裏に検討してほしいと求めた書状。
慶長十二年八月廿七日 / 冊子 129頁
慶長十二年八月二十七日に行う犬追物について、出場者を組分けし、各人の割当てを列記した手組。
年月日未詳 / 冊子 221頁
島津忠倍譜の記事。慶長十四年五月十八日、宅地造営中に病となった忠倍が死去し、法号を覚翁大圓居士として青龍山大圓寺に葬られ、家臣の阿久根右衛門・山本弾右衛門・有川慶助も追跡殉死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 231頁
指宿氏について、能登守忠勝から郡司正忠・女子師犬・指宿郡司忠合・近江守頼忠・朝忠らへ至る系譜関係を図示した略系図。
応永十六年二月十八日 / 冊子 231頁
近江守平忠合が子息平頼忠へ、父祖以来の証文に基づく薩摩国指宿郡五か名の重代相伝所領を譲与した譲状。
年月日未詳 / 冊子 267頁
応永十九年九月十五日の山東曾井城合戦で高木左馬助家近江守が戦死し、ほかにも多数の死傷者が出たことを記す。樺山伊賀守興久の戦死に関する異説も付記する。
年月日未詳 / 冊子 508頁
文明十六年の薩摩・大隅・日向三州大乱を記す島津氏譜記事。伊作久逸・新納忠続らの対立に対し、島津忠昌が治部少輔・伊勢守・近江守らを介して仲裁し、近江守の移封、所領・兵糧配分を調整したが、諸勢の不満が収まらなかった経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 509頁
文明十六年、三か国の分裂を背景に伊作久逸・新納忠続側が島津忠昌へ訴えた内容を記す。忠昌は近江守・治部少輔・伊勢守らの使者を介して仲裁し、所領移転と和睦条件を調整したが、双方が譲らず交渉が不調に終わり、対立が継続した。
年月日未詳 / 冊子 534頁
新納近江守忠続が日向国飫肥院に住み、一門でありながら不和が深まって伊東六郎左衛門尉祐国と結び、飫肥城を囲んだ経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 716~718頁
鶴を中心題として催された和歌会の懐紙。春・夏・秋・冬・恋・雑の各題ごとに、他阿弥陀仏、藤原安繼、喜阿、新納近江守忠勝、通法寺其阿、藤原忠重、壽獨阿、安房守藏信ら多数の作者名と詠歌を収め、参加者の交遊と題詠の構成を伝える。
天文三年正月十六日 / 冊子 722~723頁
大的の射手交名と各人の的中数を丸印で記した日記。鳴津近江守・孫四郎・駿河守らの成績を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 757~758頁
尾張守資忠の旧領を近江守忠勝が押領したことから生じた領地争いを記す。島津貴久が双方の主張を聴取し、財部院・横市などの知行を裁定したが、忠勝方は処分に抵抗した。使者を介して返還・代替地・和議条件を調整した経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 774頁
天文八年三月十三日の紫原合戦で貴久方が敗れた後、平田式部少輔の要請を受けて翌日から本城・神前城を攻めた経過を記す。忠将・松崎丹後守らが加わり、攻城と交渉を重ねて和談を成立させ、新納近江守忠勝らを降参させた。
応永16年2月18日(1409) / 冊子 457~458頁/原整理番号 14-16
指宿近江守忠合が子息・平頼忠へ、薩摩国指宿郡五ヶ名を重代相伝の所領として譲った応永十六年二月十八日付譲状。父・能登守忠勝の公方御教書や代々の本証文を根拠に、指宿郡一円の知行と正忠・忠合へ至る相続経緯を述べ、父祖代々の証文が明白であるとして頼忠への譲与を定める。後続系譜には、永吉城・新納院高城・日州庄内での戦死、島津尚久・本田氏・市来家・松下家との婚姻、忠政の関ヶ原合戦従軍と感状・知行百石、福山居住・没年法名など、指宿氏後裔の軍歴と家系を記す。
年月日未詳 / 冊子 231頁
島津元久譜が、元久の上洛決定後も山東に住む久豊への懸念が残ったため、在国の新納・佐多・北郷・樺山・山田・平田・上井・本田らが無二の忠功を誓う連判起請文を作成した経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 319頁
薩摩平定後、島津貴久が未婚であったため、島津久豊が新納忠臣の娘を麑島へ迎えて貴久の妻とするよう、北郷知久を介して婚姻を進めたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 465~466頁
『西藩野史』が、島津忠国から立久への家督継承と、それに伴う一族統制を記す。伊作教久父子・新納忠治らをめぐる討伐、亀房丸の出家と処遇を述べ、さらに向嶋・桜嶋の地名由来や異変に関する説話を交えて当時の家中と地域の記憶を伝える。
年月日未詳 / 冊子 626頁
永正十七年、伊集院尾張守忠武方との合戦で敵方が敗れ、城を退去・降伏した経緯を記す島津勝久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 685頁
大永七年十一月、清水城主本田董親・志布志城主新納忠勝らの社壇造営や所領争いを、調所恒房が自ら奔走して調停し、長年にわたり国衙の職務を担ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 692頁
享禄元年五月朔日、新納忠勝が日向中之郷内で伊東勢と戦い、冷水・小鷹原方面の陣を攻めたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 692~693頁
新納忠勝と伊東氏の抗争を記す『庄内平治記』記事。伊東勢が冷水・小鷹原方面に伏兵を置いたのに対し、新納方の要請を受けた北郷忠相が援軍を派遣して合流し、黒坂・横尾を経て梅北城戸口まで追撃した。津介忠次・池袋肥後らの戦死や両軍の損害、北郷方の戦功を具体的に伝える。
(享禄二年)二月十六日 / 冊子 699頁
新納忠勝が三州動乱の和融に関する裁許・使僧派遣へ謝意を表し、今後も無極の配慮と傳芳院を通じた取り計らいを求めた証状。
天文二年十月廿八日 / 冊子 719頁
笠懸射手九名の交名と、各人十射の的中状況・合計を黒白の丸印で記した成績表。
天文二年十月廿八日 / 冊子 722頁
新納忠勝が、軍事・談合・検見などで主命に従い、家督を継ぐ子一人以外へ相伝せず、別心なく奉公することを、梵天帝釈・八幡大菩薩・天満大自在天神などへ誓った起請文。