密厳院亮政書状
三月十日 / 冊子 189頁
新調された太元明王像三幅の開眼供養を済ませて進上し、祈念に精誠を尽くした守り二つも送ったことを披露するよう頼んだ密厳院亮政書状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
21 件 (全巻)/ 1–21件を表示
ページ 1 / 1
三月十日 / 冊子 189頁
新調された太元明王像三幅の開眼供養を済ませて進上し、祈念に精誠を尽くした守り二つも送ったことを披露するよう頼んだ密厳院亮政書状。
(慶長二年)五月廿三日 / 冊子 102~103頁
島津忠恒が本田源右衛門尉に、三原諸右衛門尉を通じて先に伝えた事項を確認し、奥地への出勢が決まったため、人馬を早急に渡海させるべく八木民部左衛門尉・関帖右衛門尉を派遣したと報じた書状。幸侃が上洛した場合の情報収集を命じ、遅滞や讒言を戒める。
(慶長三年)三月廿八日 / 冊子 201~202頁
島津龍伯(義久)が又八郎へ、薩摩・大隅諸県の番衆が辛労していることを承知し、たびたび音信する三原諸右衛門尉へ祝着の意を伝えるよう求めた書状。派遣した両使のうち竹内兵部少輔は今回渡海するため、諸事情を申し含めてあるので詳しく聞くようにという。又八郎が望んだ龍伯所持の相州国広の刀を国元から取り寄せ、急いで仕直して贈ったこと、別の品二懸も添えたこと、在京中の宰相殿の子が健固であることを知らせる。
(慶長六年)十二月五日 / 冊子 790-791頁
島津惟新が家の行末をよく吟味するよう諭し、図書殿の上洛をめぐって鹿児島衆が三原諸右衛門尉宅で武力行使を相談したとの風聞を問題視する。騒動を止め、船・酒宴・喧嘩などにも油断なく統制を徹底するよう命じる。
(慶長七年)七月十一日 / 冊子 825頁
島津義弘が忠恒へ、有方某の上洛を協議中であると伝える。交渉内容が漏れれば使者が困るため、三原諸右衛門尉ら協議参加者に口外しない旨の神文を提出させ、道中の供人が離脱しないよう備えることを求めた。
(慶長七年)八月廿四日 / 冊子 841頁
島津惟新が本田六右衛門尉へ、忠恒の出船後に音信がなく案じていたが、三原諸右衛門尉から無事を聞き、二度の大風にも遭わず到着したことを喜ぶ。供奉衆に油断なく奉公させ、忠恒へ伝言するとともに、旅先の様子を詳しく知らせるよう求めた。
(慶長九年)九月朔日 / 冊子 942頁
山口直友が龍伯側近へ、使者三原諸右衛門尉の帰国に託して両御所の無事を報じる。忠恒は当年在国し、翌春早々に上洛するよう命じられたとして、準備と相談を怠らないよう求めた。
(慶長十年)三月廿七日 / 冊子 9~10頁
島津忠恒(家久)が島津義弘(惟新)へ、安芸国高崎で三原諸右衛門尉に会い、順風に恵まれて予想より早く上洛できそうだと報じた書状。鹿児島の留守中の処置、とりわけ唐船への注意を求め、前年に秋月殿領へ漂着した唐船が江戸で問題となったことを踏まえ、各浦の唐船奉行へ指示を出したと述べる。唐人の訴えは通事だけに任せず書状を取り、大龍寺で老中衆と直接相談して解決するよう命じ、詳しくは三原の口上に委ねている。
(慶長十年)七月十一日 / 冊子 23頁
鎌田政近が樺山権左衛門尉へ、前日の石船に関する相談を受け、黄金三百五十匁分と銀百五十枚を三原諸右衛門尉・相良勘解由次官・有川仲右衛門尉が受け取ったことを報告した書状。上州様への礼、和久甚兵衛尉の使者としての滞在、腰物、伊勢平左衛門尉からの詳報についても伝える。
年月日未詳 / 冊子 36頁
島津家久譜の記事。島津忠恒が、帰国に関する謝礼、平戸に漂着した琉球船の件、領内を検分したものの命令に応じ得る大船がなかった件などを伝えるため、三原諸右衛門尉重種・喜入吉兵衛尉久洪を使節として駿府および淡路国岩屋へ派遣し、各所で事情を述べさせた。詳細は本多正信・久永源兵衛尉・向井将監・山口直友の返報に見えると記す。
