伊勢貞成書状
文禄4年5月21日 / 冊子 882~883頁
伊勢貞成が、前年正月に在所を出て渡海を企てたものの船が整わず、三月初めまで待機したこと、帰国した使者の指示や木付の京衆への対応で一度引き返し、再出航後も無風・降雨・潮や寄港地の違いに悩まされた経過を詳しく報告する。 後半では、長陣中の弟弥九へ人物を派遣したこと、蔵人殿・長寿・大坊主らの関係や検地時の出来事を伝える。渡海時の船団運用と、伊勢家周辺の人間関係を併せて知る書状である。
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文禄4年5月21日 / 冊子 882~883頁
伊勢貞成が、前年正月に在所を出て渡海を企てたものの船が整わず、三月初めまで待機したこと、帰国した使者の指示や木付の京衆への対応で一度引き返し、再出航後も無風・降雨・潮や寄港地の違いに悩まされた経過を詳しく報告する。 後半では、長陣中の弟弥九へ人物を派遣したこと、蔵人殿・長寿・大坊主らの関係や検地時の出来事を伝える。渡海時の船団運用と、伊勢家周辺の人間関係を併せて知る書状である。
慶長四年四月廿一日 / 冊子 375頁
伊勢貞成が、御勢揃いの道具代銀に四匁一分五厘の不足が生じたことを届ける。現在手元にある算用帳だけでは判明しないため、受取状などで後日調査し、どこでも清算できなければ自分が納めると申し出る。
(慶長五年)九月廿一日 / 冊子 583~584頁
伊勢貞成が大井七右衛門尉・酒匂式部少輔へ、奥様の下向に伴う御番衆として富隈の人数を留め置いたことを伝える。佐方の船手には水主を欠く船が多く世間体にも関わるため、両人に他の人数と同様の手配を頼み、有川助兵衛尉の手元にある二百石の米から百五十石分を渡すよう指示する。
慶長五年十二月十一日 / 冊子 722-723頁
伊勢貞成が、大隅国菱刈横邊村内の田畠について、地名・面積・分米や耕作者を列記し、合計分米・大豆三十石を本田勝次郎の領知として示した目録。
慶長六年三月十一日 / 冊子 753頁
日向国真幸院吉田村内にある蒲生久徳の返地について、屋敷・門・田畠などの内訳を列挙し、伊勢平左衛門へ配分した知行目録。伊勢貞成が署判する。
慶長六年十二月十九日 / 冊子 754頁
伊勢貞成が、大隅国桑原郡般若寺村内の屋敷・田畠を主計、孫五左衛門、仲十郎、三郎次郎、大学介らへ割り当てた知行目録。各屋敷の面積と石高を列記する。
(慶長六年)十一月十一日 / 冊子 787頁
伊勢貞成が、平佐城普請などに関わる定められた負担・納入について、命令どおり遅滞や不足なく納めるよう宮路三之丞と鬼塚主税介へ命じた掟書。
慶長八年六月七日 / 冊子 897頁
伊勢貞成が、鹿児島・富隈・帖佐三方の公用以外の物資差押えを禁じ、廻船規定を超える押買いをさせず、違反者を拘束・報告するよう命じる。地下人への喧嘩・狼藉にも処罰を定めた三か条の申渡書。
(慶長八年)六月十五日 / 冊子 898頁
伊勢貞成が蘇木二百斤、小人島二十枚、蝋燭五十斤、毛玉二十、砂糖千斤、水牛角二十五本、しゅくしゅ二十二斤を列記した物品覚書。
(慶長八年)七月廿三日 / 冊子 901頁
伊勢貞成が虎皮・豹皮・小人島・水牛角・明礬・鹿皮・山馬皮・砂糖・紅木の数量を列記し、鹿児島と帖佐へ分配するよう命じた注文。唐人側と価格を確定し、商人へ引き渡すことも指示する。
慶長十三「二」年閏四月廿八日 / 冊子 115頁
慶長十二年閏四月二十八日、川上忠兄と伊勢貞成が薩州阿多新山村内の御祓田之門、高六十石余を蒔絵屋彦七に与えた連署知行目録。
