谷山稲荷神社由緒書
年月日未詳 / 冊子 733頁
伯圓の代に谷山本城の寺山玉林坊から稲荷宮の籠を移し、神領として田三町ほどを寄附した由緒と、領主交替後も祭祀を継続する誓願を記す。
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年月日未詳 / 冊子 733頁
伯圓の代に谷山本城の寺山玉林坊から稲荷宮の籠を移し、神領として田三町ほどを寄附した由緒と、領主交替後も祭祀を継続する誓願を記す。
年月日未詳 / 冊子 773頁
谷山紫原で薩州勢と戦う際、貴久が伊佐智佐宮に戦勝を祈願し、勝利後に品々と田地十六町を寄進した由緒を記す。
寛永十二年三月十四日 / 冊子 514~521頁
谷山衆について、平山内蔵丞以下の人物名と各人の知行高を高百七石から一石単位まで列記し、総計三千二百七十石二斗とした高究帳。
元亨二年十二月日 / 冊子 489~490頁
谷山五郎入道覚信代俊忠が、谷山郡山田・上別符惣地頭島津道慶の度重なる御下知違背を訴えた重申状。道慶が質人・桑・銭貨などの損物を返さず、先例や御教書を曲解して返還を拒むと反論する。双方の陳状・沙汰経過を挙げ、不糺返の処分、損物返還、別納の御下知を求める。
元亨三年七月廿五日 / 冊子 499~500頁
谷山五郎入道覚信が、谷山郡山田・上別符両村の所務相論について答えた請文。道慶側の度重なる御教書と訴えは先の裁許・使節催促に背くと述べ、事情を知る秋次三位房や関係者の確認を求め、相触れずに審理するよう主張する。
元亨四年六月日 / 冊子 518~519頁
谷山五郎入道覚信代俊忠が、谷山郡内山田・上別符両村惣地頭職をめぐる島津道慶の訴えに答えた陳状。道慶側の主張・契約・年貢・押領物を逐条反駁し、過去年の所務や和与、請文・御教書の経緯を示す。覚信方の由緒と知行を主張し、道慶の濫訴停止を求める。
正中二年六月一日 / 冊子 535~536頁
谷山五郎入道覚信が山田道慶との和与内容を確認した文書。山田・上別符両村の野畠得分、宮園・久吉園等の地利物、領家所務、郡司得分、地頭米・加徴米などについて、弘安以来の下知・帳目・和与に従い相互の抑留を止めると定める。
元徳二年十一月日 / 冊子 586~588頁
谷山郡山田・上別府両村惣地頭職をめぐり、谷山五郎入道覚信の代教信が道慶方へ反論した重申状。覚信は祖父信忠以来の譲状・安堵と先例を示し、関東御下知による所職帯有を主張する。道慶の和与・地頭名子・所務配分などの主張を条ごとに退け、両村地頭職の安堵と違乱停止を求める。
建武元年六月十七日 / 冊子 624頁
谷山覚信代教信が、山田・上別府両村の地頭所務について提出した請文。正中二年の和与状と前年の雑訴決断所沙汰を根拠に、道慶方への得分渡付・分内半分・京上分などの契約履行状況を述べ、未分・難治分の処理を求める。
建武元年六月十七日 / 冊子 625頁
No.1697と同文であるため本文を省略した谷山覚信代教信の請文。山田・上別府両村の地頭所務・和与履行に関する申立てを示す。
永徳二年五月卅日 / 冊子 122頁
今川了俊が漣谷清敷に、薩摩国河辺庄地頭職について御下文どおり島津伊久の代官とともに遵行し、谷山・鮫島らを退去させて請取を提出するよう命じた書下。谷山・鮫島には替地を与える方針も示す。
年月日未詳 / 冊子 174頁
恕翁公譜の記事として、谷山郡司入道佛心とその一族に反逆の風聞があり、元久が警戒と地域防衛のため一族・被官の配置を改め、実久へ報告した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 301~302頁