(慶長十一年)三月廿七日 / 冊子 61頁
本文はNo.28と同文のため省略されている。内容は、島津忠恒(家久)が島津義弘(惟新)へ、安芸国高崎で三原諸右衛門尉に会い、順風により早く上洛できそうだと報じ、鹿児島留守中の処置、とりわけ唐船への注意を求めた書状である。前年に秋月殿領へ漂着した唐船が江戸で問題となったことを踏まえ、各浦の唐船奉行へ指示を出し、唐人の訴えは通事だけに任せず書状を取り、大龍寺で老中衆と直接相談して解決するよう命じている。詳細は三原の口上に委ねた。
慶長十九年六月廿七日 / 冊子 529頁
菱刈郡里村の長谷川氏に、薩摩国大口の浮免三石五斗を知行として宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた三名連署知行目録。
五月廿三日 / 冊子 164頁
奥入りが決定したため兵員・馬を早く渡海させるよう八木民部左衛門尉らに命じ、伊集院忠棟が上洛した場合は三人で事情を聞いて尽力するよう求めた。少しでも油断すれば国家滅亡に至ると強く警告した書状。
慶長十年七月上旬 / 冊子 23頁
将軍家が島津忠恒に、翌年の江戸城築城用の垣石を運ぶ大船三百艘を建造するよう命じた記事。忠恒は帰国後に準備を整え、本多正純・山口直友の相談を受け、三原諸右衛門尉らに造船を担当させ、費用として黄金三百五十枚を受領した。
(慶長十九年)八月十二日 / 冊子 544頁
有馬辺の様子を案じて本田伊賀守を現地に置く意向への返書。急に軍勢を入れる必要はないと見込み、必要時は山口直友・三原諸右衛門尉と相談して報告するため、本田をひとまず帰宅させるよう述べる。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 533頁
慶長十九年七月廿三日、隈州肝付郡串良岡崎村内の浮免二石三斗四升二合を上之御諏方の神領として寄附し、同社に領知させ、今後の神事・公役を怠りなく勤めるよう命じた連署寄附状。
(慶長十九年)八月十三日 / 冊子 545頁
本田伊賀守らが見回りのため当地へ派遣されたことを報告する。先便のとおり当面は軍勢を必要とせず、本田にはひとまず帰るよう伝え、必要になれば遅滞なく要請すると回答する。
五月十一日 / 冊子 164頁
朝鮮在陣の大名へ秀吉朱印状が出され、島津勢の軍役を千人とする命令を受けたため増員を求めた。浜市・帖佐・鹿児島から兵員と馬を集め、七月中に必ず参陣させ、軍勢を整えても遅参すれば無意味なので直ちに出船させるよう三人へ厳命した書状。
正保四年十一月十三日 / 冊子 164頁/原整理番号 115
正保四年十一月十三日、家光公の御上覧に関わる真犬追物手組。島津諸右衛門尉・本田甚兵衛尉・島津弥市郎らの割当と、検見、喚次、執筆、幣之役を列記する。手組の番次を示す見出しがある。
三月八日 / 冊子 373頁/原整理番号 456
『清敷丸乗合人数覚』は、清敷丸の船頭志摩允を掲げ、野村新兵衛・岩助・谷口助右衛門尉・九左衛門・竹之内次郎兵衛尉・善兵衛・谷山諸右衛門尉・相良小右衛門尉・源太・池田助六・同名源左衛門尉・大左衛門の乗合十二人を列挙する。
正保四年十一月十三日 / 冊子 93頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0178
樺山諸右衛門尉久広譜中の記事。十一月十三日、光久が王子村で張行し将軍家の台覧に備えた犬追物に、本文では久列が射手に列したとあり、小字に久広かとの注が付く。登城して奉拝し衣服を拝戴したと記す。別注では樺山長門忠則もこの時の射手と譜中にあるという。