樺山規久譜
天正六年十月二十日~十一月十一日 / 冊子 558頁
大友宗麟・義統が六か国の兵を率い、天正六年十月二十日に日向高城を包囲して四か所に陣を構えた。十一月十一日、島津方が財部から進み大友方の松山陣を破って包囲の一面を解くと、樺山規久は高城へ入った。同年、穆佐の地頭職を与えられた。
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天正六年十月二十日~十一月十一日 / 冊子 558頁
大友宗麟・義統が六か国の兵を率い、天正六年十月二十日に日向高城を包囲して四か所に陣を構えた。十一月十一日、島津方が財部から進み大友方の松山陣を破って包囲の一面を解くと、樺山規久は高城へ入った。同年、穆佐の地頭職を与えられた。
天正十一年 / 冊子 747頁
天正十一年、肥後国日比良城を攻め落とした際、樺山規久が敵を討ち、浅い傷を負ったことを記す譜中記事。月日は追考すべきとの注記がある。
天正十二年三月二十四日 / 冊子 871頁
三月二十四日の島原合戦で龍造寺隆信の軍が敗走した際、樺山規久は刀を振るって繰り返し敵を斬り、戦功を挙げた。
年月日未詳 / 冊子 74~75頁
天正十三年閏八月十三日の肥後堅志田城攻めで、樺山規久が敵兵と接戦した記事。牧之瀬筑前守・長田筑前守・緒方仲右衛門尉らが各一人を討ち、川添惣右衛門尉は規久の目前で負傷した。個人名と戦果・負傷を列挙し、規久隊の近接戦闘を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 505頁
天正十九年、豊臣秀吉が肥前名護屋城を築いた際、樺山規久も島津義弘に従い、築城・出兵準備に尽力したことを記す譜の記事。朝鮮出兵の拠点造成に島津家臣が動員されたことを簡潔に示す。
年月日未詳 / 冊子 721頁
樺山規久が義弘に従って朝鮮へ渡り、京畿を経て金化と称する地へ移陣し、弟の久高と同宿して越年した経過を記す。 元日、兄弟が立春・雪・旅衣を題に詠んだ和歌三首を収め、朝鮮陣中で迎えた新年の心情が伝わる譜記事。
元亀三年九月廿七日~天正元年三月十八日 / 冊子 294頁
元亀三年九月二十七日の垂水早崎陣と、その後の禰寝・肝付方面の軍事・交渉に関与した将兵を列記する。大将島津歳久、肝付兼寛・鎌田外記・伊集院久春・上原尚近らのほか、禰寝重長との密議・和議を担った宝持院・八木越後守、新納忠元ら、天正元年三月十八日の西俣合戦で働いた島津忠長・樺山規久らを掲げる。
天正六年十月 / 冊子 597~598頁
高城合戦の日、樺山規久が島津家久に代わって城へ入り、十二日の大戦に備えたことを記す。樺山忠助は体調が悪く出陣しなかった。数代にわたる忠節の家として規久が穆佐・高城を拝領し、戦死した伯父忠副の跡を継いで一族を率い穆佐へ移った経緯を述べる。
天正六年十一月 / 冊子 598頁
樺山規久が高城防衛に入り、数代の忠節によって穆佐・高城を与えられ、戦死した樺山忠副の跡を継いで一族を率いたことを伝える。樺山家の由緒と、高城合戦後の所領拝領を家門繁栄の徴として記す。
天正十一年春夏 / 冊子 754頁
天正十一年春夏までに内空閑・合志・津守・木山・三船・隈之庄との境を小競り合いで安定させたこと、相良義陽が三船で敗死したため薩摩から八代へ番兵を置き、忠平が八代に滞在したことを記す。樺山紹剣が吉利氏と番替して八代へ赴いた後、樺山規久が日比良城を攻略し、負傷しながら敵を討たせたことも載せる。
天正十二年三月 / 冊子 874~875頁
龍造寺隆信が有馬氏を攻めたため、島津方が安徳へ番衆を送り、家久を大将として渡海させて島原への通路を断った経緯を記す。寡兵で隆信の大軍を破り首八百余を懸けたとし、義久は後詰として八代に在陣した。樺山久高らは隈本・合志方面を巡って調略した。
天正元年三月十日~十八日 / 冊子 302頁
天正元年三月十日、薩隅軍が禰寝城へ入り、義久は指宿に進んで肝付兼続討伐を指揮した。十四日は大雨で戦えず高洲浦の船を奪って帰り、十八日に西俣で肝付勢と交戦した。歳久・忠長らが奮戦して敵を破り、禰寝重長も参戦して凱歌をあげた。重長はのち指宿で義久に謁し、鹿児島で数日饗応を受け、横尾合戦では敵五十余人を討ったとする。
天正八年八月十九日 / 冊子 663~669頁
天正八年八月十九日の水俣城攻めにおける三陣の構成を詳述する陣立日記。家久・征久を中心とする先陣、義弘を大将とする第二陣、義久本陣と歳久・忠長らの後陣について、脇大将・役者・各外城地頭・物頭・近習・納殿衆・兵具・人足を列挙する。各陣約三万一千人、旗本を含む総勢十一万五千人の賦とし、水俣城の球磨・八代勢を包囲する配置を記す。
天正八年八月十九日 / 冊子 672~675頁
天正八年八月十九日の水俣城攻めにおける陣立日記の別本。笠陣を先陣として家久・征久ら、第二陣に義弘・北郷忠虎ら、本陣・後陣に義久・歳久・忠長・義虎らを配し、各地頭・物頭・近習・兵具持・人足まで列挙する。三陣の総勢を十一万五千人とし、球磨・八代勢が籠もる水俣城を包囲した編成を記録する。
年月日未詳 / 冊子 305頁
樺山忠征譜が、慶長三年冬の帰朝と伏見での競馬を記す。日本諸将は釜山城から同日に出帆すると約束したが先に去り、義弘父子と島津豊久だけが残って翌日出帆し、無事博多へ着いた。忠征は義弘父子と上洛する途中に豊前小倉で越年して伏見へ到着した。伏見滞在中の賀茂祭では、乗り手のいなかった島津家の馬に忠征と矢野休二郎が乗り、滞りなく競走して見物人の称賛を得た。
年月日未詳 / 冊子 59~66頁/原整理番号 57
天正八年八月十九日の肥後芦北郡水俣城をめぐる三か国勢の陣立を記す。家久の先陣、忠平の中陣、義久の本陣に関わる大将・地頭・外城衆・御内衆を列挙し、武具奉行、旗本、手替、付衆、台所などの役人数を記す。本文の陣別小計は三万一千・三万一千・五万三千人で、末尾の十一万五千人に合う。多数の異本注に人名・人数・外題の違いがあり、季安の校合上の疑いも併記される。
年月日未詳 / 冊子 881頁
「樺山太郎三郎忠征規久譜中」と所収先のみが示され、この頁には対応する本文が見当たらない。 具体的な出来事・年代を補える材料がないため、別巻・関連譜の照合が必要である。
目録年月日記載なし / 冊子 406~407頁/原整理番号 2
地頭樺山規久らに関する旧記を引き、穆佐城内の坪・屋敷と悟性寺の移転、城内の火災後に残った植樹や石塔の所在を考証する。石塔の由緒を義天や島津家の旧記・伝承と照らし、寺の現地を特定する根拠を吟味する。