応永二十四年、河邊松尾城と鹿児島・谷山方面で起きた攻防を記す。伊集院・伊作方と久豊方が城を奪い合い、鹿児島・谷山の軍勢が出動し、多数の戦死者を出しながら援軍・包囲・退却を繰り返した経過を述べる。
嘉吉二年十月廿六日 / 冊子 406頁
やなせ好為が、谷山郡の『わたのひこ二郎』屋敷内にある伊佐智佐権現の土地について、違乱が生じた時はこの証状を証文として差し出すよう定めた証状。
年月日未詳 / 冊子 674頁
大永七年二月十八日、伊集院・谷山での動きにより少数で移動した勝久らが福昌寺大廣東堂へ入り、虎寿丸や忠良側との関係が展開したことを記す。
十月廿一日 / 冊子 691~692頁
伊集院与左衛門が、伯囿方との御談合、谷山・川邊方面の敵情、伊東・新納両軍の動き、追撃と戦死者などについて報告・回想した覚書。
(天文八年)十月一日 / 冊子 736頁
島津勝久が入来院殿に、河辺衆が谷山へ攻め入り鹿児島勢百人を討ち、郡山宇良を破った戦況を報じ、市来浦方面の措置と出陣を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 773頁
島津貴久が上之山へ出陣し、紫原で谷山勢と戦った経過を樺山玄佐が記す。平田備中守・阿多源太左衛門らが敵を敗走させ、夜中に城を攻撃した。神前への守備指示、伊集院大和守との交渉、使者派遣を通じて翌段階の攻城準備を進めた。
年月日未詳 / 冊子 775~776頁
谷山神前城攻撃の相談に基づき、伊集院某ら二手の軍勢が火を合図に夜襲した経過を述べる申状。城内へ突入して守兵と戦い、負傷しながら味方と合流した働きを記す。忠良・貴久へ軍忠を報告し、戦功に応じた恩賞・知行を願う。
年月日未詳 / 冊子 776頁
伊集院某が貴久・勝久の時代に一族が果たした奉公を列挙した書出。谷山・鹿児島方面への軍役、城攻めと夜襲、戦場での負傷、伊集院衆・谷山衆との戦闘を挙げ、忠俊以下の家臣・子孫も継続して働いたとして、知行・恩賞の根拠を申し立てる。
天正四年八月 / 冊子 502頁
高原城を詰めた際、友野元真が市来玄蕃左衛門・谷山佐渡介・四本越中守とともに垂之口から城を越え、敵方の肥田木河内守と対した奉公を記す。
天正五年二月吉日 / 冊子 511~512頁
薩摩国谷山郡の浮免地として、谷山紀伊介先の烏帽子田一反を原口甚兵衛に示した坪付。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
天正十五年四月二十五日、豊臣秀吉が川内の太平寺へ着陣し、西国諸将の大軍と舟橋で人馬を渡した。平佐城へ降伏を迫ると、城方は「賢人は二君に仕えず」と旧主への忠義を理由に拒絶。二十八日には城門・藤崎小路で激戦となり、高木帯刀・谷山紀伊守らが奮戦して京衆・在地衆を感嘆させた。
年月日未詳 / 冊子 905頁
松元権兵衛が、慶長八年八月十七日に鹿児島浦の谷山で伊集院千寿・三郎五郎兄弟の死に関わる戦闘に加わり、初めに敵と斬り合って二か所の刀傷を負ったことを記す。谷山大左衛門・石塚才右衛門の名も挙げる。
(寛永九年)七月六日 / 冊子 292~293頁
島津久元が、家久の指示を谷山孫右衛門尉・国分帯刀長に伝えさせ、帯刀長の馬の件を処置するよう命じた書状。併せて、肥後の有力者が剃髪して退去し熊本城が無事に渡される見込み、肥後への諸国衆の動員・人質や家臣配置、伊勢貞昌の病状と後任・奉公人選、惟新供衆の名簿などを詳報した。
年月日未詳 / 冊子 300頁
『殉国名藪』の記事。寛永九年七月二十七日、谷山兵八が兼家の臣として殉死したことを記す。