三月十一日 / 冊子 27頁
伊勢貞成が、翌日に惟新のもとへ赴く予定を知らせた書状。終日雨なら出立は難しいが、朝から晴れれば出立して訪問するので、そのつもりで心得るよう伝える。
二月十四日 / 冊子 28頁
伊勢貞成が、相手の今朝の登城を喜び、祝儀の品についてまず相手方から申し出てほしいと頼んだ書状。久保与九に関する九年前の件は舎弟甚吉が知っているため、尋ねて調整し、同意してほしいと伝える。
十一月十一日 / 冊子 45頁
伊勢貞成が、平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給について鬼塚主税助・宮路三之允へ達した文書。一日三度、一人につき七合五勺ずつ支給すること、蔵入から用米を出し、普請衆は触れに従うことを命じる。
十一月十一日 / 冊子 113(本文はNo.124・冊子頁45参照)頁
伊勢貞成が、平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給について鬼塚主税助・宮路三之允へ達した文書。一日三度、一人につき七合五勺ずつ支給すること、蔵入から用米を出し、普請衆は触れに従うことを命じる。No.124と同文。
天正14年11月11日 / 冊子 265頁
平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給を定めた掟書。二日につき三度、各人へ七合五勺ずつ渡し、御蔵入から支出すること、普請用物は触れに従うことを命じる。北郷作左衛門・相良新右衛門が取り仕切り、滞りなく調えるよう求めた、築城現場の給食・物資管理を示す文書である。
天正14年11月11日 / 冊子 266頁
No.210と同文のため本文を省略したもの。平佐城普請の人夫へ二日三度、一人七合五勺ずつ兵糧を支給し、御蔵入から費用を出すことなどを定めた掟書が、別の文書群にも収められていたことを示す。
(慶長四年)正月五日 / 冊子 346頁
寺沢広高が、正月七日朝に徳川家康へ茶を進める予定であるため心得るよう、羽柴左近ら四人へ知らせた書状。前日の六日夕刻に家康の門前まで礼に出るのがよいと助言し、兵庫頭の願いについて又八郎のもとまで出向くよう伝える。
十二月十四日 / 冊子 44~45頁
歳暮の挨拶を送り、残り日数が少ないため詳しい儀礼を省くが、来春早々に饗応したいと伝え、鷹の餌として鴨六羽を贈った書状。
年月日未詳 / 冊子 723頁
島津義久の譜に、本田勝次郎へ大隅国菱刈横邊村内の領知を宛行ったことを掲げる記事。前掲の伊勢貞成署判領知目録に対応する。
年月日未詳 / 冊子 24頁
島津忠恒が伏見で徳川家康に拝謁し駿馬一匹を拝領したのち、七月十九日に伏見を辞して領国へ向かった記事。樺山久高と伊勢貞成が供奉し、鎌田政近は命により樺山久高に代わって伏見に残留した。
慶長十一年二月上旬・二月十五日 / 冊子 59頁
島津家久譜の記事。慶長十一年二月上旬、島津忠恒が江戸へ向かうため鹿児島を発ち、官道を通って同月十五日に京都へ着き宿泊した。供奉の家老は比志島紀伊守国貞・伊勢兵部少輔貞昌・山田民部有栄で、ほかの従者名は伝わらない。島津義弘は本田源右衛門尉親同・伊勢平左衛門尉貞成および旗手の士を遣わし、忠恒を乗船地の港まで見送らせたことを記す。
慶長十二年十一月八日 / 冊子 133頁
慶長十二年十一月八日、伊勢平左衛門貞成が肥前寺沢侯のもとへ使者として赴き、高畠仲兵衛と戦って唐津で死去したこと、および享年三十九歳と記す記事。