八月十二日 / 冊子 141頁
今川了俊が澁谷馬五郎に、河辺庄をめぐって谷山・鮫島らが命令に従わない件への対応を述べた書状。守護人の再出兵や八代方面での私戦を戒め、国人・一族は公方の御用に立つべきこと、京都で沙汰を受ける可能性を伝えて心得を求める。
十一月一日 / 冊子 273~274頁
島津勝久が、河辺・谷山方面へ進軍して鹿児島衆と合流し、敵約二百人を討ち取り谷山神前城まで追い詰めた戦果を入来院殿へ報じた書状。
年月日未詳 / 冊子 339~340頁
上方からも無事の知らせが届いたことを喜び、十四日の朝に訪ねると約し、前日に弾正殿を狩りへ登らせて鹿を獲るよう命じ、狩衆は谷山衆へ手配したと知らせた島津家久書状。
弘安九年六月十一日 / 冊子 326頁
新造御所の持仏堂・渡廊の用途について、薩摩国谷山郡司資忠に先例どおり早く催勤させるよう命じた関東御教書。
弘安十年十月三日 / 冊子 332~334頁
谷山郡司五郎資忠と山田別符地頭側の久親らの相論を条別に裁許した関東下知状。地頭屋敷の設置と代官人数、非法・住民不安、殺害事件の責任と科料、悪口をめぐる応酬などについて、申状・陳状・証文と先例を検討し、停止・処罰・安堵の可否を定める。
正応四年三月十三日 / 冊子 362頁
道智が預かった文書として、大隅殿御譲状、谷山地頭職関係文書、鎧の譲状、忠真譲状、御教書などを一通ずつ列挙し、文袋に封じて保管したことを記す預状。
正安二年七月二日 / 冊子 394~407頁
薩摩国谷山郡山田・上別符両村ほかをめぐる、地頭宗久・資忠、地頭代、百姓、寺社関係者らの多数の相論を条別に裁許した長大な鎮西下知状。所務・年貢、公事、押領、検注、刈田、質物・借米、屋敷・田畠、寺社領、山野利用、盗難・悪口、身代拘留、殺害・傷害などを、下知状・譲状・売券・帳簿・証人・先例の有無で検討し、返付、弁償、停止、召出し、再審、立用不可等を命じる。
元亨二年十一月日 / 冊子 488頁
島津道慶が谷山郡内山田・上別符両村の地頭職所務を訴えた申状。谷山郡司五郎入道覚信が十八年の請所年季を過ぎても所務を返さず、年貢を違期し、構事・濫妨を続けると述べ、早く停止して所領と押領物を回復するよう求める。
元亨二年十一月廿五日 / 冊子 488頁
島津道慶が訴える谷山郡山田・上別符両村の所務について、訴状副具の内容を審理するため早く参対するよう谷山五郎入道へ命じた鎮西御教書。
元亨三年九月廿八日 / 冊子 508頁
島津道慶が訴える谷山郡山田・上別符両村の所務について、谷山五郎入道へ連絡し、その請文を進上した平重基の請文。
正中二年六月一日 / 冊子 534~535頁
山田道慶と谷山五郎入道覚信が、谷山郡山田・上別符両村の地頭所務を和与した文書。野畠・宮園・久吉園などの地利物、郡司得分、地頭米、加徴米、拾伍石定などを項目ごとに分け、互いの抑留を止めて先例・証文どおり知行することを定める。
正中二年十月十日 / 冊子 540~541頁
谷山郡山田・上別符両村の地頭得分をめぐる谷山五郎入道覚信と大隅式部孫五郎入道道慶の相論を、正安二年・弘安十年の下知と和与状に基づいて裁定した鎮西下知状。野畠・宮園・久吉園、領家所務、郡司得分、地頭米・加徴米等を和与どおり分掌させる。
正慶元年十二月五日 / 冊子 602~604頁
谷山郡山田・上別府両村の地頭職をめぐる、谷山五郎資忠法師覚信と道慶子息諸三郎丸の相論を裁いた下知状。覚信方の譲状・安堵と重代相伝、道慶方の所務・和与・契約、地頭得分の配分、抑留物を条別に審理し、山田・上別府地頭職を覚信方へ安堵して違乱を停止する。
元弘三年七月日 / 冊子 614頁
山田忠能と舎弟亀三郎丸が、薩摩国谷山郡山田・上別府両村地頭職について連署した申状。北条英時誅伐時に忠能父子・一族が軍忠を尽くしたと述べ、恩賞として所領安堵を求め、将来の亀鏡とするよう願う。
建武元年六月日 / 冊子 624頁
山田道慶が、谷山郡山田・上別府両村の地頭所務・得分物について、谷山郡司五郎入道覚信代教信の請文へ反論した申状。相伝・和与・証文に基づく権利を述べ、覚信方の押留を止めて旧来の所務を回復するよう求める。
建武元年十一月十一日 / 冊子 629頁
山田上別府両村の所務・得分物をめぐる山田道慶と谷山覚信代教信の相論について、教信の請文を踏まえて沙汰し、得分物の引渡しなどを命じた雑訴決断所牒。
建武二年三月日 / 冊子 634~635頁
山田忠能が、薩摩国谷山郡山田・上別符両村は父道慶以来の重代相伝地であると主張し、谷山覚信との契約・得分物の取扱い、正中年間以来の訴訟経過、道慶の注進等を挙げ、覚信方の押妨を止めて地頭得分を知行させるよう重ねて求めた申状。
建武二年八月九日 / 冊子 637頁
谷山郡山田・上別符の検断物について、任御教書の旨に従って返付するよう求め、折節役所が労火で急ぐ旨を伝えた僧仁巻書状。
建武二年三月日 / 冊子 654頁
No.1733と同文であるため本文を省略した、山田忠能の重申状。山田・上別符両村地頭職が父道慶以来の重代相伝地であるとして、谷山覚信方の押妨停止と知行回復を求める。
年月日未詳 / 冊子 821頁
谷山郡司平忠高追討に際し、鹿児島近辺の兵粮を確保して波平へ布陣し、弟祐玄らを指揮して敵軍に備えた島津道鑑の軍事行動を記す。
天明五年十一月十五日 / 冊子 836~837頁/原整理番号 2298/整理ID 2298
宮之原通直は、琉球国王からの書を受けたと記し、太守の厄年に際して守札数巻と願文を進上するため江戸で披露するよう伝える。天明五年十一月十五日付で讃谷山王子・三司官に宛てる。
天明五年十一月十五日 / 冊子 837頁/原整理番号 2299/整理ID 2299
宮之原通直は、中城王子からの書を受けたと記し、太守の厄年に際して守札数巻と願文を進上するため江戸で披露するよう伝える。天明五年十一月十五日付で讃谷山王子・三司官に宛てる。
文化2年10月25日(朱注) / 冊子 255頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0821
国王様からの尊書を拝見し、御隠居が願いにより剃髪したことへの祝儀を申し上げた書面の趣旨について、江府に到着して披露したので、その旨を洩達するよう返す。文化2年10月25日の朱注、赤松市正・川田伊織・菱刈下総・頴娃信濃の四名実名判、読谷山王子宛。出典は重豪公御譜中、写正文在琉球国司。目録標題は頴娃久喬外三名家老連署書状。祝いの対象は剃髪、具体の祝儀品目は本文にないので補わない。書状の宛先を御隠居へ置き換えない。
文化2年10月25日(朱注) / 冊子 255頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0822
国王様からの尊書を拝見し、太守が昨年伺いどおり改名したことについて御隠居へ祝儀を申し上げた書面の趣旨を、江府に到着して披露したので、その旨を洩達するよう返す。文化2年10月25日の朱注、赤松市正・川田伊織・菱刈下総・頴娃信濃の四名実名判、読谷山王子・三司官宛、出典は全上。改名の実施時点を返書の前年として区別し、本文にない具体品目や新旧名は補わない。