年月日未詳 / 冊子 133頁
島津惟新が寺沢広忠への使者に伊勢貞成を選び、主従五十二人で唐津へ派遣した経緯と、帰途に寺沢家臣高畠仲兵衛が貞成を茶に招いて襲撃し、戦闘に至った事件を記す系譜記事。
慶長十二年十一月十一日 / 冊子 133~134頁
慶長十二年十一月十一日、寺沢広忠が島津家久(羽柴陸奥守)へ、天草で起きた伊勢貞成と高畠仲兵衛の不慮の争いについて、自身に企図や指示は全くなかったと諸神に誓い、虚偽なら神罰を受けるとした起請文。
(慶長十二年)十一月十一日 / 冊子 134~135頁
慶長十二年十一月十一日、寺沢広忠が島津家久(羽柴陸奥守)へ、伊勢貞成をめぐる不慮の事件に自分の疎略はないと起請文で申し入れたこと、惟新への説明には難儀しているため、家久から疑いのない旨を取り成してほしいと頼んだ書状。
(慶長十年)正月十日 / 冊子 2頁
島津義弘(惟新)が樺山久高へ、久高が望んだ肩衝について、山口殿の内覧前なので直ちに他所へ出せず、下向時に相談すると回答した書状。在京衆の普請での辛労をねぎらうよう頼み、山口殿宛書状を添えて適任者に太刀を持参させること、詳細は伊勢平左衛門尉が伝えることを述べる。
年月日未詳 / 冊子 5頁
島津義久(龍伯)が病気と老齢のため上洛を延期したので、島津忠恒が代わって薩摩を発ち、家老らを伴って三月に大坂へ到着した経緯を記す譜記事。本多正純・山口直友の書状で上洛を促されたこと、徳川家康が二月十九日に上洛し、徳川秀忠も十八日に江戸を発ったとの福島正則の報知を掲げる。
(慶長6年か)11月11日 / 冊子 70頁/原整理番号 61
伊勢貞成が平佐城普請について二か条を定め、兵糧は一日三度・一人七合五勺ずつとする。御蔵から出す用物と普請関係の扱いは北郷作左衛門・相良新右衛門の指示に従い、怠りなく納めるよう鬼塚主税介・宮路三之丞へ命じる。行間朱書には年代や城修築の背景に関する推測がある。
慶長十一年三月四日 / 冊子 59~61頁
慶長十一年三月四日に催された『詠花有喜色』を題とする和歌会の詠草。島津義久・義弘をはじめ家臣や僧侶らが、春の花の色、霞、雪、風、長閑さなどを詠み交わした。
廿日 / 冊子 379~380頁
小吉へ送った捻りの件を了承し、船越殿が十四、五日ごろ来訪する見込みなので、それまでに関係者と相談して演目らしき事柄を整え、早く聞き取って稽古するよう促した島津家久書状。
慶長年間十一月十一日 / 冊子 99頁/原整理番号 4
伊勢平左衛門尉が平佐御城普請の兵粮支給について、普請衆一人に一日三度、七合五勺ずつを渡すこと、蔵入から出す費用と普請衆の手配を北郷・相良両名の指図どおりに整えることを命じる十一月十一日付達書。
天文7年3月 / 冊子 199~201頁/原整理番号 67
巻末目録では『莫根氏系図』、本文見出しでは『莫根系図』とする系図。平良文(村岡五郎・従五位下)から忠朝・孝輔・貞道へ続き、貞道を伊作平三、源頼光四天王の一人と記す。貞言・貞元・季基・為賢、兼輔・兼重・季兼・良忠、成道・兼時、成兼以下の諸系線を展開し、河崎・神崎・山口・浜田・樋脇などの名字・居所、官途・位階・法名を添える。成綱―成友の系では鎌倉の長崎圓浄阿闍梨との関係を記し、成友以下から成行・成長・貞友、貞勝・伊成らへ分岐する。貞勝は兵部少輔で筑後にて討死、成政の子成郡は兵部少輔で隈城にて討死とする。成義は山崎八郎左衛門尉・法名浄圓、成智は豊前守で薩州から百次地頭と所領三十町を給わったと記し、成通・成清へ続く。末尾は丹波守成清が天文七年三月に百次で討死した記事で終わる。